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喜劇  作者: 新原氷澄


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喜劇2 アンタゴニスト Chapter.3(前)

「吾輩は猫である」の夏目と中村の名前は、「猫」の作家である夏目漱石と、挿絵を担当した中村不折から名前を頂きました。不撓という名前はとても気に入っています。


 二人は昼過ぎに住吉の自宅を発った。外は蕭雨が降っていて、白い太陽がスカイツリーの尖頭を淡く霞ませていた。腕に傘をひとつずつ下げて地下鉄に乗り、新宿三丁目駅で降りて地上に上がると、視界が人の波で埋まった。休日の新宿は、不愉快そうな灰色の空に包まれていた。


 新宿はある独特の匂いがする。それはちょっと甘いような柔らかいような不思議な匂いで、腐敗した杏の匂いと似ている時もあり、雨に濡れた柘榴の花の香気を感じる時もあり、通り過ぎる人を物憂い気分と愉快な気分に二分していく。東京暮らしに未だ慣れない青崎と、繁華な街に用のない伊丹は前者に分けられた。そして、慣れない街を歩くためには、都市の大動脈である三〇二号線を渡るにも、見知らぬ人と肩を寄せ合うように歩かねばならないことを知り、改めて人の多さに眩暈を感じた。


「新宿に住んでる漫才師ておるんやろか」


 ――街路の隅に漂う静かな死の影が、青崎の頭に唐突な考え事を浮かばせた。色とりどりの看板の中に視線を潜り込ませても、白い腹を晒して動かない鼠の死から、目を逸らすことはできなかった。踏みつけにしないよう脇を通り過ぎ、振り向かずに心の中で祈った。それしかできないから、せめて言い訳をしないでおこうと思った。


「そりゃおるやろう。ルミネあるし、交通の便はええし、金さえあれば住みたい街やないの?」


「こんな何でもある街で生きてて、漫才しようなんて思うやろか」


 伊丹は前を歩く派手な髪色のカップルを眺めながら、問いの答えを考えた。


 青崎の言う通り、この街には何でもあるような気がした。高級な品が並ぶ百貨店、一目置かれているブランドのスポーツウェア、大小の劇場、古風な演芸場、黒塗りに白文字で飾り立てた街宣車、華やかなディスプレイアート、ネオンが喧しいドン・キホーテの看板、客を物色している悪質な客引き、浮かれて道に広がる男子学生の集団、化粧品会社の戯画、空き缶とスプレーの落書きの間でパンハンドリングをしている老年の女性。


 青崎の静かな目は、そのひとつひとつを憐れむように撫でていった。その視線が自分の顔を過るのを感じながら、伊丹は相方の顔を見上げた。


「雲雀は新宿に生まれてたら、どんな人生送っとったと思う」


「そやなぁ……想像もつかんけど」


 前を歩くカップルの足元に、白い子犬が巻き付いている。女は長い爪先を器用に動かし、犬のリードを操る。ブランド物のパーカーを着た二十代と思しき男の方は、意外な優しさで子犬の足が道路にはみ出ないよう見守ってやっている。


「なんかちょっとだけ、悲しい感じがする街やな、ここは」


 子犬の足取りを、道行くバックパッカーたちが避けていく。スーツ姿の男は、スマートフォンにくぎ付けになったまま目もくれない。ブランドのロゴが入ったリュックを背負った少女たちが、犬を背景に写真を撮っている。彼らの視界に入らないところにある鼠の死骸も、先程と寸分違わずそこに横たわっている。


「そうか。そうかもしれんな」


 伊丹はこの街で生きる青崎の姿を夢想した。その世界には寂しさも孤独もなくて、青崎が持つ、固く張り詰めた空気の抵抗も、きっと存在しない。人に愛されて、人を信頼して育った青崎は、どんな人間になるだろう。この街の地面の下に蠢く暴力や欲望に絡めとられずに、生きていけるだろうか。聡い男だが、世間知らずなところがあるから、少し心配になる。モデルや俳優やその他無数の欲望斡旋者たちが、彼を取り巻くかもしれない。そんな時、青崎はいつもの涼しい表情で一蹴するだろうか。周囲の熱意に押されて、そういう生き方も良いと肯定するだろうか。


「――でも、お前はおらなあかんやろ」


 伊丹の心中の疑問に答えるように、青崎が言った。


「え?」


「お前がおらんかったら、俺は俺の道を歩かれへん。だから俺がどこへいっても、お前はおらなあかんねん」


 青崎が伊丹と出会ったことを、ひとつの運命だと捉えていることが、その答えで分かった。

 伊丹の中で無秩序に散らばっていた思考の糸が、一筋に収斂していった。暗色の思考の糸は仄明るく光る感情の横糸と織り上げられて、美しい綾を成した。伊丹の描いた短い夢は、相応の報いでもって贖われた。


「……ふ、そうか」


 相方の薄い背中をぽんと優しく叩いた。その重さだけが、伊丹にとって確かなものだと分かると、黙っていても爽快な気分になった。指先に触れる温度が、この街を取り巻いている底のない悲哀と、足元の定まらない不安を和らげていく気がした。無関係に通り過ぎる標準語の喧噪も、次第に無害な環境音に変わっていった。

  

「俺が新宿生まれ新宿育ちやったら、めっちゃモテてしもて、漫才やコントの勉強する気なくなるかも」


「いや、大丈夫や。その心配はない」


「分からんやん。都会の洗練された雰囲気が備わって、魅力が爆発するかもしれんやん」


「お前は都会的な雰囲気がないからモテへんと思ってたん? お前はどこで生まれ育っても絶対モテへんで」


「なんでそんなこと言うねん。お前相方をなんやと思ってんねん」


「くるくる頭の、ちんちくりんの、汚い関西弁のツッコミで、動作がうるさい。ついでに服のセンスも良くない……」


「嘘やろ、この流れで悪口言われることある?」


「……コントの才能は俺よりあるけどな」


「……それ言われたら怒られへんやんけ」


 青崎は鞄に傘をひっかけて、ぱちんと気軽に指を鳴らした。


「せっかくここまで来たんやし、今度新宿のコント書いてくれよ」


「お前に安っぽいホストの役とかやらすかもしれへんで?」


「お前が書くんやったらおもろいやろ。「カリスマックス」とか踊ったらええんか、「好きすぎて滅」?」


 手振りだけで複雑なダンスを再現してみせる。街路の地べたで侍る、フリルのスカートを纏った少女が大きく目を見張った。


「お前どんだけ器用やねん」


「昨日、熱出して寝てる間暇でな。動画で粗方覚えた」


「ちゃんと寝とかんかい阿呆」


 伊丹は青崎の鞄についているドッグタグを引いて、「ここから離れよう」と合図をした。キャリーケースや、薬剤の残骸や、空のペットボトルが取り巻く空間で、彼らは目立ちすぎていた。「トー横」の視線は二人を無害なものとして見ているらしかったが、厚化粧の少女や髪を肩まで伸ばした少年の目の中には、二人とは別の寂しさがあって、それが伊丹を少し悲しい気持ちにした。


 玻璃と天使の羽を合成して貼り合わせたような神秘的なデザインの歌舞伎町タワーは、遠くに雷雲を引き連れた薄灰の空の下で威容を晒していた。現代的なビルの表面を覆う薄緑色の玻璃は、時々太陽光の加減で白っぽく、あるいは虹色に輝くこともあった。建物の前で青崎と伊丹がぽつんと立っていると、すぐに友成がやってきた。スーツを着た細腕の袖口に覗く金色の時計は、十二時三十分を差していた。


「おはようございます。お待たせしてしまいましたか」


「いや、時間ぴったりやで。俺らがはよついてしもた」


「では、行きましょうか」


 十三時のライブ開始まで、まだ少し時間がある。しかし、歌舞伎町の周辺に、空いている手ごろな喫茶店などもちろんないのだった。麻雀や居酒屋やシーシャ、その他口に出したくない猥雑な看板を突き付けられるだけでもかなり苦痛なのに、歌舞伎町は、男にも女にも平等に立って待つことを強いる。地べたと路地裏には、無辺の闇と目を覆いたくなるような何かが蔓延っている。それらを避けてこの街で生きようと思ったら、タワーの中に入るしかなかった。

 入口のエスカレーターを上がると、夥しいネオンの光と、中華街を模した派手な看板、宙づりにされた金魚の張子が三人を出迎えた。宙に浮かぶ液晶ディスプレイには「お笑いライブ 十三時から!!」という文字と、花火の映像が映っている。花火は繰り返し打ち上げられ、火花を落としながら散っていった。


「おお……なんか盛り上がってるな」


「祭りでもやってんのか?」


 伊丹と青崎は同時に友成を見る。友成は眉を動かさずに「ここはいつもこんな調子ですよ」と言った。

 伊丹はすんと鼻から息を吸い込んでみた。フロアに居並ぶ雑多な料理店の中から、韓国料理の香辛料、発酵した生魚の匂い、焼酎や日本酒の咽るような香りが、空調が送り込む新鮮な空気に負けて漂ってくる。

 ハレの舞台であるはずの漫才ライブの会場は、わずか一メートルほどの高さの台座があるだけで、透き通った白色のそれは、四方からピンクや紫のライトを浴びせられて、容赦なく安っぽく見えた。舞台の正面には飲食用の椅子やテーブルが、手を伸ばせば容易に届きそうな距離にある。仲間内で楽しそうに盛り上がっている酔客たちの邪気のない揶揄いや呟きも、演者の耳に入るだろう。この現場の仕事を友成が取ってこなかった理由が、伊丹にも自然と飲み込めた。


「友成さん」


 友成と同じくスーツ姿の男が、手を上げながら会場に入ってきた。友成が綺麗な角度でお辞儀をしたので、K社の企画担当者と青崎と伊丹にも見当がついた。どこか目の奥が笑っていないその男は、固そうな髪を軽く撫でてから、「控室にご案内します」と申し出てくれた。歌舞伎町タワーの正面入り口を出ると、大きな紙袋を持った若い女性の集団が入れ違いに入っていった。アイドルかなにかの話がしきりに聞こえてくる。本当に自分たちと縁遠い世界に来てしまったことを、伊丹も青崎も自覚した。

 スタッフ用の入り口へ案内され、重い鉄製の扉を閉めると、喧騒が一気に霧散していった。漸くまともに息ができるようになったと思ったら、今度は忙しく立ち働く裏方の人々に一人一人挨拶をしていく。同じ業界にいれば、いつか共に仕事をすることがあるかもしれないと、友成が考えているのが分かる。自分たちのために深く頭を下げてくれるマネージャーの後ろで、二人も頭を下げた。


「——あれ、西中島南方?」


 控室に入ってすぐ、伊丹は顔を上げて声のする方向を見た。その声には聞き覚えがあった。女性的な柔らかさと、感情が極めて薄い特徴的な声の主は、伊丹の中の驚きを掬い上げるように、白く整った顔にゆっくりと表情を作った。


「久しぶり。下北のシアター以来かな」


「夏目くん、ほんま久しぶり。「猫」さんも今日のライブ出はるんや」


 伊丹のことを覚えていてくれた、見目の整った二十歳過ぎのその男——夏目洸(なつめみつる)は、そっと首を曲げて鏡から目を離し、雨だれに似た美しいピアスを指先で捩じって、首の後ろに逸らした。


「シークレットゲストなんだって」


 どこか他人事のように、ぽつりと呟いた。それは「興味がない」という消極的な意思表示にも、「自分たちなどが」という謙遜のようにも見えた。先ほど伊丹が見た、応援用の団扇を持った女の子たちは、間違いなく若手お笑いコンビのトップに君臨する「吾輩は猫である」の片割れたる彼を待っているというのに。


「え~、でもそらそうかぁ。「猫」さんの人気やったら、この小さい箱でチケット争奪戦になってしまうもんなぁ」


「買いかぶりすぎだよ」


 夏目の透き通った目の奥には高揚の気配さえなく、指先で頬にかかる長い髪を弄るその癖も、美しい憂いの表情に似合いの形のいい影を添えているに過ぎなかった。


「ねえ、ちょうど良かった。久しぶりに話したいと思ってたんだ」


「こっちはええけど、本番前やろ?」


「伊丹くんと話したかったんだよ」


 夏目は青崎にも友成にも興味がないようで、伊丹の名前だけを呼んだ。伊丹が返事をしようとする前に、その静かな、感情の動きのなかった眉がすっと開いた。と、同時に、


「ええっ!? 青崎くんなんでここにいるの!?」


 部屋の中にけたたましい大声と、横っ面を打つような笑い声が響いた。青崎が思わず耳に手を当てて、大音声を防ごうとして失敗していた。


「声がでかい……」


「お笑い芸人なんて声でかくてなんぼでしょうが」


 控室に入って来たのは、ぱつんぱつんに張ったソーセージのような大男だった。ストライプのシャツの胸を揺らし、両手を揉み手するようにハンカチで手を拭きながら歩いてくると、まず青崎に近づこうとして、察した青崎にさっと避けられた。


「お前それ相方にも言うたれや」


「うちの相方はいいんだよ。綺麗系で売ってるんだから。ねー? 夏目」


 男は夏目と並んで、遠慮なく肩を組んだ。デリカシーの感じられない太い指が夏目の華奢な肩に触れると、より一層壊れそうな繊細さが引き立った。


「マイクがあれば声は通るしね」


「「猫」の舞台は、毎回中村と夏目の温度差で風邪ひきそうになる」


 自分たちとは全く違うスタイルで客席を沸かせる存在を、青崎は不思議そうに見ている。マイクを必要としない通りの良い声で、野放図に会場中を我が物顔で練り歩く中村と、三八マイクの前に立ったその瞬間から、シンガーのようにマイクの前を離れない夏目。それが「猫」のいつものスタイルだった。


「今日は何をやりはるん?」


「コントだよ。だから設営もちょっと忙しいんだよね」


 夏目の青と白が半々の髪は、舞台衣装のウィッグだったらしい。よく見るとまだメイクも薄く、準備の時間をわざわざ割いてくれていたのだと分かると、伊丹は急に恐縮する気持ちになった。


「申し訳ない時間帯に来てもたなぁ」


「僕ら出番が真ん中くらいだから、時間に余裕があるんだよ。気にしないで」


「ねえそれよりさ、青崎くん、青崎くんも今日の舞台出てよ。僕と漫才しよ?」


 大きな体を屈めて懇願の姿勢を見せる大男——中村不撓(なかむらふとう)に向かって、青崎は心底嫌そうな顔を見せた。


「絶対に嫌。今日はプライベートで来てんねん」


「なんでぇ。君なんか客席にいたってどうせ目立つよ。女の子たちに見つかって騒がれる前に、堂々と名乗りを上げて出てきてくれたらいいじゃない。「遠からん者は音にも聞けぃ、我こそは御堂筋線の回し者、不倶戴天のSuicaペンギンを討せんと欲す者、西中島南方なり!」とか言ってさ」


「俺らカモノハシのイコちゃんの代理で歌舞伎町タワー乗り込んできてるんちゃうわ」


「新宿のお客さんのこと、俺らあんまり知らへんのよ。だから今日は様子見ってことで」


 伊丹が青崎の言葉足らずを補足すると、中村は重い一重瞼の上に、思案顔の笑みを浮かべた。


「じゃあ、新宿生まれ新宿育ちの僕の舞台で「お勉強」していってよ」


「そうさしてもらおう」


 険のある言葉に取り合わないでいると、「チェッ」と中村が小さく舌打ちをしたのが分かった。


「最初の演者さん、そろそろ会場入りお願いします」


 先ほど顔見知りになったスタッフが、動作だけで友成に退室を促していた。友成の「出ましょうか」という声かけに従い、伊丹と青崎も後に続いた。


「伊丹くん、またね」


 名残惜しそうに手を振ってくれた夏目の表情の中にあるものを掴みかねたまま、伊丹はそっと扉を閉めた。


後半は「猫」のコントを中心に組み立てていますが、次回もまだまだ新キャラが出ます。

引き続きよろしくお願いいたします。

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