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喜劇  作者: 新原氷澄


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20/22

喜劇2 アンタゴニスト Chapter.2(後)

 雨の跡を照らすライトが、街の看板や人の色を反射して、濡れ羽色の影が、街の夜を鮮やかに映し出している。


 不似合いにピカピカ光る靴のつま先を見ずに済むよう、青崎は思いついたボケを間断なく投げ続けた。言葉の雨は四方八方に飛び跳ね、鮮やかに舞い、伊丹のあらゆる感覚を揺さぶろうとする。撮られていることを完全に忘れているかのように、青崎は自由だった。


 伊丹は縦横無尽に駆け巡る青崎の動きをひとつ残らず受け止めようと、ほとんど全方位に反応し、軽やかに平手を宙に留め、向けられるボケの矢を的確に撃ち落としていった。


 立ち上がりの関係作りはゆっくりと丁寧に、後になるほど二人の関係が密になり、思考が重なり合い、言葉の応酬が楽しくなる。そこに言葉の面白さを込めていく日頃のコント台本の作成手法と、ほとんど変わるところがなかった。即興で生まれる青崎の言葉にも、いつの間にか、伊丹の体に流れるリズムや言葉の精密さが宿っているような気がした。


 伊丹はスタイリストが選んだ衣装を着た青崎を、想像の中で「洒落た都会になじめない、ファッション誌の中の虚像」と仮定してみた。黒いロングコートが誂えたように似合い、共揃いの美しいストライプのジャケットとパンツを一切の遜色なく着こなす男が、気取った言葉の後に自信のなさを曝け出したり、都会の人付き合いに慣れていない無垢な精神をにじませながらその役割を演じた。もちろんその役柄には、長い付き合いの伊丹しか知り得ない青崎の本質も含まれていた。


 青崎は伊丹の外見が示す「ファッション誌にそぐわない一般人」の枠を初手で破壊して、「なにを言っても受け止めてくれる万能の人」という魔法のような役柄をくれた。そんな自信も自覚もなかったが、青崎の目にそう映っている間は、そう演じてみようと伊丹は心の中で決心した。エキストラに引っ張り出された友成の目が、伊丹の魔力を否定しなかったことも、吹けば飛びそうな自信を裏打ちしてくれた。


 やがてコントが終わると、自然にできていた人の輪の間から拍手が上がった。


「青崎先生、今日は即興やから辛口はなしで」


 息を切らしながら、伊丹が言った。


「別になんも言うてへんやろ。……即興にしては悪うなかった」


 青崎はいつもの低い囁き声で言った。伊丹は自分から手を差し出して、青崎の手を受け止めた。青崎も前へ一歩踏み出した。


「モデルの仕事のことなんか、なんもわからんけど、お前と阿呆なことやっとるのは楽しいな」


 視界の隅で、鬼束が手を挙げたのが目に入る。二人は同時にカメラを振り返って、手を振った。


「お前はそうやっていつも通り笑っとったらええ」


 青崎が振り上げた手の先、長い指でピースサインを作った。伊丹も右手で同じ形を作った。


「こういう写真でピースなんかしてええのん?」


「あかんかったら鬼束さんがオフショットにしてくれはるやろ」


 結果的にその写真——二つの屈託のないピースサインは、雑誌の表紙を飾ることになる。青崎の目に宿る熾火のような才覚の閃きが、この写真の中では優しくぼやけ、伊丹の前でだけ見せるくだけた雰囲気が写り込んだ。伊丹の顔には柔らかに垂れた眉、そして冷たい雨に晒されたために赤く灯った頬に愛嬌がにじんでいた。鬼束が丁寧にシャッターを切り、二人の才覚の閃きと愛嬌を写真に収めていく音を、友成はそっとほほ笑みながら隣で聞いた。


 まだ温かさの残る風が吹いた。秋の日のささやかな優しさが地上にとどまっているうちに、撮影は進んでいった。二人は互いの顔を見合わせて、いろんな表情を作って遊んでみた。青崎はシャッターの音が聞こえる度に、流れるように違う表情を作り出す技を身につけていた。

 伊丹が引き寄せられるようにその顔に視線を留めていると、青崎は小さく唇を開けて呟いた。


「はぁ、腹減ったなぁ」


「お前が仕事中にそんなん言うん珍しいな」


「お前と友成の顔見たら気ぃ抜けたわ」


 鬼束の右手が上がり、ウイロードのまだらな人の流れがゆるりと解けた。


「はい、二人ともオッケー。お疲れ様」


 青崎と伊丹は通行を妨げていた周囲に深く頭を下げてから、その流れに加わった。


「お疲れ様でした」


 友成の声に、伊丹はほっと人心地がついた。緊張していたのだと自覚すると、即興のコントを披露したことや、カメラの前に立ったことが急に現実味を帯びてきた。


「雲雀、俺大丈夫やったかな」


「…………」


 青崎も一抹の不安を噛みしめるような顔をした。伊丹が喉が締めつけられるような緊張を堪えていると、パソコンの画面を見ていた鬼束が「あ〜よかったよかった。良いのが撮れた」と朗らかに呟いた。


「ほ、ほんまですか」


「うん、伊丹くん本当に雑誌の撮影初めて? びっくりするくらい表情よかった」


 鬼束の言葉を聞いて、青崎を見る。青崎は視線を逸らし、舌を出した。別に心配されていなかったのだと分かって、伊丹の胸に安堵と緊張の名残が混じった。


「お前〜ほんまに焦ったやないか」


「そんなんもうええねん。着替えてなんか食いに行こ」


 セットされた髪をわずかに乱した青崎の腕の陰に身を寄せ、伊丹はそっと声をひそめた。


「俺あかん。池袋で飯食うと絶対腹壊すねん」


「なんやそれ」


「お腹にやさしいもんにしたらええんかなと思うんやけど、池袋でそんな店あるかどうかしらん」


 青崎は、黒い傘の柄を丁寧に回して傘を閉じていた友成をじっと見た。ポケットから出したハンカチで雨の雫を拭いて、それから落ち着いて答えた。


「青崎さんもがっつり食べる気分じゃなさそうですね」


「うん。疲れてるから軽いもんがいいな。なんかいい店あるかな」


「撤収作業が終わったら、ご案内します」


「さすが友成」


 伊丹の明るい声が、友成の整った顔に揺らめくような微笑が浮かんだ。


 遠雷が雲の隙間で薄く瞬き、通りを急ぐ人々の頭上に、薄明の導を優しく落とした。


 *


 見慣れた黒のジャケットと茶色のコートに戻った青崎と伊丹を連れて、友成は池袋駅前にある台湾料理の店に入った。入口のタッチパネルで注文をして、しばらく待つと、台湾の料理屋で出てくるようなアルミのトレイに載った豆乳粥とクレープに似た蛋餅(ダンピン)という副菜が、店の奥で盛りつけられ、運ばれてくる。店内には女性の店員が二人いるほかは、客がほとんどなかった。低い階段を挟んで隣接している芋園の店の方が繁盛しているらしい。


「粥って聞いてたけど、思ってたより具が多いな」


 天井の高い店内を照らす白い光の下で、ちょっと眩しそうに瞬きしながら、伊丹が言った。白磁の器の中に注がれた粥の上に、煮卵と角煮を刻んだもの、青菜の漬物が美味しそうに盛り付けられている。


 友成が背後を振り返ると、青崎はタッチパネルに触れる前に、通りすがりのピンク色の髪の女性からなにか声をかけられて、二言三言、言葉を交わしていた。明らかに初対面の相手でも、青崎は丁寧に、しかし極めて低温に接し、軽く頭を下げた。仕事の一環だと思えば当然ではあるが、友成にはそれがどことなくもどかしく感じられた。


 双方が頭を下げて会話が終わり、ようやくタッチパネルに触れると、青崎は少し逡巡してから、鹹豆漿の単品を注文した。


 銀色のせもたれの椅子に腰かけた後、曇天の空が写り込んだ窓ガラスの向こうに、力を失った細い体がゆらめいた。


「雲雀」


「青崎さん、大丈夫ですか」


 友成は青崎の神経を騒がせないよう、そっと声をかけた。伊丹が顔を覗き込んでも、青崎はふいと目をそらした。伊丹はその動きを予見していたように、さっと青崎の額に手を伸ばして、「お前、熱あるぞ」と言った。


「いつから調子が悪かったんですか」


「……別に大丈夫や」


「お前顔真っ白やで。ずっと我慢してたんちゃうん」


 舌打ちしたいような気持ちを堪えて、友成はすぐに青崎のスケジュールを洗い出した。翌日は休みなので良いとして、日曜と月曜に入っている仕事を即座に空にする必要がある。幸い都合のつけやすい社内の仕事だったので、友成はすぐに予定調整のメールを打った。この時間まで仕事をしていたらしい先方から、比較的軽い了承の返信をもらい、内心ほっとしていると、伊丹が代わりに引き取ってきた食事のトレイを、「冷めるで」と机の上に差し出してくれた。


「食欲はありますか」


「ん、飯は食える」


「今日帰ったら、しばらく休息を取って下さい。それ以降のことは、また相談しましょう」


「……面倒かけて悪いな」


「これが僕の仕事ですから」


 本来ならば、青崎の体が傾く前に気づいていなければならなかった。光の下にさらされて、一層青白くなった青崎の顔を見て、深い夕靄に似た後悔を胸に押し込みながら、友成は箸を手に取った。


「雲雀は昔から体強くないのに無理しよる」


「昨日までは元気やったやろ」


「そうでもない。お前このところずっと、元気なかった」


 伊丹の小言に反論しようとして、青崎は結局黙った。桔梗のように青ざめた顔で何を言っても説得力がないと自覚したらしかった。


 青崎の弱弱しい手が鹹豆漿の上に伸びると、伊丹も少し気の毒になったのか、黙って粥の中に匙を泳がせた。


「ちゃんと食べて寝れば元気になります。ね、青崎さん」


「うん。ちょっと寝たら治ると思う」


「折角休みもらったんやから、なんか気晴らしとかしてみたらどないや」


「気晴らし……」


 天井を向いて、空に雲を浮かばせるような調子で、青崎がぽつりと言った。


「漫才みたいなぁ」


 意地を張る元気のない今、胸に浮かんできたのは、漫才師としての矜持でも、モデルの仕事への不満でもなく、純粋な願望だった。


「そういえば、日曜日に新宿で漫才の公演がありますよ。K社が若手の漫才師を集めて、若者向けに公演を打つと聞きました」


「ほう。そんなんあるんや」


「場所は?」


 友成は灰色の瞳を少しだけ曇らせながら答えた。


「歌舞伎町タワーの2階だそうです」


「おお……めっちゃ人来そう、やけど……ちょっと客層が読めんな」


 伊丹が委縮した、新宿歌舞伎町に威風堂々と聳え立つ繊細な青磁色をした美しいビル。その中には、青崎や伊丹と決して相容れない、虚飾と華美の殿堂のような世界が広がっている。


 ネオンがひしめき合って視界に小爆発を起こす飲食店街、悪い大人が玩具を投げ込んだようなゲームセンター、悪酔いを誘発する安酒だけを揃えたスタンドバー、アニメの映像と現実の肉体が交錯する奇妙な電脳空間――そういったある種の人々にとってはまったく無意味なものが、日本の文化の先端然として居座っているという話を、二人ともうっすらと識っていた。


「……ええやん。ああいうとこでどんなネタがウケるんか見てみたい」


「行ってみよか。歌舞伎町タワーもちょっと興味あるし」


「酒飲まん俺らからすると、普段行く用事ない場所やからな」


 話をしながら、青崎の顔色も幾分和らいだ。新しい舞台への興味か、温かい料理で腹の底が温まったせいか、或いはその両方だろうか、伊丹と友成は口にしないまま安堵した。


「僕も行ってみようと思います。K社には知り合いがいるので、ご挨拶もできますし」


「ほな三人で行ってみよ。同世代の舞台見れるのは嬉しいしなぁ」


「いい感じのんおったら引き抜いたれ、友成」


「それはK社から睨まれるので困ります。……ご自分から移籍したいと仰って下さるのであれば、もちろん喜んでお引き受けしますが」


「どうする雲雀。ライバルが一気に増えるかもしれんで。しかも同じ事務所ときたら、仕事食われるかもしれん」


「そこはうまいことマネージャーがなんとかしてくれるよな? ……おい、目逸らすな、こっち向け友成」


 秋夜にうっすらとした靄が美しくガラス窓を覆うまで、三人は益体のないことを適当に喋った。台湾菓子の並ぶカウンターの中では、二人の若い女性店員が母国語でなにか長々と話していた。軽妙に耳を騒がした音楽は、やがて閉店時間が近づくにつれて、ゆるやかな速度に変わっていった。外にはどこからか漂う金木犀の匂いがこぼれている。無上に明るく、美しい一夜のことだった。



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