喜劇 Chapter.2
押上駅までの短い道中、二人は並んで座席に座った。
電車の中に、目を引くものはほとんどない。落書き一つない車体に、閉じきった暗い窓、無味乾燥の広告が僅かに車内を飾っている。
カタン、カタンと電車の揺れを肩で感じながら、伊丹は青崎の顔をそっと仰いだ。目の下の黒いクマが目に入り、それから高い鼻梁へ、そして色の薄い唇へと視線が流れた。目の前に座る若い女性が、青崎の佇まいに見惚れている気配を感じた。
青崎は噛み付くような欠伸をしてから、黙って目を閉じた。短い前髪が囲う狭い額に刻まれた皺が、少しだけ深くなる。目的地など気にしていないとばかりに、車内アナウンスすら無視した青崎に「押上駅やぞ」と声をかけて、伊丹は先立って電車を降りた。伊丹が案内せねば、どこへ行くか分からないこの男との旅は、面倒一辺倒なのに、どこかワクワクした。
地上二階にあるソラマチの広場では、赤い提灯がずらりと仮設テントの周りを囲っていた。「招財進實」「芒果冰」「牛肉麺」といった見慣れない文字がネオンによって光り、テントの下に並べられた簡易机と椅子に詰め込まれた人たちが食事をしている。ビニールの端が、柔らかい風でかすかに揺れ、提灯の赤をにじませていた。屋台の周囲には、魯肉飯の八角、大鶏排の油、青島ビールの香りが渦巻いていた。
「なぁ、台湾料理の屋台出とるで」
空腹と恐怖を忘れるためにコンビニで買ったコーヒーを啜りながら言った。
「ほんで?」
勿論そう言われると思っていた。青崎は人が多すぎる、というように顔をしかめた。元々この男は食べ物にほとんど関心を示さない。
「腹減ってへんのか」
青崎の眼は、それらの雑多な魅力を無視して、建設から十年近くたってすでに風景の一部となりつつあるスカイツリーの青みがかった白い柱に注がれていた。高さ六百三十四メートルにそびえ、無数の鉄柱に支えられたこの構造物は、移り変わる光の色とともに、観る者を飽きさせない。地上では正三角形で構成されたシルエットが、上空に向かうにつれて少しずつ角が取れて丸い円柱になっていく構造も、興味深いものがある。青崎もそう思ったのか、黙ってスマートフォンを構え、ライトアップされたスカイツリーの写真を何枚か撮った。
「アホみたいにでっかいな」
空を見上げながら、青崎は何かを考えている。こうなった彼にまともな言葉は届かないことを、伊丹は経験で知っている。「台湾料理食べたかったなぁ」と一応自己主張をしながら屋台通りを抜けて、青崎を連れて展望台の切符売り場へ向かった。
「なんぼや」
「三千八百円や……三千八百円!?」
スカイツリーには三百五十メートルの天望デッキと最高高度四百五十メートルの天望回廊があり、その両方に登るには三千八百円かかるという。チケット売り場の入り口に設置された電光掲示板の文字を読み上げてから、伊丹は青崎の顔を見た。はっ、と短く笑って「ええ商売や」と言った。
「なぁ、帰ろか」
二人の傍らに立って団体客を案内していた綺麗な女性が、口元だけで微笑した。
「帰らへん。電車乗ってここまできて帰れるか」
「いやいや、三千八百円払って怖い思いしにいく意味が分からん」
「どんなもんか登ってみやな分からんやろ」
地上三百四十五メートルの高さで営業する高級レストランや、展望台の中で営業するバーの広告を見ながら、伊丹の恐怖心はどんどん大きくなっていく。
「伊丹、チケット」
どんな言葉も、結局青崎には届かなかった。現実逃避の感覚がじわじわと脳を占めていくのを感じながら、チケットと引き換えに三千八百円を支払った。お釣りを黙って財布に戻すと、今度は青崎が先立って歩き始めた。後ろから追いついて、大きなリュックを背負った外国人の波にのまれそうになっている青崎の鞄を掴むと「手握っといたろか」と言った。
「高いところ嫌いなんやろ」
「知ってて連れて行こうとするお前が一番嫌いや」
「ええんか? エレベーターに閉じ込められたら互いだけが頼りやぞ」
スカイツリーのエレベーター故障、乗客取り残される——悲鳴を上げる女子アナウンサー、事件を報じるネットニュースの見出し、そして自分の死を日常の一部として処理していく総務係の冷徹な対応——こういう時、一番嫌な想像が浮かんでしまう。
「お前なぁ、冗談にならんかったらどうしてくれる」
「今更や。その時は一緒に死ぬだけやないか」
青崎を睨むと、手を差し出した。伊丹はその手を思いっきり叩き落として、青崎の鞄についているドッグタグを握った。革製のドッグタグには何も刻まれていない。幸い、この男はここで死ぬつもりはないらしい。青崎はさしたる反応も見せず、息を短く吐いた。
集まっている物好きたちに向かって語られる生の英語アナウンスを聞き、エレベーターが開くのを待つ。「春」と名付けられた金属の箱に、およそ四十人の乗客を飲み込んでいく。手汗をにじませながら、なるべく別のことを考えようとした。伊丹は単純な思い付きで、自分自身より些か興味のあるもの――目の前にいる青崎のことを考え始めた。伊丹が就職で東京に来てから、青崎はどこで何をしていたのだろう。大阪弁が抜けていないということは、関西にいたのだろうか。耳に残る深いため息に似たささやき声は変わらなかったが、以前に輪をかけて無口になった男の横顔は、昔よりも感情の表出が下手になっている気がした。青崎も、錦糸町の街と同様になにか寂しいものを抱いている。しかしここで喪失の中身を問うことは憚られた。
手の中のドッグタグを引いて、青崎を振り向かせた。「なんやねん」青崎はすっと服の袖を差し出した。それが気遣いの動作だと、伊丹にもすぐに分かった。
「五十秒なんてすぐやな」
人の波に押されてエレベーターの外に出された。ドーム状の展望台の窓に、多くの人が群がっていた。青崎と伊丹も、恐る恐る窓の近くへ寄ってみた。地上から見上げると曇りにしか見えなかった空が、仄かにオレンジがかった薄灰色を覗かせている。雲を彼方に押しやってくれた風のおかげで、すっきりと空の端まで見通すことができた。眼下のロッテホテルと錦糸町公園が確認できた辺りから、伊丹の視界が開けた。それまで駅経由でしか訪れたことがなかった場所が、地続きの地図になって、世界が広がっていくのを感じた。
「橋の多い街やなぁ」
「そうやな、こうして見るとでっかい川がなんぼでもあるわ」
「お前んち大雨とかで流されへんか?」
「うち一応五階やから流されてもワンチャンある……と信じたい」
不謹慎な質問も、なにか楽しさに満ちていて、それが伊丹をほっとさせた。伊丹は自宅のすぐそばにある小名木川を見つけて、その川には水位調整の閘門があると説明した。全ての角度から街を見下ろせる窓に沿って歩き、レインボーブリッジや大観覧車、東京タワーを見つける度に、青崎に一つずつ教えた。青崎はさして感動もしないが、聞き流しもしなかった。初めて見る景色を、淡々と受け入れているように見えた。
「なんでスカイツリーに登りたかったんや?」
伊丹は青崎に訊いてみた。
「……別に理由はないなぁ」
「そうか」
見たことのないものを見たかった、というところだろうか。勝手に推測をしながら、伊丹は窓のそばを離れた。空は刻々と色を変えて行き、大都会を彩る花火のような光が窓の外を染め始めていた。
スカイツリーから降りると、不思議と気分が高揚するのを感じた。地上四百五十メートルで縮みあがった胃も耳も正常に戻り、空腹を訴えている。しかし台湾飯を満喫する気分ではなかったので、青崎を連れて自宅の最寄り駅へと向かった。青崎は初めての東京飯ではないかと伊丹は思案したが、「ここにしょ」と青崎が言ったのはチェーンの牛丼屋だった。
「お前は怖なかったんか」
2人分の水をコップに注ぎいれながら、伊丹は聞いた。
「天望回廊めっちゃ揺れたし怖かったわ。高いところ好きちゃうし」
「つまらんかったか?」
「……月がいつもより高い位置で見れて、それは良かったな」
「そうやな」
青崎は目を伏せて、丼の縁まで盛られた肉を見ている。伊丹の手元の丼が並盛なのを見越して、蓮華で掬って勝手に肉を分け入れた。これは青崎の高校時代からの癖だ。
「相変わらず食細いなぁ」
「牛丼て三口くらい食うたら飽きるねんな」
「でも定期的に通ってたよな、学生の頃」
「あの頃、他に行ける金もないしな」
つまらなそうに食べ始めたと思ったら、箸をそっと置いて「楽しかったか」と訊いた。
「悔しいけど、三千八百円分の価値はあった気ぃする」
「良かったやんけ」
「結果論やねん、それは」
「てっぺんからの景色は良かったやろ?」
「……それを見せるために俺を連れて行ったんか?」
青崎はわずかに瞠目した。
「お前とコンビ組んだ日の記念に、一緒に見れたらええなぁて思っただけや」
「俺はまだコンビ組むって言うてへんぞ」というセリフを、伊丹はとうとう飲み込んだ。代わりに水を口に運んで、ゆっくりと時間をかけて飲んだ。飲んだ後も喉の奥が張り付いている感じがした。
何かが変わりつつある、それが自分にとってどんな選択になるか分からない。なのに、目の奥でチラチラ瞬く光が消えなかった。
食事が終わりに差し掛かる頃、
「荷物」
「あ?」
「荷物どこにおいてんねん。どうせ宿とか取ってないんやろ」
「錦糸町のロッカー」
「ほな、荷物取って来いよ。住吉までは来れるな?」
「電車で一駅やろ。多分な」
「家はここから十分くらい。さっき見た橋の近くや」
「スカイツリーから見下ろしたもん当てになるかいな」
「光っとる橋の方に向かって歩け。近くまで来たら迎えに行ったるわ」
「おおきに」
「青崎」
鞄を肩にかけた青崎が立ち止まった。
「なんや」
「ありがとう。ええ思い出になったわ」
青崎は「せやろ」と言って、少しだけ笑った。トレーを返却しに行き、そのまま細い体を闇に溶け込ませるように、悠然と外へ出て行った。
カウンターにトレーを返し、伊丹も店を出た。しばらく暗い帰り道を歩いてから、背後を振り返ってみた。スカイツリーが淡く光っていた。
「さっきまであそこにおったんやなぁ。信じられへん」
高所恐怖症の伊丹は、五年間東京に住んで一度もスカイツリーに登りたいと思わなかったし、今日登ることになるとも思っていなかった。青崎が伊丹に与えたものは、稀有な体験だけではないことを、認めざるを得なかった。
電波塔の一部は闇に溶け込み、鮮やかだった光の輪郭がぼやけ始めている。直に雨が降ってくるのだろう。
「あいつやっぱり持ってるなぁ」
青崎に自宅の住所を送るメッセージを作成しながら、言葉をひとつ付け加えた。
高いところで静かに輝く月が、伊丹の背中を見ていた。