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喜劇  作者: 新原氷澄


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19/22

喜劇2 アンタゴニスト Chapter.2(前)

 モデルの仕事を引き受けるようになってから、青崎の日々は繁劇(はんげき)を極めた。芸道で築いた地道な信頼を糧に生きる人間を、写真の「素材」として見つめる冷酷な審美眼。遠回しにぶつけられる負の情動。大小さまざまな嫌悪感を呼び起こす出来事——それらすべてに、青崎は顔色ひとつ変えず、黙々と仕事をこなした。そのうちに「芸人が本格的なモデル業をする」という物珍しさが消え、棘のある揶揄が消え、辛辣な批判が消え、一定量の顧客と、青崎の生真面目な責任感だけが残った。


 電気スタンドの明かりが連夜灯ったままだった屋根裏部屋は、早朝から日暮れまで音と光をなくし、青崎は家に寝に帰るだけの日が増えた。


 屋根裏と扉ひとつ隔てた先で暮らす伊丹は、ひそかに青崎の様子を案じながら、家の中でシナリオを書いて暮らした。青崎と共同生活を始めたばかりの頃、無意味に外で時間を潰していたのとは逆に、家を離れている間に青崎がふっとどこかへ消えてしまうような気がした。本人に何も言えないのは、その時となにも変わらず、伊丹は相変わらず自分の意気地がないことを認めざるをえなかった。


 朝と夜の短い時間、二人が顔を合わせると、伊丹はできるだけ彼らの生活に関係のないつまらないことを話した。青崎はどうでもいい伊丹の言葉に生返事をし、時々居心地よさそうに笑い、思い出したように口に食物を運んだ。その時だけは、青白く生気を失った青崎の影が、色を取り戻したように見えるのだった。


 二人が家の中で直接会うことは減っていったが、伊丹が仕事に詰まってダイニングキッチンへ出ると、背の低い食器棚の上に、菓子の箱などが置いてあるのを時折見つけた。それはどこかのパティスリーのものだったり、見かけない海外のブランド製だったり、時間も場所も、唐突で取り留めもなかった。伊丹はそれを青崎が貰った物のお裾分けなのだと思っていたが、ある時そうではないことが分かった。それを教えてくれたのは、やはり二人の一番の理解者である友成だった。定期的に行っているゲームの配信のために家へ寄ってくれた時に、友成はさりげなく伊丹にそのことを話してくれた。


「手土産なんか買ってくるやつじゃなかったのにな」


 首をかしげる伊丹に、友成はいつもの涼しい眼差しを画面に向けたまま言った。


「ずっと気にしていたんじゃないですか、伊丹さんに頼りきりになっているのを」


 その日友成は、「DREDGE」というゲームをしていた。陰鬱な街で暮らしている漁師が沖へ船を出す。糸を垂らす。魚を引き上げる。単純な作業を繰り返しながら、時々人の頼みごとをきいたり、遠くの島へ探索に出かけたりする。魚を釣ると何匹かに一匹呪いに侵された魚がいて、街の魚屋にその魚を売りつけると、怖気づきながら買ってくれる。奇妙な魚を見つけるというゲームの目的に反して、魚を釣ると陰気な音がして気分が下がる、そんな奇妙なゲームだった。


 その日も青崎はまだ帰っておらず、伊丹と友成は二人でゲームを見繕い、青崎のひねたツッコミを聞かずにゲームを始めてしまった。伊丹は友成との間に静かな友情を感じていたが、青崎の存在感のない屋根裏部屋は、どこか物寂しかった。


「そんなん気にされる謂れなんかない。そんなこと言うたら、漫才の台本はあいつが書いてるんやで」


「伊丹さんもコントの台本を書くじゃないですか」


 先日、伊丹は勝ち抜き制のコントの大会で初めて一位入賞を果たした。観客投票の発表時は実感がわかず、戸惑った顔のまま終幕した伊丹に、青崎は「お前、めっちゃ間抜け面」と笑いながら、下を向いて涙をこらえていた。友成は「おめでとうございます」と丁寧に頭を下げた後、特に何も言わなかったのに、SNSに喜びを抑えきれない長文のポストを投稿して、ファンに「マネージャーの愛が重い」と怯えられていた。


 本心の見えにくい二人に囲まれている伊丹は、いつも彼らの感情の置き場を探して右往左往した。必死で探して見つけてきたそれを「違う」と仏頂面で突き返されることもしばしばで、実りの多い仕事ではなかった。しかし青崎の気持ちが分からない時は友成が、また逆の時は青崎が、それぞれ相手の気持ちを代弁してくれることがあり、彼らの相互補完能力が、奇妙でいびつな三人を絶妙なバランスに保ってくれていた。


「青崎さんは、伊丹さんにすごく感謝しているんだと思いますよ」 


 秋の日の夕暮れがロフトの小さな窓を染めていた。北の空は甘い橙色に、南の空は透き通った藍色に染まり、その光が南北の窓から差し込んで、床に色の異なる印象画を描いていた。


「それを素直に言うてくれる方がなんぼか嬉しいのに……次会ったら「ごん」って呼んだろか。『ごん、お(まい)だったのか。いつも栗をくれたのは』」


「ごんぎつねって、恩返しにきた狐を撃ってしまって嘆き悲しむ話でしたよね?」


「ほななんや、鶴の恩返しか」


「それだと青崎さんは、(はた)を織って山に帰ってしまいますけれど」


「……友成ツッコミうまなったな」


「青崎さんがツッコミに飢えていて、僕の顔を見る度にボケてくるので」


 伊丹は再び「んー」と考え込んだ。ゲームの画面から目を離して、誰も青崎のボケに反応しない静かな撮影現場を想像した。静かに、言葉を内に閉じ込めて嘆いている、その嘆きを表情に浮かべることさえも許されない相方の横顔が目に浮かんだ。


「……じゃあ、あいつの顔見に行こうかなぁ」


「撮影現場へ?」


「うん。友成連れて行ってくれる?」


「ええ。すぐに支度しますよ」


 友成は呪われた魚を釣り上げた時の「ディロン」という陰鬱な効果音を無視して、躊躇なくPSボタンを押し込んだ。


「今日はどこにおるんやろ」


「池袋ですね。午後六時まで撮影のはずです」


 画面がスタンバイモードになり、部屋がまた少し暗くなる。友成は天井に頭をぶつけないようそっと立ち上がって、先に階段を降りて行った。友成が青崎のことに気を配ってくれていることが、伊丹の心を優しく照らした。


「今から行ったら、ちょうど終わり頃かなぁ」


 友成は早足で歩きながら、一瞬で経路の検索と到着時刻の目算を立てた。


「急いでいけば間に合いますよ」


 伊丹もすぐにジャケットを羽織って家の鍵をポケットに入れ、友成の背中に追いついた。


「どんなんなってるか楽しみや」


「青崎さんの撮影現場に行くのは初めてですか?」


「うん。あいつ仕事でなに撮ったとか全然話さへんしな、写真も見てへん」


「青崎さんは、なんというか……」


 友成は、暗くなったエレベーターホールに視線をさまよわせた。それは、伊丹がSNS用に撮った相方の写真と、仕事先で撮られた青崎の写真を見比べる無意識の動きだった。記憶に触れる一瞬、冷たい寂しさが頬を撫でた。しかし、友成は表情を変えずにその感情から手を離して、「とても格好いいと思います」と率直な感想を述べた。

 伊丹は「そうか」と素朴に微笑んだ。その裏には、モデルの仕事を勧めたとき以外、青崎が嫌がる容姿の話には決して触れない配慮への敬意も込められているようだった。


 二人は地下鉄半蔵門線に乗って池袋駅へ向かった。丸の内線に乗り継ぎ、池袋に着く頃には夜の帳が下り、暗闇が明るい街にさざめいていた。


「池袋駅の近くにある、写真スタジオを借りていると聞いています」


 友成は仕事用の黒革の手帳を開いて連絡を取ってくれた。その横で伊丹は、通行人が行き交うウイロードの人の流れを眺めていた。


「……あれ? 友成、あれ雲雀や」


 池袋駅西口を照らす眩い光に、友成は一瞬目がくらんだ。瞬きをして後ろを振り返ると、白い光の中に、駅を照らすランプよりも強く、長身の青崎がすらりと立っていた。首元まで覆われた黒い上着を着て、その裾を長い影に溶け込ませていた。


「なんやねん、今日来るとか言うてへんかったやないか」


 口を開くと、形のいい眉がわずかに下がった。通行人の眼差しが、青崎のきれいな目元や、作り物のように光る唇の上を撫でていく。風に雨の匂いがかすかに混じり、雨粒が粉雪のように光の中を舞った。


「おお。なんかめっちゃ……」


「なんやねん。なにがめっちゃや」


「……分からん、俺オシャレのことなにも分からんから……」


 勢い込んで話しはじめた伊丹の語尾が弱々しく消えると、青崎は深く頷いて、「俺もわからん」と囁くような低い声で言った。


「やっぱり! 良かった」


 伊丹が嬉しそうに叫ぶのを、友成は横で笑いをこらえながら見ていた。冴え冴えとしたモデルの顔から、西中島南方の相方へと戻った青崎も、くしゃっと笑った。


「あれぇ、友成さんと伊丹くん」


 三人の後ろから、微かに九州なまりのある声が聞こえた。ウイロードの光が舞う壁面の端に、キャップを被った影が映っていた。


「伊丹くん、めっちゃ久しぶり〜。ご無沙汰してます」


「わ、鬼束さんが撮ってはったんですか」


 カメラマンの鬼束青児(おにつかせいじ)は、小さなワゴンに乗せたパソコンから指を離し、カメラのレンズをしっかり指で抱えてから、三人に焦点を合わせた。


「撮影中にお邪魔してしまってすみません」


 友成が深々と頭を下げると、鬼束は「人が多くなってきて、ちょっと中断してたところです」と微笑んだ。


「青崎くん、遅くまで借りてしまってごめんねぇ」


「いえいえ、鬼束さんに撮ってもらえるなんて羨ましいぐらいです」


 伊丹は人の好さそうな顔をさらに柔和に崩して、両手を振って否定した。


「宣材写真のお前の顔、ちょっと二度見するくらいよく撮れてるもんな」


「そう、紛れもなく奇跡の一枚やで」


 青崎が思い出したようにつぶやくと、伊丹は冗談ではなく、真剣な顔で頷いた。


「照れるなぁ。そんな風に思ってくれてたんだ」


 西中島南方が東京で活動し始めた頃から付き合いのある鬼束は、二人にとって心安い存在でもある。伊丹は素直に鬼束と仕事ができる青崎が羨ましいと思った。


「弊社でも評判がいいです。ありがとうございます」


 友成も客観的な事実を述べると、鬼束は友成の顔をじっと見ながら、なにか思案している表情を見せた。


「友成さん、実はお願いがあるんですけど」


「……? はい、僕にできる事であれば」


 百八十二センチある鬼束が、百七十六センチの友成に近づいて囁きかける。


「今日の撮影、伊丹くんも貸してもらえませんか?」


「伊丹さん?」


「……青崎くんの表情が、いつもと違って見えたので」


 友成は顔を上げて西中島南方の二人を振り返った。伊丹に向かって「写真マジック通り越して写真詐欺やな」などと嘯いている青崎と、「うへへ、もっと褒めてくれてええで」とのんきに笑っている伊丹の顔を見比べて、一人頭の中で思い浮かべた像が消えていくのを感じた。


「もちろん、どうぞ。伊丹さんなら協力してくれると思います」


「へ? なにが」


「伊丹くんも、撮影付き合ってほしいなって」


 鬼束は伊丹の服装を一瞥した後、傍らで準備をしていたスタイリストを呼んだ。


「俺なんか役に立ちます?」


「もちろん。ちょっと着替えてきてもらって、撮影しよ」


「で、でも」


「スタイリストは俺の妹だから、心配しないで」


 伊丹の心配とは絶対に違うなと思いながら、青崎は口を挟まなかった。そのままスタイリストに連行されていく伊丹を黙って見送り、友成のそばに寄った。


「あいつにモデルとか務まるかな」


「そこは先輩としてご指導よろしくお願いします」


「俺が教えんのかい……」


「青崎さんと一緒なら、伊丹さんはいつも通りできると思いますよ」


「…………」


 青崎は長時間の撮影で冷えた両手をそっとポケットの中に突っ込み、友成が差す傘の中に入って来た。黒い傘の影に、白い花びらのような小雨が零れ落ちた。


「西中島南方としての青崎さんを評価してもらえて嬉しいですね」


「…………そやな」


「鬼束さん、腕は確かなのでその点は安心できます」


「復活演芸祭の写真もすごかった。あん時の友成の写真、まだ覚えてる」


 彼らが尊敬する御舟師匠たちが引退しようという復活演芸祭の終幕を前に、(はなむけ)の花束を抱えて舞台袖に立っていた時のことを思い出し、ほんの少し友成の傘が揺れた。


「……僕は裏方の方が落ち着きます。青崎さんや伊丹さんみたいに、光を浴びるべき人を支える側の方が性に合っているんです」


「え、俺はまた機会があったらお前を舞台に引きずり出そうと思ってるで」


「青崎さんには伊丹さんがいるでしょう」


「YouTubeみたいに三人でやったらええやん」


「嫌だなぁこの人は、多分本気だなぁ……まだお客様の前に出る度胸はないですよ」


「友成はやったらなんでもできるから、多分覚悟が決まればすっとできると思うけどな」


 青崎と友成が話しているその瞬間も写真を撮られている気配がする。二人は頓着せずに前を向いていた。青崎の身体に満ちていた固い緊張は、友成の隣にいる間に、細い雨と共にほどけていった。


 ゆったりとしたクラシック音楽をかけた車が表通りを通り過ぎていく残響が二人の耳に届いた。それから少し遅れて、伊丹が二人の元に戻って来た。照れくささと戸惑いが交互に現れる表情を差し引けば、伊丹の格好は普段よりも様になっている。黒い革のコートに、細かい模様の入ったニットとワイドストレートのパンツを合わせた伊丹の姿を見た友成と青崎は、揃って「いいですね」「いいな」と声を上げた。


「ほ、ほんまに? メガネの度が入ってないから全然見えてへんねん」


 細い金縁の眼鏡に、不安がる伊丹の指先と意外な好評価への照れが映った。


「ちょうど雨あがったね。撮影再開しようか」


 鬼束が声を掛けると、辺りの人がそっと場所を開けてくれた。その真ん中に迷わず足を運ぶ青崎の後ろ姿を、伊丹は怖気づいたまま見ていた。


「……伊丹、はよう」


 青崎は無造作に伊丹を振り返って、手を差し出した。伊丹は言われるままに、慣れない靴で一歩踏み出した。


「ど、どんな顔しとったらええの?」


「……そやなぁ、今のガチガチの顔ではあかんわなぁ」


 青崎の髪にわずかに残った水滴が、ウイロードの壁面に描かれた絵と青崎の纏う硬質で繊細な空気が混ざり合って、独特の色彩を作っているのを、伊丹はぼんやりと見た。青崎はその間に、伊丹の服の裾やジャケットの乱れを手早く整えてくれた。


「……コント、『服屋の店員とキメキメの衣装できた客』」


「え、それ今から即興でやんの」


「素面ででけへんて言うから付き合うたるわ」


 青崎の顔を見上げると、舞台に立つ前の密やかな緊張と高揚が伝わってきた。身体の芯が震えるような静かな抑圧が通り過ぎるのを感じてから、すうっと息をして、与えられた役割を演じ始めた。


「ほな……いらっしゃいませ、お客様。何かお探しですか?」

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