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喜劇  作者: 新原氷澄


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18/22

喜劇2 アンタゴニスト Chapter.1

——騒々しくあれ、この世界。悲しみの音が聞こえないように。


 早朝の清澄白河は、昼間の賑わいとは別の顔をして、ひっそりと静まり返っている。

 今でこそ「カフェの街」などと洒落た呼び名で語られるこの街も、かつては貧しい芸術家たちが暮らす小さな貸家が身を寄せ合っていた。駅から少し歩けば、古めかしい喫茶店や地元馴染みの八百屋が並び、下町情緒を写し描いたような商家が今も息づいている。

 戦前の意匠を残す瀟洒な清洲寮アパートメントには、絵筆を手にしたまま眠る画家や、古い浴室を現像室に仕立てたカメラマン、夜明けまで椅子を十五脚並べて立ち仕事をしていた店子たちが、まだ静かに夢の中にいる。

 その建物の前を通る都営四七四号線も、今朝は車の通りがまばらで、まるで彼らの眠りを見守るように、音もなく立ち去っていく。

 古の俳聖が愛した隅田川と小名木川の境目に架かる萬年橋には、そうした人々の息遣いや影を焼き付けたフィルムを何枚も重ねたような空気が、今も優しく漂っている。


 影が尾を引くように、ゆるゆると夜が明けていった。深川飯屋が並ぶ石道の上を、タッタッと規則正しい足音が通り抜けていく。すぐ後をついていくもうひとつの足音は、少しよろめいたり、時々早くなったり、リズムに乱れがある。やがて後ろの足音が、街に見惚れるように足を止めると、前を走っていた足音も速度を緩めた。


「——お前、自分から走るて言うたくせに」


 秋の夜明けのようなひやりとした低い声で文句を言う。朝の隅田川の静かな凪の水面に似た黒い髪の青年の名前は、青崎雲雀(あおざきひばり)


「雲雀と違てこっちは久しぶりに走るんやから、ちょっとは加減してくれてもええやろ」


「だから嫌やって言うたのに、ついてきたのお前やないか」


 後ろを走っていた、やわらかな茶髪の青年が顔を上げた。彼の名前は、伊丹悠介(いたみゆうすけ)という。伊丹は丸顔の上に乗る赤い縁の眼鏡を持ち上げて、頬に浮いた汗を拭うと、すぐに口喧嘩の準備をした。


「二十分も文句言わずにお前のペースで走ったのに」


「途中からバテとるの分かってたから、ペース落としたったっちゅうねん」


「そらどうも、お世話かけました」


 まったく感謝が伝わらない伊丹の言い方が不満だったのか、青崎は伊丹が履いているスニーカーを軽く蹴った。


「おっと」


 ランニングの疲れで重くなった足でも、俊敏さは小柄な伊丹が上回る。軽く避けて、得意げに笑った。


「雲雀さん、長い脚の無駄遣いですねぇ」


「やかましな」


 青崎はウインドブレーカーの袖越しに腕を伸ばしかけて、ふと手を止めた。伊丹も首を半分後ろへ回して、背中に触れかけたものを窺ってみた。


「なんやっけ、こいつ。命のなんとかくん」


 赤と青の目立つ配色と、零れ落ちそうな五つの目玉。人類が考える「親しげな宇宙人」そのもののように友好的な笑顔の怪物の姿。


「大阪万博のミャクミャクさまや」


 百六十七センチの伊丹の頭を撫でられる位置に手が垂れさがっているそのオブジェは、街灯に括りつけられ、生贄か聖者の成れの果てのように人を見下ろしていた。


「なんでこんなとこにおるねん。万博会場におれや」


「これ、たぶん手作りやろ? 誰かが作って飾ったんやろうよ」


 ミャクミャクは一人ではなかった。伊丹と青崎が立っている通りから、この街路が交差する地点まで、様々な大きさのオブジェが括りつけられていた。両腕を掲げた熊、どこか見おぼえのある人物像、キラキラ光るモールをまとったゲームのキャラクター。


「ちょっとした生贄パーティーの会場に来たみたいやな」


「ちょっとした生贄パーティー、大分嫌やな。着ていく服に悩むわ」


「もっと悩むことあるやろ、主催者の倫理観とか」


 伊丹はしばらくその手作り感のあるオブジェを眺めた後、「あ、わかった。ハロウィンの飾りつけとちゃうん」と言った。伊丹が目を凝らすと、立て看板のひとつに「かかしコンクール&ハロウィン」という貼り紙が貼ってあった。


「まだ9月や」


 青崎はすぐに腑に落ちないらしかった。


「夏休みの宿題とかかもな。地元の街を盛り上げようとか、そんな課題、俺らん時もあった気がするわ」


 伊丹は指を顎の下にあてて学生時代を懐かしんでみたが、夏休みの宿題をした記憶はほとんどなかった。十年前、十六歳の彼らは確かに学生だった。しかし、涼しい図書館の机の上に、青崎と二人でネタ帳を広げて漫才のネタを考えていたのが、夏休みの記憶のほとんどすべてだった。二人は海にも山にも目をくれず、真っ白なページの中に埋もれている笑いを探していた。


「ほなこの辺の小学生とか中学生が作ったんかな。——ようできとるなぁ」


 ミャクミャクの輪郭を眺める青崎の二重の目が、更に美しい形になった。この男が子どもを愛でる目がとても優しいことを知っている伊丹は、そのことには触れずに、一緒になって魚屋や和菓子屋の前を占拠するオブジェたちを眺めた。


「ちょっとでかすぎて怖いけどな。あの熊、顔かわいいけど結構威圧感あるよな」


 対岸から威嚇してくる熊のオブジェに指をさすと、青崎も頷いた。熊の首には「特賞」の札が付いていた。


「毛並みがリアルやなぁ。奥多摩から連れてきたんかな」


「夏休みにはしゃぎすぎやろ。小学生には荷が重い」


「地域住民から熊を守る小学生、めっちゃかっこいいけどな。『この人に誰も殺させたくないんだ…!』」


 わざわざ竈門炭治郎の刀を構える所作を真似してみせる。車止めの先端についている鉄製の鳩が、困ったような顔で青崎を見ている。


「勘弁してくれよ、まさかの熊側についてんのかよ」


 勝手に鬼役を押し付けられた伊丹は、気まぐれに目を刺す初秋の日差しに目を細めた。往来で漫才を始めた二人と、彼らを取り巻く案山子の集団を、一羽の鴉が遠巻きに眺めていた。


「そっちの金髪のおっさんはドナルド・トランプやろな。なんで清澄白河でトランプなんか分からんけど」


 案山子のトランプ大統領は、細い胴体と比べて顔の部分がよほど大きい。しかしそのハリボテの迫力が、かえってアメリカのプレジデントらしさなのかもしれないと伊丹に思わせた。


「それ言うたら、お台場には自由の女神像立ってるで。海沿いの人はアメリカ好きなんちゃう?」


「え? そうなん。知らんかった、お台場からアメリカ大陸見えるんかなぁ」


「見えるわけない。見えたら戦争秒で終わってるやろ」


 対岸で煽りまくるニューヨーク市民と困惑顔の自由の女神像が目に浮かぶ。伊丹はツッコミの言葉を探しながら、思わず笑ってしまった。


「トランプさんようできてるし、このままホワイトハウスに送ったりたいな。弾除けにいっぱい並べといたら、狙撃犯もびびるんちゃう」


「演説聞きに来た人もびびるよ。どの顔見たらええんか分からんなるわ」


「おい、あっちミャクミャク二体目おるやん。あの人分裂しはるん?」


 青崎の与太話は止まらない。それからも二人は、道の傍で見つけた寺社やファミリーレストランを片っ端からネタにしながら、早足で帰路を歩いた。

 お互いの視線はかみ合わなくても、隣に立っているだけで、この益体もないやり取りを漫才のネタに仕上げようという魂胆が伝わってくる。伊丹はそんな相方の言葉を笑って受け止めるのが、なによりも楽しいと思った。


「朝の散歩もたまにはええな」


「散歩じゃなくてランニングやってんけどな」


「ええやんか。今日の公演午後からやし、ゆっくり歩いて帰ったら」


「しゃーなしお前に合わしたるわ」


 新扇橋を渡って小名木川まで戻ってくると、朝日は既に色を変えていた。小波の立つ川面は点描画のようにキラキラと輝いた。橋の欄干にもたれて、伊丹は朝の中から言葉を探した。何も見つからなくても、美しいものに見惚れている時は、青崎は黙ってそばに立っていた。

 どこか遠いところ—多分近所の二十四時間営業のガソリンスタンド—から、穏やかなクラシックの旋律が流れ着いて、まだざわついている体内の音を清らかにしていった。

 伊丹の時計が震えて、七時を告げる。それを指でそっと押さえて、伊丹は相方の方へ向き直った。


「ほな、今日も頑張りましょか」


「……せやな」


 青崎はウインドブレーカーの襟に首をうずめて、小さく頷いた。


「さっきまでのノリはどうした」


「もうネタ出来たから話すことない」


「あるやろ、全然ある」


「どうせ家帰ってもお前がおるんやから、とりたてて今話すことないやろ」


 二の腕と膝を軽く伸ばして、再び走り出す態勢をとる。自分を置いて先に帰るつもりだと分かったので、伊丹はその背中を十分に見送ってから「お前、鍵持ってきてへんやろ」と後ろ姿に呼びかけた。

 青崎は辛うじて声が聞こえる距離で折り返して、「鍵ちょうだい」と手を挙げた。


「嫌。お前なんか家の前でしょんぼり待っとったらよろしいねん」


「ええからはよう」


 鍵を置いて家を出たくせに、当然のような顔で手を差し出す青崎の横を、伊丹はさっさと追い抜いていった。


「もっと俺に敬意を示したら考えたる」


「めんどくさいやっちゃな」


「どう考えてもめんどくさいのはお前」


「あーはいはい、そうですね」


「ほんまに締め出したろかな」


「そしたら友成に泣きついて……ん? 友成から電話きてる」


 青崎はスマートフォンの画面を指で撫でて、電話をかけ直した。伊丹も歩調を合わせて、青崎の電話口に耳を澄ました。


「おはよう、友成」


『おはようございます。今、電話大丈夫ですか?』


「うん。なんかあった?」


 二人のマネージャーを務める友成翠(ともなりあき)は、静かに透き通った声で予想外のことを言った。


「青崎さん、バイト探してるって言ってましたよね。モデルをやりませんか?」


 青崎は少しも考える素振りを見せずに、目を閉じてこう言った。


「俺は漫才師やで」


『存じております』


「モデルなんかようやらん」


『先方からのご指名です』


「俺は漫才しかでけんから、漫才師なんやて」


 友成が口調を変えずに淡々と返してくるので、青崎の口ぶりにため息が交じる。


『僕があなたの美貌を売るためだけに仕事を引き受けると思いますか? この仕事は、西中島南方のマネージャーとして、コンビのために受けていただきたいと思っているんです』


「…………」


『クライアントは、先日の動画を見てオファーをくださったそうです。「中野サンプラザ復活演芸祭」の活躍や青崎さんの芸も含めて、高く評価してくださっていますよ』


 青崎の記憶に、わずかに雑音が走る。伊丹がいない隙に生じた小さな胃の痛みが、また戻って来たような気がした。鈍い欠伸に煙を混ぜて吐き出したくなった。大阪から戻って以来、煙草はやめたのに。


「雲雀?」


 伊丹は黙ったままの青崎の代わりに口を挟んだ。青崎は眉を顰め、何か言いたげに指を折ったり開いたりしたが、結局言葉を飲み込んで、何も言わなかった。


『今はとても大切な時期です。少しでも露出を増やして、お客さんを劇場に集めることが、お二人の今後を良くしていくはずです』


「……ちょっと考えさしてか」


『もちろん。返事は今すぐでなくても構いませんので』


「友成」


『はい』


「……言いたないこと言わしてしもてすまんな」


 今度は友成が電話口で黙る番だった。いつもの彼なら、すぐに「仕事ですので」と切り返したはずだが、今日は違った。出社前の朝七時にスーツに袖を通して通話をしているのは、彼なりの覚悟であり、分かりにくい友情の示し方だった。


『信頼してくださってありがとうございます』


 青崎が電話口で軽く笑って「じゃあな」と言ったのを合図に、友成は電話を切った。彼の胸には青崎への期待と信頼、そして「西中島南方」の関係を変えてしまうかもしれないという一抹の不安がよぎった。空腹の胃に一杯の水を流し込み、小さな胃の痛みを殺さないよう、静かに唇を閉じて耐えた。


「友成、なんて言うてたん」


 チャリンと手の中で鍵が鳴る。玄関の鍵を開けながら、伊丹は呟くように青崎に問うた。


「モデルをやってほしい——やて」


「そういう仕事が来てるってこと?」


「うん」


 青崎は後ろ手に鍵を閉めながら、伊丹の後ろ頭を見ていた。伊丹は振り返らずに「すげぇなぁ」と声を弾ませた。


「すごくはないと思う」


「いやいや、すごいて。うわー、悠真と真由里さんにも教えたらなあかんな」


 伊丹はにまにまと笑いながら、手の中で石鹸を泡立てていた。青崎がぽつんと玄関で取り残されているのに、まるでこの仕事を二人のもののように喜んだ。


「……お前はなにを言うとんねん」


「お前の才能に世界がやっと気づいたんやで、もっと喜べ」


「お笑い以外の才能なんかいらん」


 そのために全部捨てて、これまでの愛しいものと決別して東京まで来たのだから、むしろもっと痛めつけられねばつり合いが取れないと思っている青崎の内心を見透かしたように、伊丹は朗らかに笑った。


「お前が望まんのは分かってるけど、人が折角見つけてくださったものやないか。大事にした方がええ」


「お前は、俺と舞台立つん嫌になったんか?」


「まさか。ずっとお前と漫才やってたいよ」


 朝日は洗面所の室内を照らさない。下水道管を通って水が流れていく音がするが、伊丹の表情は、青崎には見えなかった。


「でもなぁ、漫才だけにお前を閉じ込めとくのは惜しいなって、前から思っとった。お前の才能はそんな小さい枠を取っ払って、もっと広い世界に出ていくべきや」


「……そういうのは、得意な人に任せといたらええ。俺の柄じゃない」


「そんなん、やってみてから決めたって遅くないやろう。まずはやってみぃよ」


 青崎は言葉を選べない時、沈黙を選ぶ。この時も、長い沈黙が不服と共に顔を覆った。


「そんな顔すんなって。嫌になったら辞めてもええんやから」


 洗い清めた手をタオルで拭いて、伊丹が洗面所から出てきた。やっぱり笑っているので、青崎は伊丹の頬を親指と人差し指で挟んだ。


「いひゃいいひゃい。なにしてくれんねん」


「……気楽に言うてくれるけど、恥かくの俺なんやぞ」


「芸人にとっちゃ、恥も勲章や。失敗したら舞台で笑いに変えたるから心配するな」


「失敗してお前に笑い者にされるくらいなら、大成功した方がマシや」


「そんならそれでええやんけ。悠真もきっと喜ぶぞ、カッコいいとこ見せたれ」


 伊丹はスマートフォンの画面を開いて、青崎に見せた。悠真を溺愛している伊丹のスマートフォンは、悠真の写真が日替わりで表示される設定になっている。今日の一枚は、青崎の漫才動画に夢中になっている悠真の横顔だった。見開かれた大きな目の中に自分の顔が映っていた。


「……俺は昔から楽天家じゃないねん」


「五年ぶりに会った元相方を、もう一回お笑いの世界に引きずり込んだのに? あの時何の勝算もなかったやろ」


 春の或る夜、再会した二人は、寂しさを拭えないまま春の雨に打たれていた。青崎の痩せて不安定な指先と、伊丹の疲れた眼は、お互いに間違った道を選んだことを示していた。そして、互いの顔を見るなり、もう一度舞台に立った夢を見られたくらい、二人は笑いに飢えていた。


「お前は特別や」


「なんやねん、特別って」


「お前がなに考えてるかなんて、顔見たらすぐわかる」


「じゃあ、俺がお前を残してどっか行ったりせんっていうのも分かるやろ」


 朝の街の音が、青崎の声の代わりに応えてくれる。どこかで泣いている子どもの声、シャッターを開ける音、犬が散歩に出かける足音。半年近く暮らした部屋には、いつもの日常の音がひしめき合っている。慣れ親しんだ家への愛着が、青崎のさざ波立った心の波さえも緩やかに凪へと変えていった。


「大丈夫や。俺はここで待っとったるから、安心して行ってこい」


 返事をする代わりに、スマートフォンを取り出して、とうとう一本の短いメッセージを友成に送った。三人のグループラインのトップに、青崎のメッセージが表示されたのを、伊丹も見た。


「お前、自分が言うたからには責任とれよ」


「責任ってなんや」


「お前も友成と一緒に撮影見に来い」


 青崎の神経質な瞼が、微かに震えているのを見て、伊丹は「……え~しょうがないなぁ」と冗談交じりに承諾した。


「雲雀、朝飯作るけど食うか」


「食べる」


「じゃ、お前パン焼くのと珈琲の係な。俺卵焼いて野菜切るから」


 青崎のために手を洗う場所を開けてやり、伊丹は冷蔵庫に向かう。バターと卵、小さくなったレタスを取り出し、食器棚の上に置いた。青崎が手を洗っている間、伊丹はその横顔を静かに見つめていた。伊丹の中にも、動揺が全くないわけではなかった。しかしいつかは来るだろうと思っていたことだから、その時が来れば落ち着いて応えようと、心の準備をしていたにすぎない。そのことを青崎に告げるつもりは毛頭なく、伊丹はただ心の中で、「自分の方が先に二十七歳になったのだから」とささやかな理由をつけた。

 二枚の食パンがオーブンレンジの中で焼かれている間に、バターのいい香りが漂ってきた。追加で取り出したベーコンがパチパチと小気味よい音を立て、目玉焼きに香ばしい油の香りを纏わせていく。誰が呼びはじめたのか、トーストに半熟の目玉焼きとベーコンを載せる「ラピュタパン」を二つ作って、伊丹はコンロの火を落とした。


「はぁ、腹減ったな」


「帰ってくるまで時間かかったしな」


 「いただきます」と手を合わせて、視線は自然と皿の中心のパンに吸い込まれる。しかし青崎は、青い平皿の丸い縁を視線で幾度かなぞっていた。


「どしたん」


「……いいや、別に」


「なんなん、気になるやん」


「……モデルの仕事で、家計がちょっと楽になったらええなて思っただけや」


 関西では見慣れない、八枚切の薄いパンへの呟きが、伊丹の笑いを誘った。


「そうやな、家賃に加えて食費も入れてくれたら、パンが五枚切りになるかもしれん」


「お前、さっきバターて言うてたけど、これもマーガリンやしな」


「……お前がマーガリンとバターの味分かるならこだわったってもええけどな。俺らにはこれで十分やで」


 珈琲の湯気に、寂しさや申し訳なさ、気遣いが混じり、視界を白く染めていく。伊丹は当然のことと受け入れてきたことを蒸し返す気はなかった。


「……やれるだけやってみるか」


 青崎は深いため息をひとつ吐いて、陰鬱な空気を吐息で吹き飛ばそうとした。秋のぼんやりとした温もりの中にあるカップは、息を吹いてもなかなか冷めなかった。


「応援はしとるけど、無理はするなよ」


 兄のような優しい言葉と愁眉の表情に、青崎は静かに笑って返答した。


「……おおきに」


 友成の鋭い予想通り、この一件は予想以上の苦悩と戦いの日々を青崎にもたらした。しかし同時に、西中島南方には千載一遇のチャンスを差し出してくれた。

 ——そのことが、青崎と伊丹をより深い地獄へ突き落すことになるのを、まだ二人は知る由もない。

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