喜劇 Chapter.10
——鐘の鳴る音がする。
朝から中野サンプラザのホール内を縦横に駆け回っていた友成翠は、早足で歩いていた歩調をひととき止めた。中野サンプラザ前の広場にある、カリヨン時計が鳴動する音が、館内に響いていた。その音をきっかけに、広場前でパフォーマーによる大道芸やダンスの見世物が始まる——進行表にはそう書いてある。鐘の音が止まった二〇二三年の七月二日以来、最も多くの見物客が、既に中野サンプラザの前に集まっていた。
友成は以前、この鐘が毎日絡繰りの動作と共に街に時を知らせる役目を担っていた時代にも、この街の演芸ホールに出入りしていた。鐘の音は、彼がまだ未熟なマネージャーだった頃の影を引きずり出し、御舟師匠たちがお笑い界を牽引していた頃の輝かしい面影を忍ばせた。芸術の街の象徴としての中野サンプラザと比べるにはあまりにもささやかな存在かもしれない。しかし友成にとって中野を象徴するものと言えば、この鐘だった。
中野駅前の再開発で止まってしまった鐘の音が、街に再び響く。芸術を愛する人々の頭上に、福音のように。すなわち、「復活」の時がやってくる。
「中野サンプラザ復活演芸祭」は、その企み通り動き始めていた。十一時から始まる音楽のステージでは管弦楽団、声楽団、ロックミュージシャン、アイドルまで幅広く、二千二百人の観客の耳目を楽しませる予定になっている。宴は二日間、夜八時まで続き、我らが演芸祭は午後二時から三時半の間に実施される。コンサートパスは通日出入り自由で、十一組の漫才師の出番は、いわば中休み的に浪費されるかもしれない。しかし二千人を収容する会場の舞台を自由に使って良いというお墨付きがあることは魅力に違いなかった。象牙ではなくコンクリート造の、白石でできた芸術の殿堂は、一時その街の地下を這う芸人たちに身を委ねるとしても、その威容が薄れることはないのだろう。
友成はスーツの腕を少し揺らして、時計の表面を光に透かす。午前九時五十九分。あと一分で、設定したアラームが鳴る。彼の細い手首を飾るには無骨なアップルウォッチの大きな盤面、その正確さが、彼を安心させる。
友成は再び足を早めて、職務に戻る。彼が任された役目を十全に果たすことで機能するこの巨大な絡繰りを操る糸の一本として、その美しい手指を現場の指揮することに使ったり、喉を震わせて意志を伝達したりする。舞台上に立たない代わりに、彼はその背後に蠢くすべてのものに光を当て、必要なものとそうでないものを区別していく。六年という月日の間、物腰の美しい、時間に正確な、やわらかな関西弁の名残をとどめた老漫才師を舞台で輝かせるために、彼はそれだけに注力をしてきた。彼は今日も、明日も、昨日と同じことを繰り返し、平穏無事な舞台の進行を司る。明日の朝には、彼が六年間尊敬し、敬愛した老漫才師が、その舞台から消え去るとしても。
友成は人差し指と親指でアラームを止めて、小さくため息をついた。そして進行表をできるだけ丁寧に小さく折りたたむと、コンビニに向かって歩き出した。朝の十時過ぎにその日の新聞を買いに行く。マネージャーになってから一番最初に身についた習慣が、新聞を買いに行くことだった。友成から新聞を受け取った師匠は毎日必ず「ありがとうな、友成」と言って、一折の新聞を順番に読む。それが珈琲や煙草を呑む人のように、美味そうな表情なのが、友成には小さく意外だった。しかし悪い気もしないので、舞台がある日は必ず新聞を買っていった。彼はもちろん情報機器で新聞を購読できたが、師匠が読んだ新聞に目を通すようになり、師匠の笑いが少なからず白と黒の紙面の中から生まれてくることを知るようになると、紙面を作る人たちと、師匠たちを尊敬した。それが彼の情報を重んじる主義にも繋がっていった。師匠たちは友成の分析や予想を素直に聞いてくれて、時には笑いに組み込んでくれることさえした。大学を出たての、まだ何物でもなかった若者は、笑いを作るという創造的作業に組み込まれて、飲み込まれて、師匠たちの掌の上でものを考える人間へと育ててもらった。友成はそれを幸せだと思っていた。今も、新聞を手に取る度にそう思う。
新聞を買って割り当てられた控室に向かうと、御舟洒楽・洒然師匠は二人とも既にスーツを着て、鏡の前に座っていた。
「おはようございます。今朝もお早いですね」
「おはよう、友成」
洒楽師匠が小さな声で言った。洒然師匠は小さく「コホン」と咳をした。
「大丈夫ですか、どこか具合でも」
「いいやぁ、別にどうてことないんやけどな」
洒然師匠はゆっくりとぱち、ぱちと瞬きをしてもう一度「コホン」と言った。
「大舞台で緊張したんかなぁ。昨日はよう寝られへんかった」
「そう、ワシもワシも。腰じゃなくて胸が痛くてな」
まさか。師匠たちはもっと大きな会場でも公演しているのに。
言葉を飲み込んで、「栄養ドリンクならすぐに出せますけれど」と言って、持ってきた鞄の中を探った。洒楽師匠が「流石、友成」と言って笑顔を作った。その顔には暗い影が過り、声にも力がなかった。友成が愛し、尊敬した師匠たちの姿は、そこにはなかった。静かに老いを背負い、疲れを引きずり、ありのまま朽ちていこうとする老人が二人、向かい合っているだけだった。
友成が鞄の中から栄養ドリンクを取り出す時、買ってきた新聞が音を立てて床に落ちた。近くに座っていた洒然師匠が、おっとりとその新聞を拾ってくれた。
「ありがとうな、友成」
その言葉を聞いたとき、何故だろう、友成はふっと目の前が暗くなるような孤独感を覚えた。体調が悪くても、舞台で失敗をしたとしても、自分がこの人たちに掛けられる言葉は最早ないのだ。自分には当たり前のようにやってくる明日が、この人たちには残っていない——
頭に浮かび続ける「引退」の二文字が、友成を友成たらしめていた安心感を容赦なく奪っていく。誰もいない惑星に一人取り残されたような、静かな焦燥感と底なしの不安が胸に広がっていった。
芸人たちの引き際に立ち会うのは初めてではない。それなのに今更、愛すべき人々の引き際に際して、いかに自分が愚かだったかを突き付けられる。「死神」の綽名を仲間から拝命した異端児の彼は、大切な老師匠たちの命を狩り取って、自分に何が残るだろうと思った。三人四脚など烏滸がましい自意識過剰だと分かっていても、師匠たちが友成に許してくれた静かで美しい居場所があったからここまで来られた。最早一歩も歩きだせる気がしなかった。
「師匠……」
友成の声が涙で濁っていることを、師匠たちは静かに悟っていた。友成はうずくまりたいような気持を押さえて、その場に立ち尽くしていた。継ぐべき言葉も、次に選ぶ動作も見当たらなかった。
「おまはんも疲れとんか、そらしゃあないなぁ」
「おまえも私らと一緒に走りどおしやったもんなぁ」
師匠たちを困らせている。満身創痍の二人に、これ以上の負担をかけることはできない。しかし彼は、どこにその気持ちを持っていけばいいのだろう。
「すみません、……大丈夫です」
視界がゆっくりと上下に揺れている。なにか支えを探している友成の肩を、ぽんと叩く人がいた。それは後ろから、吹き抜ける風のようにやってきて、後ろからそっと友成の身体を支えてくれた。
「友成、ちょっと耳貸してんか」
「上に練習用の部屋取ってくれてたやろ。リハの前に付き合ってや」
すでにどこかで練習をしてきたのか、青崎も伊丹も、軽く息を切らしていた。手には演奏用の三味線と小鼓を持っていた。最後の最後まで、誠実であることの証左を見て、友成は正気に引き戻された。それは彼にとって嬉しいことではなかったけれど、後退するにせよ、足が動くようになった。
「わかりました。すぐに鍵を」
「お前が必要やねん」
スーツのポケットから鍵を出そうとした友成の手を、青崎の優しい言葉が遮った。伊丹が背中を支える手に力を込めた。座っている師匠たちを伺うと、洒落師匠が、背中を向けたまま「行っておいで」と言った。
「青崎、伊丹。友成をよろしくな」
青崎と伊丹は声をそろえて「はい」と言った。そっと背後を窺うと、伊丹と青崎は両際で彼を待っていた。青崎は綺麗な二重の眼をはっきりと開いて師匠たちに向け、伊丹は黙ったまま、心配そうに友成の顔を見ていた。
「師匠。……またのちほど戻ってきます」
洒然師匠が、手の指をゆっくり動かして見送ってくれた。もう永遠に会えないかのように、優しく穏やかな「さよなら」だった。友成は手を振り返さず、深く頭を下げて、楽屋を後にした。
*
階上にある出演者用控室に向かうために、エレベーターホールに向かおうとする友成を、青崎が「こっち」と誘導したのは、中野サンプラザのすぐそばにある四季の森公園だった。街路のそばにキッチンカーと、販売用のテントがいくつか立っている。行き交う人の楽しそうな顔を見ると、ここも今日はお祭りの会場になっているのが分かった。
「ここに、なにか用事があるんですか」
「用事なんかなんもない」
青崎は芝生の上に置いてあるベンチに座って、三味線をゆっくりとおろした。
「休憩しよ、友成。俺らも一息入れるから」
背負っていたリュックの中から缶コーヒーを取り出しながら、伊丹が座るように促した。あの時、伊丹と青崎と初めて会った時、師匠たちに「面倒見たれ」と託されたことが、夢のように思えた。むしろ、今日までの日々がすべて夢のように思えるくらい、この二人は変わった。友成は、自分だけが二カ月前に取り残されたような気がしていた。
「どしたん、友成」
冷えた缶コーヒーの表面と、頬に交互に触れる。指を濡らすのが涙のしずくだと二人が気づくまでに、少し時間がかかった。
「……僕は、あの人たちになにもしてあげられない」
「師匠たちはそんなこと思ってはらへんと思うけどな」
「演者ではない僕は、あなた方みたいにはできないんです」
しばらくの間、梢の音と無関係な人たちの朗らかな話し声が三人を包んだ。街路の木々を照らす日差しは七色に輝き、熱が降り積もるように肩や腕に降り注いだ。
友成は自分の鞄から出したハンカチを口元にあてて、喉の奥にこみあげる声を、なんとか飲み込んでいた。
「……なんや、そんなこと悩んでたん」
伊丹が気の抜けた声を出した。青崎も「なぁ」と相槌を打った。
「ほな、お前も出たらええねん」
「は……?」
「演者じゃないと、板の上に立つもんやないと、師匠らに物言う資格がないとお前は思うわけやろ。ほな、お前も舞台に出たらええねん」
「そんなこと、できるわけないじゃないですか」
「いや、これが意外とできるねん」
他でもない、青崎の手で表舞台に引きずり出された伊丹の苦笑は、なるほど説得力があるかもしれない。しかし、言われた側の友成が簡単に納得できる理論でもなかった。言葉の正しさに、揺れ動く感情がついていかなかった。
「なんの芸もない素人が舞台に出ても、お客さんを満足させることなんてできませんよ」
「お客さん満足させるのは、お金いただく俺らの仕事や。お前の仕事は、師匠たちの芸を完璧に面白いもんにすることと違うんか? 最後にしっかり笑えるような構成になってたら、師匠たちも納得してくれはるやろ」
あまりにも楽観的な予測に、友成は呆気にとられた。しかし、なぜ自分でも同じことを思いつかなかったのだろうと思った。その閃きは、全ての行程を理解して、演者の動きと観客の感情を予想しきる友成の頭脳に、これまで一度も見えなかった新しい絵を描いていった。途切れていた道の先に見えた光景が、友成の感情を動かした。
「……本当にできると思いますか?」
「できると思う。……むしろ友成にしかできへんやろ」
伊丹はよく思案したことを示す小さな間を伴って答えてくれた。
「師匠たちの晴れ舞台を、僕みたいな人間がめちゃくちゃにするんですか?」
青崎は友成が海賊の親分を吹っ飛ばした時と同じ笑顔を見せた。
「俺やったらめっちゃ嬉しいな。自分の芸人人生支えてくれたマネージャーが、最後の最後に舞台ぶち壊しに来たら、面白すぎて拝むかもしれん」
そんな乱暴な論理が易々と通じるはずがないと、心に浮かんだ希望を何度宥めてみても、結果はおなじだった。一度浮遊した気持ちは、二度と同じ深みには沈まなかった。
友成は静かに立ち上がった。苦い炎みたいな日差しも、楽器を持っている彼らを奇異に見る人々の目線も、最早気にならなかった。
「……灯明先生に言ったら、叱られますかね」
「いいや、あの人も面白いことやったら付きおうてくれはると思うで」
「俺らも最後まで付き合うで。なぁ?」
「とてもありがたいと思っているのですが……お二人とも、面白がってますよね?」
友成は涙の跡を拭いながら、青崎と伊丹のにやけた顔を目で刺した。二人は、「やっと友成らしい顔になった」と顔を見合わせて笑った。
*
「へぇ……面白いこと考えますね」
灯明星も既に会場入りしていて、割り当てられた控室で進行確認をしていた。トーガのような衣装に、細い丸が連なった特徴的なネックレスをしている灯明は、小柄な身体ながら言葉で多くの人を動かす構成作家らしく、言葉少なに、しかし確かに何かを考えている顔で進行表を眺めていた。友成は口を挟まずに、灯明の思考がまとまるまで待った。
「……進行表の、最後の部分。御舟師匠に花束を渡して、挨拶の言葉をいただく予定だったんです。最初は西中のお二人に持って出てもらおうかと思っていたんですが、友成さんが花束を持って行ってもらうことにしてはどうでしょう。挨拶の前に、マネージャーさんからも感謝の言葉を述べてもらう予定です、と師匠たちには伝えておきます」
「ありがとうございます」
「いいえ。……思い切りましたね、友成さん」
「……正しいことなのかどうか、僕には断言しかねるのですが」
「舞台の上に正しさなどないですよ。面白いか、面白くないかのどちらかだけです」
灯明先生は、眼鏡のレンズ越しに真っ直ぐな瞳で友成を見つめて威圧した。
「演者さんの精いっぱいの努力でも面白くならないのなら、それは構成作家の見せ方が未熟なのです。演者さんが気に病むことはないんですよ」
この人は言葉の強さと責任感の強さがしっかりと表裏になっている。信頼できる人だと友成は思った。
「急な要請にこたえていただきありがとうございます。感謝します」
「感謝の気持ちは舞台上で返してもらいたいですね」
きちんと厳しい言葉で締めくくった後、
「……師匠たちも喜んでくれると思いますよ」
そっと背中を押してくれる一言を添えてくれた。友成は二度目の最敬礼のお辞儀をした。
*
多くの期待を背負って始まった「中野サンプラザ演芸祭」は、静かに立ち上がった。芸人たちは滞りなく自分たちの仕事をこなし、一人五分の持ち時間をオーバーしたりしなかったりしながら進行が進んでいった。裏で立ち働く友成が楽屋に寄ると、師匠たちがなにやら慌てている気配がした。洒楽師匠がいつも腕に巻いている時計が見つからないらしかった。
「……最後の最後にやらかしたなぁ」
洒楽師匠が肩を落とすのも無理はない。舞台上で見ることは一度もなくとも、彼の時間を共に刻んできた大切なものに違いなかったから。友成は少し考えてから、自分が腕に巻いていたアップルウォッチを外して、師匠に渡した。
「使い方を簡単にお教えしますね」
「でも……おまはんも時計ないと困るやろ?」
「僕はスマートフォンで見ることができますが、舞台上でそうはいかないでしょう」
洒楽師匠は沈痛な面持ちで友成のレクチャーを受けた後、「はは、心拍数とかも分かるん」と空笑いをこぼした。
「ええ、案外便利なものですよ」
「……ごめんな、友成」
「どうして師匠が謝られるんですか。こういう時のために僕がいるのですから」
「お前が組み立ててくれた完璧な進行予定に狂いが生じたんやないかと思ってな」
「……いえ、師匠が舞台に出てくださるだけで良いんです」
持っていた黒革の手帳を鞄に仕舞い、身軽になった。師匠の時計のベルトを締め直し、いつもの金色のベルトの位置に留まるように調整する。
「本当はずっとそうだったんです。師匠たちが憂いなく舞台に出られれば、お客さんは喜んでくれたはずなんです」
「お前も大きい男になったんやなぁ」
師匠が腰を支えていた手を離して、心地よさそうに手首を回した。
「師匠に育てていただきましたから」
「下手な背中見せられへんな」
「いつもの格好の良いお姿を見せてくださることを、確信しています」
黒紋付の青崎と伊丹が楽屋に入ってきた。流石の二人も表情が硬くなっていた。そんな二人の肩を、師匠は優しく撫でてやり、上に向かせた。
「……ほな行ってくるわな」
「はい。最後まで楽しんできてください」
師匠が楽屋を出ていくとき、いつもスーツの内ポケットに入れている扇子から、そっと沈香の匂いが香った。友成はその香りが漂う後ろ姿に「ごめんなさい」と先に謝った。
*
三味線の撥が弦を弾く音、軽快な小鼓の音がキリリと舞台の空気を引き締める。西中島南方の二人は、いつもの出囃子を少しアレンジして、余韻のある仕上がりにしてくれた。舞台袖で微笑みながら見ている師匠たちと対照的に、満員の客席からは涙の零れる音さえ聞こえた。四十年のキャリアを超える老漫才師の引退公演とは思えないくらい、老若男女問わずに人が詰め掛けていた。出囃子の二人が深く頭を下げ、袖にはけると、御舟師匠たちはいつものように、散歩のような歩調で舞台へと出て行った。
「……え~、皆さまお集まりいただきましてどうも、どうもね」
「演芸祭復活の最後がじじい二人で申し訳ないね」
「中野サンプラザさんからのご厚意なんで、ここはひとつ堪えてくださいよ」
「ワシらもやめといた方がええて言うたんですよ、一応」
青崎と灯明先生の企みで、師匠たちが最近披露している十八番のネタは、大体形を変えて消費されつくしているはずだった。何のネタをやるつもりなのだろうとしばらく耳を澄ましているうちに、友成には輪郭が掴めてきた。絶対に死にたい男と、今日だけはその男に死んでほしくない死神が攻防を繰り広げる「死神」というネタ。
そのネタは師匠たちが若い頃によくかけていたもので、若い世代の漫才師たちは知るはずがないが、長年御舟洒楽・洒然のファンたちは当然知っていた。老年の観客たちがワクワクし、笑いのタイミングを待ち構えているのが、袖で見ている友成にも伝わってくる。時事ネタを織り込み、会場がある中野区の小ネタでくすぐり、出囃子の二人にも少し触れ、と寄り道をしている間に、師匠たちの顔の憂いが晴れていくのが見て取れた。客席を十分に沸かせ、額に汗をかき、そっとその手を下すと同時に幕引きだった。時計がないから正確には分からないが、友成の体感ではほんの少しいつもより長く、会場の拍手は更に長く続いた。
「友成さん、ちょっとそのまま」
舞台袖で、傍らに置いてあった花束を持ちあげた友成を、カメラマンの鬼束が呼び止めた。
「うん、良い写真撮れました」
自分は演者じゃないのに……と言いかけて、ふとその口を噤んだ。
「鬼束さん、今日のハイライトはこの後です」
「へえ……え? そうなんですか」
「はい。一秒も目を逸らさずに、師匠たちを撮っていてくださいね」
「分かりました」
鬼束が足音を殺して客席側に出ていくのを見届けてから、もう一度深呼吸をする。喉は燃えるように熱く、視界はふらふらと上下していた。それでも背中を押してくれる人たちの視線が、友成の足を動かした。
「それではここで、御舟洒楽・洒然師匠のお二人に花束の贈呈です」
司会の女性の声に導かれて、そっと舞台に近寄る。三八マイクの前にいた師匠たちが、友成の姿を見て、意外そうに笑った。
「お前がこういう場に出てくるん珍しいな」
洒楽師匠がマイクから離れて、小さな声で囁いた。友成はマイクに一歩近づき、花束を受け取ろうとしている師匠の手に届かない位置から答えた。
「ちょっと……師匠たちにお伝えしなくてはならないことがありまして」
一言目の声は、きっと震えていた。二千二百人の観客に見つめられている感覚は、決して居心地のいいものではなかった。伊丹と青崎に付き合ってもらい発声練習をしたが、それも意味があったかどうか分からない。それでも、一度上がった舞台を途中で止めることはできない。
「お伝えしなければならないって……何?」
咳を堪えている洒然師匠が、ごくんと喉を鳴らす。友成は鎖骨の下に痛みを感じながら、笑顔を作った。
「弊社では引退されるとき、所定の手続きを行っていただくことになっているのですが、手違いがございまして、本日の引退は難しいという判断になりました」
「え……え?」
「それ、今言うのん……?」
師匠たちがマイクの外から疑問を投げてくる。明らかに戸惑っているのを肌で感じながら、友成は続けた。
「はい。本日お日柄も良く、絶好の引退日和かと思うのですが、今回はお見送りいただきたく存じます」
洒楽師匠が、先に「あっ」という顔をした。続けて洒然師匠も「うわ」と呟いた。「死神」のネタの決め台詞を乗っ取ったので、師匠たちにも意図が伝わったようだった。
「何をニコニコ笑顔で言うてくれとんねん、ここまで来て書類不備で引退撤回すんの? そんな漫才師おる?」
先に飲み込んだ洒楽師匠が乗ってくれた。
「弊社では初めての試みです。おめでとうございます」
「めでたくはないねん、その初物は全然美味しない」
「仰る通りです。私も本日のお昼ご飯は味がいたしませんでした」
「そらそやろな。お前の手違いやもの」
洒然師匠も相槌を打ってくれた。二人の顔に滲む苦笑いと「やられた」という表情が、この拙い試みが成功したことを物語っていた。
「実は、本日引退を取りやめていただきたいのは他にも理由がありまして……」
「ほう。しゃあないからそれも聞かしてもらお」
「まず、先ほど出囃子を演奏していた西中島南方のお二人から、師匠たちの出囃子を使わせて欲しいと申請が出ています」
「引退後やったら、そんなん勝手に使うたらよろしやんか」
「そうは参りません。神聖な出囃子ですから。きちんと書類を読んでいただいて、三か所ハンコをいただきたく思います」
「わかったよ……あとでハンコ持ってくるから……」
「それから」
「まだあんの?」
「師匠たちの漫才を継承したい漫才師が十組おります。彼らにもネタ一本ごとに書類を書いてもらっていますので、こちらもきちんと読んでから、サインかハンコを」
「面倒くさいのう。今時ハンコて時代でもないやろ」
「遺産相続みたいなものですから、なんとか堪えてください。亡くなった後だったらもっと大変でしたよ」
真面目な顔で手続き上の不備を言い張る友成の耳にも、客席のくすくす笑いが聞こえ始めた。
「ほな書類書いたらもうええのんか?」
「いえ、実は弊社では引退枠を用意しておりまして」
「引退枠てなんやねん。今初めて聞いたが?」
「私も古い規約を遡ってようやく見つけました。事務所の倉庫がぐちゃぐちゃです」
「どんだけ引退させたくないねん、この人は」
「規約によると引退はひと月に一組までとのことなので……今月はオウムの番のピコちゃんとペコちゃんが出産のためにマスコットを引退したので、お二人の引退は見送りとなりました」
「オウムのピコちゃんとペコちゃん!? 誰が知ってんのそれ」
「SNSで大人気でして、引退を惜しむ声が続出しました。私としても大変残念です」
「私らオウムに負けて引退でけへんの?」
「そうなります……ね」
友成が覚えていた台詞を全部吐き出して、そっと師匠たちの顔を窺うと、師匠たちはもう笑ってしまって顔が戻らなくなっていた。
「蛇足ながら、ついでにもう一つ」
「もうなんでもいいよ。好きなこと言え」
「私の個人的な感情からも、師匠たちには引退などしていただきたくありません。まだまだ老体に鞭打って客席を沸かせるお背中を拝見したく存じます。辞めるなどと寂しいことをおっしゃらずに、最後までお仕えさせてください」
「…………今それ言うんずるいやんか」
「お前にそれ言われたら、私らもうなにも言われへん」
「良かったです。こちらの花束、回収させていただきますね」
「おい! ほんまに持っていくやつがあるかい!」
「その花束、結局私ら一回も受け取ってないわ!」
友成が早足で舞台からはけると、師匠たちは顔を見合わせて、そっと三八マイクの前に戻ってきた。
「……ほなそういうことになりましたんで」
「あいつの言うことには、残念ながら敵いませんで」
「もう少しお付き合い願いたく存じます」
深々ともう一度二人で頭を下げると、その日一番大きな拍手とわーっという歓声が会場を包んだ。
*
御舟洒楽・洒然師匠が楽屋に戻ると、演者たちが全員立って待っていた。
「師匠、お疲れさまでした」「最後まで笑わしてもらいました」言葉では尊敬している口ぶりだが、全員顔が半分にやけていて話にならない。師匠たちが目をぐるりと回し、友成を探すと、友成は涼しい顔で「お疲れさまでした」とお茶のペットボトルを差し出してきた。
「……今更引退撤回なんかできるのん」
「できますよ。うちの会社に引退届という書類はないので」
「ないんかい!」
「ええ、だから今回のネタを青崎さんと灯明先生に考えてもらったんです」
「そういえば青崎と伊丹は?」
「あの二人は大阪です。この後夜の公演に出演する予定で、一足早く新幹線で向かってもらいました」
「あいつらあのネタ見んと行ったんかいな」
最愛の弟子にも裏切られ、御舟師匠たちは大きなため息を吐いた。
「二人とも、師匠が引退するなんて全然信じていませんでしたよ。僕がやらなければ、自分たちがやっていたと言っていました」
「…………阿呆どもめ」
「友成、あいつらと付き合うて良くない影響受けとるんちゃうか?」
友成は「ふふ」と笑っただけで、なにも答えなかった。師匠たちの影響を受けて、今大きく成長している途中の、二人の旅の無事を祈るばかりだった。
「友成、手出せ」
「はい」
友成が長い指をそっと差し伸べると、金色の腕時計が手に載せられた。
「それ、お前にやるわ。さっき内ポケットの中から出てきた」
指で髪を乱しながら、洒楽師匠が言った。
「良いんですか? 師匠が長年使われていた時計……」
「アップルウォッチは無くしても場所が分かるんやろ? こっちの方が便利がええ」
ねじ巻き式の古風な、しかし美しい時計をしばらく見つめてから、友成は微笑した。
「後で師匠用に設定し直して差し上げますね」
「ん。よろしゅうな」
「はーぁ、久しぶりにゆっくり休めるはずやったのになぁ」
「まだまだ働かんとあかんとはなぁ」
「師匠たちは人を笑わせている姿が一番素敵ですよ」
老漫才師たちは「そうかなぁ」と言いながらも、にこやかに談笑している演者の輪の中に溶け込んでいった。そのマネージャーは、一世一代の大芝居を終えて、満足そうに灰色の目を細めた。
(了)
このお話は一旦完結です。お付き合いありがとうございました。
この後小話が幾つかと、続編を今書いている最中です。
そちらも良ければお付き合いいただけると、大変嬉しいです。