喜劇 Chapter.9(後)
こうして新しい家族の肖像画が少しずつできあがっていった。昼間真由里が病院の受付として働く間、伊丹は家でシナリオライターの仕事に勤しんだ。子ども食堂や公園や校庭を行き来する快活な小学生たちが、窓の外で昼や夕方を告げる声だけが、その部屋の静寂を揺らした。悠真は一人遊びの上手な、手のかからない子どもだったが、伊丹は控えめな悠真の小さな希望を少しずつ聞き出して、ささやかな夢を叶えてやることを生きがいにした。
「悠介くん、氷とお塩でアイスつくれるってほんま?」
「できるで! やってみよか」
二人は真由里がいない間に、簡単な工作を企て、食器洗い用の洗い桶に氷を満たしてアイスクリームを冷やしたり、小さな天体模型を作って部屋の一角に吊るしたりした。太陽も水星も火星も手が届く星なのだと知った悠真は、大いに喜び、飽かずに天井を眺めた。悠真は大人に可愛がってもらう夏休みを生まれてはじめて堪能して、毎日眠くなるまでたくさん笑った。伊丹は悠真の寝顔を見ることが、なにより好きになった。青崎の動画が公開されて、気軽に外に出ることはできなくなった後も、人の顔が夜闇に紛れる頃になると、ごく近くの店に買い物に出たり、夜の街を散歩して歩いた。悠真はどこへ行くにも伊丹の手を握るか、腕に抱いてもらった。伊丹も暑いとは一言も言わず、何度でも大切なものを手に握り込むように、子どもの手を取った。真由里の眼には少し甲斐甲斐しすぎるように見える仕草も、悠真の心から嬉しそうに笑う顔を見れば、伊丹は悠真の本心を引き出す名人なのだと思えてきた。
西中島南方の漫才とコントを愛してやまない悠真は、伊丹に時々深い示唆を与える役目も担ってくれた。子どもの恐るべき集中力と青崎譲りの洞察力を、伊丹は尊重し、最大限聞き入れた。夜中のあるひととき訪れる悪魔のささやきが書かせた夜迷いごとが、昼間を支配する天使の美しい横顔からこぼれる、ささやかな口添えによって作品になっていくのは、楽しい仕事に違いなかった。伊丹は東京で展開されるお笑いの世界から追放を受けても、笑いの神に見放されることはなかった。
そんな二人は、真由里の目から見ると、年の離れた兄弟のように映った。真由里も伊丹のことを名前で呼ぶようになり、「悠」と途中まで呼びかけるだけで二人を振り向かせるようになった。食器棚には悠真のカップと色違いのカップが用意され、伊丹が最初にかばんを下ろした部屋の隅っこは専用の荷物置き場になった。真由里が昼に帰宅すると、伊丹は食事の用意をして待っていてくれた。人並みに偏食を始めていた悠真も、伊丹が作るものならよく食べた。真由里は声に出さずに驚いたが、それは子どもの小さな手で食材を触らせたり、下ごしらえに参加させてやるとか、手間のかかる面倒を惜しまずに作られたものであることが分かってきた。「悠真は何でも食べて偉いな」と褒められて、伊丹を笑顔で見つめる悠真の顔を見ていると、三人での生活が愛おしく感じられた。
真由里が珍しく夏風邪を引いた時も、伊丹は程よく離れた距離に悠真を隔離し、昼となく夜となく傍にいてくれた。「風邪がうつるよ」と言っても、「こういう時こそ助けにならんと」と言って身の回りの世話をよく焼いた。真由里が思い返しても、悠真が生まれてから、熱を出すのは初めてなのだった。最初に熱が出て、次にひどい咳が出て、鼻水が止まらなくなるという風邪の症状を一通り経験する間、真由里は初めて人の世話になることを経験した。熱が長引いて、悠真のことが心配だと打ち明けると、伊丹の母親が兵庫から来てくれた。関西の女性らしい細やかな神経とおおらかな精神で、恐縮しきりの真由里に、果物を剥いて差し出してくれた。伊丹の母は、弱っている真由里が気づかないうちに家事を済ましてくれて、お礼を言う間もなく去っていった。初めての「おばあちゃん」に緊張していた悠真も、「また来てくれるかな?」とこっそり聞いてくるほど、可愛がってもらっていた。
真由里が熱でまだだるい体を無理やり起こしてお礼を言うと、「孫みたいな子が可愛いてしゃあないんやって。また元気な時に来たいって言ってたから、もしよかったらお邪魔させたって」と伊丹の方が頭を下げた。青崎にこっそり相談のLINEを入れてみたら、「伊丹のお母さんはそういう人や」とアドバイスにならないような言葉が返ってきた。ようやく熱が下がり、暖かい布団で作り置きの雑炊を食べている時、青崎の言葉がのみ込めるようになった。ベランダ越しに母を見送る悠真と伊丹の後ろで、真由里はそっと微笑んだ。
二週間と三日の結末はあっという間にやってきた。青崎が意識をしていたかは分からないけれど、連絡がついたその日、八月十七日は伊丹の誕生日だった。悠真と真由里は、誕生日会の準備をしながら、隣の部屋でその電話を聞いていた。悠真は途中で堪えられなくなったのか、狭い部屋の中をぐるぐる回りだし、最後は机の下に隠れてしまった。自分が見つからなければ、伊丹は帰らずにいてくれるかもしれない、そんなことを思っているようだった。真由里はそっと悠真に近づいて、小さな背中を撫でた。
「悠介くん帰ってしまうのさみしいなぁ」
「……うん」
「でも、これからも悠介くんの漫才みたいやろ?」
「みたいよ。いっぱいみたい」
「ほな、笑顔で送り出してあげなあかんなぁ」
笑顔を作ろうとする努力は、涙で簡単に流れた。既に青崎と「おばあちゃん」との別れを経験していた悠真は、人がいなくなるということを理解していた。
「……笑われへんときはどうしよう?」
電話を終えた伊丹が、悠真に気づいて隣へ来た。
「無理に笑わんでいいよ。俺もすっごい寂しい」
悠真が両手を伸ばして、伊丹の肩にしがみついた。
「僕もいつか、東京いきたいなぁ」
「そん時は劇場にも来てくれよ。生で俺らの漫才見せるから」
「絶対いく!」
その日のケーキは、甘いクリームが、誰にとっても少ししょっぱく感じた。
悠真は「悠介くん、一緒に寝よう」と誘いに来て、伊丹を最後の晩まで独占しようとした。
伊丹は「真由里さんと話したらすぐ行く」と返事をしてから、ベランダで月を見上げていた真由里の傍へやってきた。網戸越しに冷房の風が流れてくる。
「お月さんよう見えるな」
「うん」
「家からはスカイツリーがよく見えるんやけどな、月見るんやったらここからの方がええな」
宙に浮かんだような団地の一室から見える月が、冴え冴えと光って目を眩ませた。
「いつかスカイツリーも見に行ってみたいわ」
「いつでも来たらええよ。青崎も喜ぶと思う」
「どうかな。悠真一人なら喜ぶかも」
「真由里さん一人でも喜ぶよ。……真由里さんに、今の自分の漫才見てもらいたいて思ってるはずや」
青崎の言葉を代弁するのに、言い訳は必要なかった。二週間の夏は、伊丹にささやかな自信と新しい熱を与えてくれた。
真由里はなにか口をついてはやめ、繰り返し飲み込んでいた。伊丹は手に持っていた缶ジュースを揺らしながら、風鈴の音に耳を澄ましていた。真由里は「はぁ」と淡い溜め息を吐き出して、一口ジュースを飲んでから、そっと小さく口を開いた。
「もう二度と会わへんつもりで東京に送り出したんや。私は悠真と二人で、大阪で生きていくって。……それやのに、こんなんずるくない? 忘れたくても忘れられへん」
普段愚痴など決して言わない真由里には、こんな優しい一言も、緊張を催すものらしかった。親愛と信頼を足して、遠慮と夢を応援したい気持ちをそこから引いて、まだ余る、厄介な気持ち。伊丹には真由里の気持ちが痛いほど分かるようだった。
「俺かってそうや。お互い雲雀には振り回されるなぁ」
「ほんまやなぁ」
月の光が、二つ並んだ缶ジュースの表面の水滴を照らしていた。
伊丹は少しだけ言葉を用意してから口にした。
「なんか困ったことがあったら、いつでも俺のこと呼んでな。なにしとっても飛んでくる。……いや、やっぱり困ったことなくてもええや」
「わかった。会いたいって思ったら、連絡するわな」
真由里は笑ってくれた。
「約束やで。お愛想とちゃうからな」
二人は握手を交わす代わりに、缶ジュースの側面を打ち付けて、再び月へ向き直った。
どこからか夕餉の匂いが香りが漂ってくる。仄明るい夏の夜に似合いの、太鼓の練習をしている音が響いてきた。
*
帰る日の朝は、爽やかな風が吹き抜ける青天の日だった。九月のかたちをした筋雲が、窓越しに流れていた。季節が、生まれ変わろうとしていた。
伊丹は終電の新幹線を予約して、約束通り友成に一報を入れた。友成から短く「分かりました」という返事が返ってきたのを確認して、それ以降スマートフォンを開くのはやめた。代わりに、明日から保育園へ行く準備をしている健気な子どもの一挙手一投足すべてを記憶に刻み付けようとするように、悠真の傍に坐っていた。
「保育園でもお絵かきするんやな」
「うん」
伊丹は悠真のクレヨンを借りて、画用紙の束の一枚目に、無造作に絵を描いた。三つの肌色の丸が人間に変わっていくのを見ながら、悠真が「一個たらへん」と言った。伊丹は言われた通り、もう一つ丸を描き足した。悠真がふわふわの茶色い髪と、赤い眼鏡の縁を描いてくれた。
「そういや、髪染めなおさなあかんのやった」
人目を避けるために、伊丹は大阪に来てから髪を暗い色に染めていた。
黙って立っているだけで絵になる青崎に、せめて見劣りしないようにと明るく染めていた髪。悠真の小さな体を抱き上げる度に、喜んで触ってくれた。悠真が画面越しに見ていた頃の自分に戻るのだと思いながら、髪の先端に触れた。
「髪、染めるんやったら私やろうか?」
昼休憩中の真由里が、気づいて声をかけてくれた。
「真由里さん仕事あるやろう」
「午後は先生往診やから、病院は休診なんよ。せやから手伝ったげる」
「ほな、お願いしようかな。あ、あとの風呂掃除は俺に任して」
真由里が洗面台下の収納から出してくれたケープをかぶって準備をしていると、インターホンが鳴る音がした。
「お水届いたかな」
真由里が出ていった後、悠真が写真を撮らせてほしいとタブレットを持ってきた。悠真を膝に乗せて、二人できゃっきゃしながら真由里を待っていると、鋭い驚きの声が洗面所まで響いた。伊丹と悠真は顔を見合わせて、部屋の出口を覗いてみた。
「……お前がしつこぉこっち来い言うから、顔見に来たったで」
「雲雀!」
「なんやねん。お前、いつ見ても変な格好してるな」
アーチ型の入口にかかるカーテンを長い腕でどけて、青崎が立っていた。伊丹は驚きのあまり、「失礼なやつやな」と相槌を打つタイミングを逃した。
「……悠真、ただいま」
膝の上の重さが消えて、子どもの両足が風のように駆けていく。青崎は悠真の目線まで膝を折ってから、悠真の身体を抱き留めた。
「雲雀くん!」
「大きいなったな?」
「しんちょうのびて、先生にほめられた」
「そうか」
悠真の細い髪を乱さないよう、そっと頭に手を載せて、繰り返し撫でていた。
悠真の目には、今青崎の優しい顔だけが満ちているのだろう。青崎の後ろにいた真由里が、すんと鼻を鳴らすのが聞こえた。
「ほんまに急やなぁ」
「すまんな。今日は二人ともおるやろうと思ったから」
真由里の手に、青崎は触れない。青崎の手は悠真の頭の上に、その為だけにここに運ばれてきたものだと、伊丹には分かっていた。それが二人の距離なのだと、伊丹は分かっていた。分かっていても、少し淋しかった。
「うち、麦茶しかないけど」
「ありがとう」
短い会話の中に温もりがあった。それだけで伊丹はほっとして、もう一度青崎の前に立つことができた。
「出不精のお前が大阪まで来るて……なにしでかしたんや? 師匠怒らしたんか? しゃーないから一緒に謝りに行ったるわ」
「お前俺をなんやと思ってんねん。お前がおれへん間飯食わしてくれはったけど、別に怒ってはらへんかったで」
「ほな何しに来てんよ?」
「…………」
もう伊丹の顔を見ずに、側にいる悠真の髪を優しく撫でた。
「無駄にしょっちゅうビデオ通話してくるから、お前が」
「悠真の可愛い顔見たいやろ?」
青崎はその綺麗な顔を歪ませて、片頬だけで笑った。悠真の前で崩れそうなのを堪えている、寡黙で優しい父親の顔を、伊丹は満足して眺め見た。
「雲雀、俺髪染めんとあかんねん」
「は」
「お前ちょっとやってくれ。後ろのとことか、自分ででけへんねん」
面倒くさいとか、匂いがつくとか言われるだろうかと思ったが、青崎は素直に「そやな」と言って、荷物を廊下におろした。
真由里が悠真を手招きして「ここ暑いから、奥で待っとこ」とリビングへ入っていった。伊丹は三脚椅子に腰かけて、ケープを首の周りに巻き直した。
「お前、黒髪似合わへんな。中学生かと思ったわ」
「雲雀は学生の頃からずっと黒髪やな」
「……その、呼び方も」
真由里が置いて行った扇風機の風が、二人の間をそっと通り抜ける。
「そう。学生の頃は名前で呼んどったのにな。いつから、名字でしか呼ばんようになったんやろうなって」
二人が「西中島南方」になる過程で置いてきたものを伊丹は思い出した。それは、雛が成鳥になるまでの間に抜けて落ちてしまう、親鳥の嘴が触れた痕跡。青崎もそのことには気づいていた。気づいていながら、いつか伊丹が過去に戻ってくることを期待して、諦めて、けれど忘れることもできずに、時間に身を任せていたのではないか。
伊丹はもう一度、青崎に問いかける。これからの二人の行く先を。
「また雲雀って呼んでもええか?」
「別に、なんでも好きなように呼んだらええやないか」
染色剤が入った容器を適当に振っているだけで、青崎は鏡の中の伊丹に目を合わせない。迷っているようにも見えた。
「なあ、雲雀」
「なんや」
「ここには俺らの漫才を世界で一番好きでいてくれる人が二人おる」
「……」
「あの二人の顔見て、俺ら、最後までやらな嘘やで」
カシャカシャと液体を混ぜ合わせる音が止まった。青崎が櫛の先に薬剤を付ける間、伊丹は息を詰めて鏡を見ていた。
「……どこまでやったら満足や?」
「てっぺんや。お前が言うてっぺんまで、俺らいかなあかん」
東京から大阪まで、いや全国まで、客席の歓声が届くようにしてみせる。目の前のことで精一杯で、目標を持ったことがなかった伊丹が、初めて見つけた目標を告げると、青崎はゆっくりと目を伏せた。
「それで人に恨まれたり、苦しめることになっても?」
伊丹は目を逸らさなかった。真っすぐに相方の顔を見つめていた。
「お前と真由里さんと悠真。自分のこと理解してくれてる人が三人もおるって分かっとったら、俺はどんなことでもやれる」
風呂場の窓から入る光に、青崎は顔をしかめた。
「人蹴落として、泣かして、つらい思いさして、そこまでしてお前がやらなならんことなんか?」
「それでも、俺はお前の隣におりたい」
錦糸町駅で再会した時、青崎が口にした「覚悟」を、自分のものにしなければと思った。人前に立つ覚悟ではなく——二度と相方を一人にしない覚悟。
「お前が一人で泣くのを、画面越しに見てるのは嫌や」
「……あれは演技やて言うたやろ」
「でも、俺が戻ってこんでもええて、どっかで思ってたやろ? お前はいっつも、俺の逃げ道を用意してくれる」
青崎は聡いのに、いつも伊丹のことになると判断が狂う。先回りして感情を読んで、可能性を淡々と数えて、どうしてそんなことになるのだろうと伊丹は思う。まるで愚者の片思いのようだった。
青崎は「ケホッ」と咳を吐き出した。薬剤がしみたのか、後ろを向いて、繰り返しせき込んだ。
「おい、大丈夫か?」
やがて咳が収まると、片目に涙が滲んだ。青崎は涙を袖で拭って、静かに項垂れていた。
「……芸人道中、貧乏と辛酸舐め尽くして、後はなんも残らへん、地獄みたいな世界やぞ。そんでもええか? 面白いもんなんぞ、なんもあれしまへんで」
「今さらさみしいこと言うなよ。お前と一緒に行くんやったら、地獄までも行ったるて決めたんや。二人やったら、地獄の底でも楽しいやろ」
落ちた前髪を腕でかき上げて、それからふっと笑った。
「地獄の底に行ってもお前と漫才せんなんのか。俺は前世でどんなことしたんや」
「そら、前世も漫才師やったんちゃうか? 地獄の鬼笑わせ足らんて、閻魔大王様のお叱り食らったんやろ」
「それで今世もこんな辛い渡世か。あーあ、つくづくやっとられん。やめさしてもらうわ」
「お前が漫才師やめて何が残るねんな」
「そこは適当に、嘘でもいいから「お前の存在に価値がある」とか言うてくれよ」
「言うかそんなもん。お前の笑いの才能は俺が一番身に染みて分かってるねんぞ。お前は世界一面白い男になるんじゃ」
青崎はひとつ溜め息を吐いて、長い腕を風呂場の天井に向かって伸ばした。「しゃあないな」という美しい低音の声が、午後の陽の映る窓に反響して、すとんと伊丹の耳に落ちてきた。
「俺は誰よりもお前の才能を信じてる。十四の時から、多分今わの際まで信じてるやろう。だからお前は、余計な心配せんと、毎日ネタ書いて人を笑わしてくれ。俺はその為やったらなんも辛ない」
「……信じるからな、お前の言葉」
「ようやく信じる気になったんか」
「お前が言うから渋々、仕方なくや」
「それでええ。雲雀が誰か笑わしてるとこ見るのが、俺好きなんや」
ようやく後頭部に、冷たい薬剤が触れる感覚が伝わった。髪が櫛削られるごとに、頭皮がじんと痛み、鼻孔を薬剤の香りが満たし、髪は不愉快に額に張り付いた。鏡の中の自分が変わっていっても、青崎は変わらず信じてくれている、という気がした。
「お前と地獄にいかんでええように、精々頑張らしてもらいますわ。お前も精々日頃の行い良うしとけよ」
「そうしよ。人生は地獄よりも地獄的って言うしな」
「誰やそんな気の利いたこと言うたやつ」
「芥川龍之介」
「ええな、座右の銘にする」
伊丹はケープの下で、見えないように拳を固めた。この瞬間のうだるような熱と肌を焼く痛みを、いつまでも覚えていようと思った。
*
伊丹の髪は、しばらく後に元通りになった。最初に薬剤を付けた後頭部のあたりが少し黄金色っぽくなっている気がするが綺麗にできていると言うと、「その方が面白いと思って」と臆面もなく青崎は答えた。伊丹が怒って髪をくしゃくしゃにするのを、青崎は笑ってみていた。
リモートワークでは社会人としての体面を保てそうだったが、出社をしたらどうなるか分からなかった。もうしばらく後輩の緑川くんに手間をかけそうだと、伊丹は内心で溜め息を吐いた。
ともかく、表向き髪が元に戻ったので、青崎と二人で写真を撮った。日頃は撮影しないツーショットを、わざわざ真由里に頼んで撮ってもらった。その写真を「ご迷惑おかけしました」という一文を添えてSNSにアップして、伊丹はさっと画面を閉じた。人に注目されることに慣れていないので、無邪気に溜まったメッセージや、コメントの量に圧倒されていた。そこからしばらく目を逸らそうと、伊丹は悠真を抱き上げた。青崎の写真などSNS用か宣材写真くらいしか撮らなくても、悠真の写真はいくらでも残しておきたかった。
「悠真がYouTubeやってくれたら毎日でも見るのに……でも、悠真の可愛さが世界中に知られてまうんも困るなぁ」
悠真はYouTubeを“お笑いを見るための道具”だと思っているので、「僕、なにもおもしろいことでけへん」と真剣な顔で伊丹に訴えた。伊丹は「それでええねん。悠真はいてくれるだけで十分価値があるんやからな」と優しく言葉をかけた。二週間の間ほとんど定位置になっていた伊丹の膝の上から動かない悠真を、青崎はダイニングのベンチからじっと黙って見ていた。
「悠介くん、ずっと悠真の面倒見てくれててな」
「……うん」
「兄弟みたいに仲良くて、微笑ましかったわ」
「……そうか」
青崎の短い返事の中にこもる複雑な葛藤を読みとって、真由里はそっとほほ笑んだ。
「子どもが大きくなるのは早いからな。またちょこちょこ帰ってきて」
「……大阪での仕事、マネージャーに探してもらうわ」
その横顔に今までにない真剣なものを感じて、真由里も笑わずにはいられなかった。
「雲雀くんのそんな顔、初めて見た」
「そうか……?」
「うん。悠介くんのおかげかな」
伊丹の膝の上に乗せてもらって遊んでいる悠真が、楽しそうな笑い声をあげていた。日頃悠真にさみしい思いをさせていることを痛感しながら、伊丹の人を笑顔にする力も感じた。
「……もっと早く来てもらえばよかったな」
「うん。悠介くんなら、きっと悠真のこと祝福してくれたと思うよ」
木川東にある小さな団地で、真由里と二人で過ごした春夏秋冬が蘇る。二人だけで子供を育てたことに後悔はなかったが、この子どもが世界に祝福されていることを、望まれて生まれてきたことを、もっと早く伝えてやれればよかった。
「俺の相方、ええやつやろう?」
青崎は真由里にひっそりと囁いた。
「うん。ええ人選びはったな」
「自慢の相方や」
伊丹本人には決して見せない優しい顔で言った。そうとは知らない伊丹は、「雲雀〜悠真が呼んでるで」と笑いながら青崎の名前を呼び、「でかい声で呼ばんでも聞こえとるわ」といつもの憮然とした表情に戻してしまった。
「……嫉妬する気もせんくらい、仲良えんやなぁ」
ぽつんと呟いて、真由里も彼らの側に行こうと思った。その時——
「あ、ねぇ、雲雀くん、電話鳴ってるよ」
テーブルの上に置かれた青崎のスマートフォンが光っていた。
「誰やろ」
留守番電話が応答する前に、青崎は電話を取り上げて、耳元に当てた。
「友成? ……うん、大丈夫や。今? 大阪やけど」
「友成さんて」
真由里が口元だけで伊丹に聞いた。
「俺らのマネージャーや。よう世話になっとってな。いつか真由里さんと悠真にも会ってほしいな」
「そうなんや。大阪まで来てくれはることあったらお会いしたいなぁ」
二人が話している間に、電話に耳を澄ましていた青崎の顔色が、少し変わった。
「伊丹、今日の新幹線キャンセルできるか」
「えっ、あぁ」
「大阪の舞台で穴あいてしもたんやて。友成が衣装持ってきてくれるから、代演で出てくれへんかて」
「何時から?」
「六時」
「待ってくれよ、あと三時間しかないぞ。ほんで持ち時間は」
「二十分」
「そこそこ長いなぁ! でも大阪のお客さんの前に久しぶりに立てるな……」
悠真の顔をちらっと見ると、期待に目を輝かせていた。
青崎は電話口を塞がずに、伊丹の答えをそのまま友成に聞かせた。
「俺らは大丈夫。出さしてもらいますって返事しといて」
「あっ、お前」
「六時に難波な。……了解。そっちも頼むわな」
友成との電話を終えて、青崎は伊丹に向き直った。
「そういう訳やから、今からネタ合わせやろか」
「雲雀、もしかせんでも新ネタやろうとしてるな?」
「悠真にぬるい漫才見せてお茶濁すわけいかんやろ」
「僕も一緒にいってええん?」
「雲雀くんと悠介くんの邪魔せんかったらな」
二人の間にいる悠真を、真由里がそっと手招きして、隣の部屋に連れて行ってくれた。
「ぜったい邪魔せえへん! 大人しいしとく!」
「ありがとうな、真由里、悠真」
青崎は少しだけ悠真に優しく微笑みかけてから、いつものノートを鞄から出した。ノートの反対側から伊丹が覗き込み、頭を突き合わせて打ち合わせを始めた。
「やっぱりテーマは「失踪」かなぁ」
「髪今日染めといてよかったわ」
「前と後ろで色違うんも小ネタになりそうやな」
「雲雀も変装してみるか?」
「ええやん、おもろいかもしれん。ほないつもの衣装じゃないほうがいいか……」
「失踪した俺じゃなくてお前がジョーカーの衣装で出てきたら、会場すごい空気になりそうやな」
「何それ、お前の失踪に切れてジョーカーになったっていう設定? アホな理由でええな」
「急いで衣装探しに行くか。車があると早いんやけど……」
窓の外からクラクションの音がした。柔らかいその音には聞き覚えがあった。伊丹はそっとカーテンを開けて驚愕し、すぐさまスマートフォンを取りに走った。
「友成!」
「もうこっちに着いてますよって青崎さんから聞きませんでした?」
ベンツの窓から顔を出して、掌を上に向けて手を振る。相変わらず水の垂れるようなスーツ姿で、今日も完璧に整った顔をしていた。二週間ぶりに会っただけで、伊丹の眼は軽く潤んだ。
「乗ってください。あなた方のことですから、新しいネタを考えたり、衣装見繕ったり忙しいでしょう? 移動しながらやりましょう」
伊丹は急いで荷物を取り上げた傍ら、一瞬だけ、その部屋の空気を懐かしむように手を緩めた。ここを出たら、もう悠真とゆっくり話をする時間もなく、東京に帰らなくてはならない。どんなに笑おうとしても、うまく表情を作れなかった。
「悠介くん」
「……ん?」
悠真の軽い体を抱きしめて、耳を澄ます。悠真の小さな手が、染めたばかりの髪を撫でてくれる。
「ごめんな、きょうは僕笑われへんかもしれへん」
涙がいっぱい溜まった目を、そっとTシャツの表面にくっつけて、泣いているのを見せまいとする。
「……俺も寂しいよ、悠真」
「最後に笑った顔でお別れしたいねんな」
真由里の言葉は、子どもらしい悠真の感情の意味を、いつでも伊丹に教えてくれた。
「俺、悠真の可愛い笑ってる写真いっぱい撮ったんや。だから、今日ぐらい泣いてても大丈夫。……大丈夫や」
「……うん」
宝石のような大きな瞳からぽろぽろと零れる涙を、心から愛しいと思った。
「伊丹、俺にも」
こういう時、滅多に自己主張しない青崎が、涙で濡れている二人の顔を上げさせた。青崎はそっと悠真のおでこに額をつけて「カッコいいところ見せるから、いっぱい笑ってくれよ」と言った。そこには父親としての誇りがあった。
しかし、涙腺が弱くなっている悠真は「雲雀くんはずっとかっこええもん~」と慰められるどころか余計に大泣きした。伊丹のTシャツは水を浴びせたようにくしゃくしゃになった。
「……すまんな、待たせた友成」
真由里が間に入ってくれて、ようやく車の後部座席に滑り込んだのは、友成が着いた数十分後のことだった。
「いいえ。お別れの時間は大切ですから」
友成はいつかのように、伊丹に目を冷やす用の保冷剤をくれた。そして当たり前のように、青崎にもくれたので、青崎はそっと窓の外に視線を逃した。
「お二人にとっては古巣ですけれど……解散した今はチャレンジャーですね」
「全力でいかなあかんな」
「俺らのこと、覚えてくれてるお客さんなんておらんやろうなぁ」
「新人のつもりで、胸貸してもらいに行こや」
しかし舞台に上がると、彼らを待っていたのは、割れんばかりの大歓声だった。「西中お帰り!」の声と、拍手の音が混ざり、幕が開く前から凄まじい音が会場を埋め尽くしていた。
「……どないなってんの?」
伊丹の震え声での質問に、舞台袖に立っていた友成が答えてくれた。
「大阪のお客さんから、日に日に問い合わせが増えていたんです。今の二人の漫才が見たいって。伊丹さんの一報が入って、青崎さんも大阪に戻っているし、いい機会なので穴を利用させてもらいました」
「……復帰して初舞台がこんな緊張感の中やて、芸人冥利に尽きるな」
青崎が不敵に笑い、緑色に染めた前髪をかきあげた。
照明が暗転し、出囃子が流れ始めた。再結成した時、青崎がどうしてもこの曲がいいと言い張り、伊丹は特に反対もしなかった。二十八歳で死んだアメリカのアーティストの曲「without you」——今では伊丹の耳にもなじんでいる。
「なぁ、雲雀」
客席から聞こえる歓声を聞きながら、すぐ隣に立っている青崎を見上げる。
「なに」
「どんな苦労しても、ここから見る景色はええな」
「……そやな」
「じじいになっても、一緒に見たいな」
「あぁ」
重低音の響きが最高潮になった。静かに舞台の明かりが灯っていく。
「行くか」
二人の喜劇が始まる。
「どうも〜! 西中島南方です!」
「大阪の皆さん、お久しぶりです! よろしゅうお願いします」