喜劇 Chapter.9(前)
その日の朝、伊丹悠介は轟音が鳴り響く高架下、西中島南方駅にぽつりと立っていた。
駅から荷物の入ったトランクを引きながら、猥雑で賑やかな駅周辺の空気を通り抜けると、軒燈を掲げた米屋や、古びたケロヨン人形が立つ薬局などが並ぶ古風な通りが現れる。
その近くには、眩暈を起こさせようと狙っているのかと思うほど眩しい電飾に囲まれたスーパーと、伊丹が学生時代によく通っていたラーメン屋とが向かい合っており、伊丹はその店の前にできている行列を、郷愁と共に眺めた。
しなびた野菜の匂いが漂うスーパーと、塩ラーメンの匂いに挟まれた道を抜け、木川公園の前まで来た。公園の傍らにはひときわ目立つ、白壁にぐるりと囲まれた瓦屋根の建物に柿の木が生えており、それは昔からこの風景に溶け込んでいた幼稚園の目印だった。
その季節になれば、子供たちが鈴なりになった果物を強請る愛らしい声が聞こえてくるのだろうと、伊丹の頭をよぎる。
青い実をつけ、悠々と立つその柿の木を見て、心の底から安堵するとともに、やっと東京から帰ってきたことを実感し、伊丹はささやかに頬を緩ませた。
彼の仮住まいを引き受けてくれた、その部屋の住人と連絡が取れたのは、ほんの三日前のことだった。到着日と時刻の報告以外、ほとんどやりとりもなしに、伊丹の身柄を引き受けてくれたのはどんな人物だったのか、伊丹は青崎に深く聞いていなかった。
四階建ての集合住宅の二階。朝と夕方に木川小学校の子どもたちの声が通り抜けるその小さな建物は、夏は通学路にひんやりとした木陰を提供し、冬は小さな要塞となって雪を蓄える。毎年新しく入ってくる新入生の子どもたちは、その年卒業していく六年生と同じように、傘を振り回しても人に当たらず、隠れる場所に富んだコの字型の建物に親しんだ。早咲きのバラを這わせたアーチのある前庭に子どもたちの声が聞こえてくると、住人たちは時間を確認しなくても、一日の始まりと終わりを知ることができた。
新大阪で新幹線を降りてすぐにその場所に向かったのに、伊丹は部屋の前に佇んだきり、しばらく考え込んでいた。廊下の突き当りにある窓から、蝉が鳴く声が聞こえた。鈍い躊躇いがスニーカーの足先と、伸ばしたり縮めたりしている指を押し留めていた。連絡先としてもらったLINEの名前は、「SHINO」と表示されている。家の玄関にも「紫野」と表札が出ていた。だから「シノ」さんなのか、と心の中で呼んでいたその名前に納得しながら、伊丹の青白い憂いは晴れなかった。東京を離れた時に感じた涼しい風のような気持ちは、夏っぽい水色の空の下へ引きずりだされると同時に吹き飛んでしまい、後は古びた街の香りの残るアスファルトに打ち付けられたようだった。
少し口を滑らせると、伊丹は後ろめたかった。「西中島南方」というコンビ名を勝手に名乗っている自分が、この街にそれほど愛着を持っていないことに。この団地から少し行った先にある「塩元帥」というラーメン屋にほれ込んで何度も通っているうちに、「西中島南方」はゴロが良いなと伊丹が思い、青崎も反対しなかったので、コンビ名に収まった。そんな縁が転がって、いつの間にか自分の半身のように感じていた名前を、今更この街の人に堂々と名乗れるだろうか。
芸人らしい挨拶も思いつかないまま、自信を喪失してエレベーターホールへ向かう背中に、「伊丹くん?」と声がかかった。振り返ってみると、思わず「あっ」と声が出た。「シノ」さん——紫野真由里が、扉の内側から顔を覗かせていた。
「久しぶり」
紫野さん。いや、紫野先輩。
中学の一年先輩だった彼女の顔を思い出すと、学生時代の記憶が鮮やかに浮かんできた。生徒会長を務めていて、卒業生代表として答辞を読む姿や、作文かなにかで表彰されている真由里の後ろ姿。年上の優等生の女子と親しくなるほど、伊丹は目立つ生徒ではなかったが、彼女とは面識があった。運動会の徒競走中に「頑張って」と声をかけてもらった記憶さえあった。姉のような親近感は、どこで憶えたのだったか……
「雲雀くんから聞いてるよ。外暑いやろ、はよ入り」
——当時の面影を残したままの泣きぼくろを柔らかく微笑ませて、真由里が伊丹を手招きした。
伊丹の代わりに、窓の外の蝉が大きな声で返事をした。
照れくささと驚きにまだ戸惑っていると、真由里の白いスカートの裾が、微かに揺れた。
「……伊丹くん? ほんまに、ほんまの伊丹くんが来てくれたん?」
小さな顔を上気させて、目を輝かせた男の子が、扉の影から顔を覗かせていた。伊丹のスニーカーの底が擦れて立てる音が、羞恥心を飛び越えて声になった。
「お、俺のこと知ってはるん……?」
「わー、喋ってくれたぁ。お母さん、伊丹くんやぁ」
なにもかもが小さい、そう思った。真由里を見上げるその頭の大きさも、今にも玄関から飛び出しそうなその小さな足も。頼りなくて、儚くて、なのにしっかりと生きている感じが、伊丹の心を鷲掴みにした。
「なになに、めっっちゃ可愛いやん……お名前なんて言うん?」
肩に掛けていたバッグを片手に抱え、子どもの目線まで膝を折る。子どもはその距離に「わっ」と驚いて、茶色いさらさらの髪がふわりと跳ねた。照れくさそうに頬を染め、「えへへ……」と言ったきり、言葉が続かない。
「悠真、お名前教えてって」
「……しの、ゆうまです。五才です」
「紫野さん」の「シノ」だ。年の数だけ手のひらを開いてみせるのは、この年頃の子なら、誰でもやる仕草なのだろうか。短い指が星のように瞬く、その一方で母親のスカートの裾を離さないのが、なんとも可愛らしかった。
「ゆうまくんかぁ。俺、下の名前悠介ていうねん。仲良うなれそうやない?」
握手のために手を差し出すと、おそるおそる小さな手を伸ばしてくれた。
「知ってるよ……悠真の悠は、伊丹くんからもらったって、雲雀くん言うてたもん」
「……そうなん……?」
さぞかし間抜けな顔をしているだろう自分を俯瞰しながら、伊丹は息をのむ。
青崎を下の名前で呼ぶ女性と、自分の名前を分けた子ども。友がひっそりと、口には出さずに隠していたものが、根元から解けて散っていく。「西中島南方」は、もう彼にとって見知らぬ閑静な土地でも、ラーメン屋の聖地でもなかった。喜劇役者の仮面を被ったが最後、必ず巡り合うクライマックスの場面で現れる背景を見た——そんな心持がした。
「伊丹くん、ごめん。いきなりで驚かせてしもたよね」
「いや、こちらこそ……すんません。全然事情知らんで来てしもて、その」
真由里は伊丹の戸惑いを飲み込むように、控えめに頷いた。細い首の中ほどで切り揃えられた髪の先が動いて、はっとするほど白いうなじが覗いた。
「追々説明するわな。でも、うちはほんまにお構いいらんから、どうぞ上がって」
片手で軽く作られた扉の隙間から、そうっと人の家の気配が漂ってくる。それは子どもがいる家によく似合う、土と紙の匂いに、がちゃがちゃとした暮らしの温もりが混ざったもので、懐かしみとよく似たものを醸していた。
「……お邪魔します」
行く宛のない伊丹に断る理由はなかった。まだつないだままでいる手の先、悠真の小さな体が、喜びをこらえきれないようにぴょんぴょんと跳ねた。
「悠真、足音が下に響くよ」
呆れと安堵を取り払ってしまうと、真由里の声もまた、弾んで聞こえた。
持ってきた荷物をそうっと床に置かせてもらい、ほっと息をついた。それほど疲れているわけではなかったが、人の家の敷居をまたぐ時の妙な緊張感が、まだ付きまとっていた。
「今お茶入れるわ。座っとってね」
その部屋はおおむねグレーとベージュで構成されていて、敷布も間仕切りのカーテンも、静かであたたかだった。もてなしの心がそのまま空気に溶けているように、部屋の中は涼しかった。ダイニングには、四人掛けのテーブルと背のない椅子があった。その奥には洋室と畳の部屋につながる扉が見える。三部屋は目的ごとに区切られているが、部屋ごとの境が平坦で、どこへでも行ける。しかし部屋の隅に置かれている二人分の荷物は、どこか寂しいような気がした。真由里と悠真がこちらを向いて笑っている写真が、飾り窓の上に置かれている。その写真を撮ったのは、誰だったのだろう。玄関の三和土で感じた通り、この家に真由里と悠真以外の住人はいないらしかった。
「麦茶でええかな」
「はい、もちろん」
グレーのダイニング用のベンチに腰かけた真由里の対面に腰を下ろし、氷の入ったグラスに注がれた液体を、すぐさま喉に流し込んだ。思ったより喉が渇いていたようで、グラスの中身がすぐ空になった。麦茶ポットからお代わりを注いでくれる真由里の眼差しは、手のかかる子どもを見ているようだった。
「……俺の顔、なんかついてます?」
「ううん、なんで?」
「紫野さん、さっきから俺の顔ばっかり見てる気がして」
「真由里でええよ。悠真も「紫野」やからね」
「ほな、真由里さん」
真面目な顔をすればするほどおかしいというように、真由里はくすりくすりと小さく笑った。真由里が笑うほど、目尻の泣きぼくろや、悠真に似た形のいい唇から、不用意な色気が香った。伊丹は正直に綺麗な人だと思い、直視を避けて、どこか遠い場所にある海を想った。
「……青崎に、俺のこと聞いてます?」
「聞いてるよ。「西中島南方」の伊丹悠介くん」
爪の短い指先が、目の前でくるりと三日月を描く。
「ずっと会ってみたいと思ってた」
「……そう言われると、なんか照れくさいな」
「ほんまはね、もっと前から知ってるん。伊丹くん、一回「学苑」に遊びにきてくれたことあったよね」
その時もう一度、伊丹は「あ」と声を漏らした。
「そうか……二人、幼馴染やったんですね」
「おさななじみ。ええように言うたらそうかな」
青崎は学生時代に一度だけ、伊丹に「学苑」—青崎が住んでいた施設の内側を見せてくれたことがあった。
役所や警察署に似た白い壁に囲まれた建物。二人用のベッドと机が詰め込まれた六畳の部屋がずらりと並ぶ居室。学校の給食室によく似た広い食堂には、夏休みの真ん中でも、子供の眼と手が溢れていた。
真由里と伊丹は、その場所で初めて言葉を交わした。無言がちな青崎の隙間を埋めるように、真由里はよく笑い、よく喋ってくれた。真由里は中庭にある樹木の陰に座り、今のように長い睫毛を伏せて、明るく乾いた風のように「早く普通になりたい」と呟いた。青崎は、黙ったまま傍らに立っていた。真由里は女の子の形をした、小さな孤独の塊だった。青崎と真由里、一人と一人が寄り集まって作る孤独は、重くて、脆くて、向こうが透けて見えるのに、決してその心の奥底まで悟らせなかった。言葉にする真由里と、言葉にもしない青崎が、どれほど切実な感情を抱えていたか、伊丹には想像しようもなかった。
その日は自宅に帰ってから出されたハンバーグが喉を通らず、伊丹がその話を打ち明けると、両親が施設に掛け合ってくれて、青崎は長期休暇を伊丹の家で過ごせるようになった。高校に上がってもその習慣は続いた。年が経つにつれ、自由が増えるにつれ、青崎との関係は「普通」になっていった。真由里とは、その後一度も会わなかった。
伊丹がそんなことを思い出している間にも、真由里は伊丹の顔をじっと見ていた。その眼は伊丹の内心を精緻に読み取っているようにも見えたし、別の宇宙にいるようにも見えた。
「……あの」
「伊丹くん、好きなアイドルの情報って調べる?」
「アイドル?」
オウム返しをしている自分の声が、なんだか素っ頓狂に聞こえた。
「アイドルに興味なかったら、俳優でも、お笑い芸人でもいいや。好きな人とか、気になった人のこと、全部知りたいと思うタイプ?」
腕を組んで、しばらくその質問に向き合ってみた。その間真由里は、テレビのある部屋に向かった悠真の動きを、見るともなく見ていた。
「…………気になって気になって仕方ないけど、調べたりはせんタイプです」
その答えがどういう話に繋がるのかは分からない。分からないが、伊丹は正直に答えた。真由里はすらりとした手の甲に載せていた指を、そっと伊丹の方へ動かした。蓮の花の花弁みたいに澄んだ指先が、窓の外から差し込む光の線を受けて、静かに光った。
「なんか夢が壊れてほしくないというか……勇気がないというか。全部知るのは、俺はええかなって」
「やっぱり。そうやと思った」
真由里の笑顔は、いつかの夏の日差しを思い出させた。日の光が完全に差し込んでいない、暗がりの内側にある夏。真由里は十二年越しに、あの日の思い出を指先でなぞる。
「伊丹くんは今、一生懸命納得しようとしてるんやね」
「ど……どういう?」
「雲雀くんがなんにも説明せえへんくても、伊丹くんは好意的に受け取って飲み込んでくれる。二人は、ほんまにええ友達なんやね」
胸がざらつくのを感じた。しかし反発するほどのものはなにも持っていなかった。真由里の声は優しかった。生傷に消毒液をぶっかけて、白いガーゼを押しあてるような、痛みを伴う優しさだった。
「青崎は」
友の名を呼ぼうとして、口にしかけた名前を、そっと言い換えた。
「雲雀は……もしかして、真由里さんを傷つけた?」
「…………」
「悠真のことも……辛い思い、させてるんでしょうか」
真由里の眼が、そっと翳る。その視線の先には、悠真がいる。まだほんの五歳の子どもが、あの時の真由里と同じ眼をすると思ったら、伊丹は耐えられなくなった。
「……すんません!」
テーブルの上に指先を揃えて、その上に額を押し付けるように、頭を下げた。
「伊丹くん」
「雲雀は……漫才のネタ以外よう喋らん男です。綺麗な嘘も、器用な言い訳もようせえへん。そんなことのために口開いたんなんか、一回も見たことない」
伊丹が大学三年になったばかりの頃、解散しようと言い出したのは、青崎だった。青崎は「俺の勝手ですまん」と、深く頭を下げた。言い訳めいたことさえ言わなかった。その姿を見せられて、伊丹も次第に諦めた。暗闇の中に消えていく瘦せた背中に、さよならも言えなかった。
「真由里さんを傷つけたんなら、あいつが百悪い。言葉足らずで悲しませたんやと思います。ほんまにすんません。俺には頭下げることしかでけへんけど」
「伊丹くん、大丈夫やよ。私、なんも怒ってへん。頭あげて」
「……置いて行かれるのがどんなけ寂しいか、あいつだって分かってるはずやのに」
真由里が長いため息を吐いた。
指先が触れている赤いチェックのテーブルクロスが目に焼き付くほど長い時間、伊丹は頭を下げていた。
「やのに、俺らは漫才がしたい。二人に寂しい思いさしてしまうけど、あいつ以外、俺の相方はおらんのです。……すんません。ほんまに、すんません」
再結成を決めたその日の晩から、二人が過ごした四カ月の中に、人生の楽しいことが全部詰まっているような気がした。会場を沸かした日も、ウケなかった日も、喧嘩をした日も、黙って向かい合わせで不味い飯を食べた日も、漫才のことだけを考えていた間、途方もなく幸せだった。五年前に解散したその日から、一度も味わうことがなかった喜びを、二人はノートの隅々まで敷き詰めるように綴っていった。
「知ってるよ。だから、雲雀くんに東京行きって勧めたんや」
「真由里さんが……?」
「私と、悠真が」
悠真。澄んだ目をした子どもの名前を呟くと、悠真は「なに?」と稚い返事をして、伊丹の隣に来た。
「こんな小さい子が……」
しゃがみ込み、目線を合わせる。悠真は両手を差し出して、伊丹の髪を触った。
「ほんまに、柔軟剤使ったみたいにふわふわや」
青崎も似たようなことをよく言っていて、伊丹の髪を漫才のネタにしていた。誰かがそのネタに乗っかると、子どものように笑っていた。
そっと悠真の肩を両手で抱いた。掌の中に収まってしまいそうな小さな身体を確かめるように、Tシャツの背中を撫でた。
「さみしい思いさしてしもて、ごめんな悠真」
悠真も両腕を伊丹の背に回して、温かい頬を擦り寄せた。
「僕、ふたりの漫才好きやねん」
「そうか?」
「うん。雲雀くん楽しそうやもん」
息を吸う度に胸を軋ませる痛みに耐えながら、小さな声で本心を打ち明けた。
「……俺も、雲雀と漫才してるのが楽しい。いっちゃん楽しいよ」
青崎に会いたい、と強く思った。悠真と真由里が青崎に向けている優しい気持ちを、伝えてやりたかった。二人の存在は、きっと青崎を弱くしたに違いなかった。表情を作るのが下手になり、日々の厳しい仕事に追われてズタボロになったとしても、青崎は躊躇いもなく、十年でも二十年でも、二人を守ったに違いなかった。そんな青崎を、今は二人が守っている。それを何と呼ぶか、伊丹は知っている。青崎がずっと欲しかったもの。自分が捨てさせたもの。
「悠介くん、ずーっと雲雀くんといっしょに漫才しててね。僕、ずっと応援してる」
今すぐ熨斗を付けて送り返してやりたい。この優しい子どもの元に、あの寂しがりな相棒を。そう思いながら、両腕に力を込めた。
「悠真がそう言うんやったら、一生漫才続けるよ。おじいになっても、二人で悠真のこと笑わせるからな」
悠真が笑った。舞台照明も、模造品の宝石もない部屋で、キラキラ光っていた。
*
背景を洋室のソファに変えて、伊丹と真由里はゆっくりと話をした。悠真は二人の話を時折振り返りながら、テレビの前に座って動画を見ていた。
「妊娠して、一番最初に話したんが雲雀くんやったん。相手の人に迷惑はかけられへんけど、私は一人でも生みたいなぁと思ってる、て言うたら「俺には迷惑かけてもええんちゃうか」って言いだして。……それから、ずっと一緒におってくれた。相手の人のことも、一言も聞かんかった。それが私には、すごく、すごくありがたくてね」
「……あいつらし」
伊丹が笑うと、真由里も笑ってくれた。それは先ほど見せた痛みの残る微笑みよりも、ずっと快活だった。背の高い、太陽に眼差しを向ける花の横顔に似ていた。
「二人が漫才師やってたん、私知らんかったんよ。スーツ着る仕事とちゃうのに、妙にスーツが多いなぁと思ってたくらい」
「そらしゃーない。五年やってた間、ほとんど劇場におって、テレビなんかに出てたわけとちゃうし」
本当は、テレビもラジオも出演依頼の声がかかっていた。あと一歩、もう一カ月でも続けていたら、大阪の劇場を揺らした西中島南方の解散は、どこかに響いていたはずだった。
「悠真がお笑い好きになったのは、やっぱり雲雀くんの影響なんかなぁ」
関西の血にお笑いのエッセンスが混ざっているとか、自分も小さい頃は吉本新喜劇を見て育ったとか、いろんな言葉が浮かんだものの、結局泡のように消えていって、伊丹は素直に頷いた。
「漫才馬鹿の英才教育が行き届いてる。日本のお笑い界の未来を背負って立つ逸材に育つかもしれん」
「ふふ、そしたら父子漫才もできるな」
父子という言葉、それだけで伊丹の眼は軽く潤む。さっきから何度も手を伸ばしているティッシュの箱を傍に引き寄せて、白くて柔らかいティッシュの先端を引き抜く。
「悠真が雲雀の隣に立つくらいまで、俺がしっかりポジション守っとかなあかんな」
「雲雀くんをお頼の申します、相方さん」
「若輩者でございますが、精いっぱいやらしてもらいます」
二人は見合わせた顔を丁寧に下げ合った。
「二人の漫才、私ももっとたくさん見たかったな。東京の劇場までは、なかなか行かれへんし」
「あ、それやったら」
青崎と灯明先生が仕込んだ動画が公開されるタイミングで、友成が過去の動画をアップロードしてくれる手はずになっていた。三日後には過去のネタのほとんどがネット上で見られるようになるはずだと伊丹が言うと、悠真が真っ先に目を輝かせた。
「雲雀くんの漫才、もっといっぱいみられるようになるん!」
「よかったなぁ悠真」
「うん!」
悠真は漫才の方が好きなんやな。当然のことと思いながら、コントを書いている身としては少し悔しくて黙っていると、悠真は「コントは悠介くんがかいてるんやんな?」と言って伊丹を見つめた。
「うん? せやけど……俺言うたっけ」
「みてたらわかるよ、言葉が東京の人やもん。雲雀くんも、なんかしゅっとしてはってかっこええ」
拙い語彙を駆使して、精いっぱい伝えようとしてくれていることが分かった。
「嬉し~! めっちゃ見てくれてるんや」
「へぇ~そうなんや。悠真はずっと見てるもんなぁ。どれが面白いの?」
「僕、ラーメンやさんのコントすき。ふたりの店主さんがどっちもおもしろいねんで」
「俺らが一番最初にやったやつや……へへ、あれは雲雀がええなぁって言うて、今の俺らに合わして直してくれたネタなんやで」
「え~! そうなんや」
あのネタは西中島南方にある「塩元帥」と「人類みな麺類」が元ネタなんやで、と言うと、悠真は自分の身近にあるものがネタになったことに喜びをあらわにした。悠真もその店に行ったことがあると言う。実際のラーメン屋とネタの共通点を指折り数えて、驚嘆していた。
「悠介くん、天才やなぁ」
「え? へへへ……そんなことないけど」
伊丹の右腕に、悠真の小さな両手の重みがぶら下がる。ほのかに牛乳に似た優しい子どもの匂いと、素直な賞賛は、容易く伊丹の相好を崩し、それはしばらくの間戻らなかった。
「ラーメンええなぁ。今日の晩御飯ラーメンにしようか」
真由里が窓へ視線を向けると、カーテンの一部が紺碧と灰色に染まって、彼らの窓は夜の色をしていた。
子どもの夜の長さを思い出した伊丹は、すぐに悠真を抱き上げた。
「ラーメン屋でええか? 悠真」
「ラーメンすき!」
「よっしゃ、ほな行こ」
「抱っこしたままで行くの? 重いよ、伊丹くん」
「軽い軽い」
真由里が止めるのも聞かず、悠真に間仕切りのカーテンを開けさせて、伊丹は玄関の方へ向かっていった。真由里は悠真のサンダルと手提げ鞄を持ってついてきてくれた。
扉を開けると夜が始まっていた。蝉の鳴き声が潜んだ廊下に、三人の声がやわらかく吸い込まれていった。