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喜劇  作者: 新原氷澄
10/18

喜劇 Chapter.8

 初めて笑いというものを意識したのはいつだっただろう。


 多分、子どもの頃、テレビで吉本新喜劇を観たとき。日曜日のお昼にテレビを占拠する、演劇とお笑いと人情が混ざった舞台が新鮮だった。他人との関わり合いが希薄な世界で生きていれば、芸人たちが演じる温かな世界は虚構のものだとすぐにわかった。それでも、そこで適用される「お約束」が自分の世界でも使えると分かった時、自分もなにかを得た気になった。人に語るべき内面を何も持たない子どもが、誰かに振り向いてもらう唯一の方法だと、あの頃から確信していた。


 育った施設では、大人から距離を置かれる子どもだった。他の子どもたちより「飢え」がない分、手がかからず、そのことだけを褒められた。容貌に称賛が向くこともあったが、そこに宿るべき心がないと分かれば、人はすぐに離れていった。本心では誰も自分に興味がないのだと、誰に言われずとも知っていた。


 干渉されない代わりに、テレビを見る時間だけはあった。休日の昼間にやっている演芸大会、テレビ寄席、ネタ番組を好んで観るようになった。老いた男が並んでぽつりぽつりと話すだけで、笑いが巻き起こる。枯れた声も、険しい見た目も、ちぐはぐな衣装も、何でも武器になる。そんな場所がこの世のどこかにある。そこに、行きたかった。実際行く金も足もなかったが、それだけに憧れが募った。深夜ラジオで芸人たちが話す楽屋の様子を、瞼の裏に描いたまま眠った。そこにいる自分は、誰かに必要とされている。笑わせることで息ができるはずだと、根拠もないままに信じた。それは今でも、青崎雲雀にとって変わらない唯一の真実だった。


 伊丹がそんな青崎に食らいついてきたのは、奇妙な謎であり、奇跡だった。中学二年生の時、青崎が三組の一番前の席に座らされたその時から、伊丹はずっと青崎の後ろにくっついていた。


 名前の順がひとつでも違っていれば、別々の人生を歩むことになっていたはずだった。

 伊丹にはキャッチボールを教えてくれる父親がいて、音楽を嗜む母親がいて、二つ違いの弟もいた。朗らかで陽気で、友達も多かった。面白いやつとして尖る必要もないくらい「良いやつ」だった。そんな伊丹が何故漫才をやる道を選んだのか、青崎は明確な答えを知らなかった。


 青崎が初めて伊丹を誘った時、伊丹は何も聞かずに「ええよ」と言った。「お前、漫才見たことあんのか」と聞くと「お前が変なこと言うてるのはなんぼでも見たある」と言い訳にならないことを言った。

「お前が変なこと喋ってるの、俺好きや」とも。


 そこから二人は、ずっと会話を続けて、気づけば「西中島南方」になっていた。

 何度喧嘩をしたか、覚えていない。大抵一方的に青崎が伊丹を泣かせたが、時々はやり返された。

 どっちにしろ、泣かされた方は必ず相手を笑かして終わった。泣かせた方が勝ちではなく、笑わせた方が勝ちだと、いつの間にか不文律ができていた。


 芸人を志し、血肉に笑いが染み渡るまで、人に認められる芸ができるまでに八年を要した。劇場のある大阪まで毎週往復し、チケットの売り子と青田買いの批評家たちに顔を覚えられ、SNSのコミュニティで一方的に未来を嘱望された。そうして、大阪では辛うじて笑いで飯が食えると確信した年、二人はコンビを解散する。

 その理由について、青崎はまだ伊丹に話していないことがある。


 *


 強い照明が、瞼の裏に血色の絵を描く。夜色の眼が訴える痛みを、どこか他人事のように受け入れている、自分の身体の現実感も希薄になっていた。

 容赦なく照らし出された光の外側には、思ったよりたくさんの人がいた。見知った顔の人々が、奇妙に冷静な顔をしている。友成も、鬼束も、灯明も、青崎がカメラの前でミスをするなど、夢にも思っていないようだった。その信頼に縋るように口を開いた。

 白けた光の中で、自分の声らしきものが飽和していく。ふわふわと、魂を吐き出すように、青崎は言った。


「いなくなった相方を、探しています。名前は、伊丹悠介。……僕は、西中島南方というコンビで芸人をやっている、青崎雲雀です」


 青崎が現実から切り離される瞬間を、カメラが撮っている。


「身長は、百七十届かんくらい。茶髪で、くるくるの髪で、メガネかけてて……特徴は、驚いた時に丸くなる、でかい目。年齢は二十六歳。あぁ、こんなんで伝わるんかな」


 頬をひやっとした風がかすめる。手が、勝手に動く。なんとか伊丹の存在を伝えようと、必死になった。


「……今、写真出してくれてる? それ、その男、どっかで見かけたら連絡ください。俺の携帯番号——」


 友成がはっとした顔をしていた。本当の番号を言ったのが、友成には分かったのだろう。

 全く指示されていないことを口走った挙句、カメラに向かって深々と頭を下げる。上着の裾を握って、掌の汗を繰り返し拭った。


「あいつ見かけたら言ってくれませんか、大事な本番前にどこほっつき歩いとんねんて。ほんまにアホなやつですけど、あいつしか俺の相方はおらんのです。頼みます、これを見てるあなただけが頼りです」


 真っ直ぐ正面に陣取った灯明が、指先を軽く捻った。構成作家の上、演出の才能もある。たまらん人やと思いながら、青崎は左目から涙をこぼす。

 用意していなかった右目から落ちた雫は、手のひらを滑って、床へと吸い込まれていった。


「……俺たちは、御舟洒落・洒然師匠の引退公演のために稽古してる最中でした。あいつも師匠たちに餞の漫才するのを楽しみにしとったはずなんです。投げ出したりするやつやない。……何があったんかわからんけど、俺は信じて待ってます。あいつは帰ってくるって」


 もう一度深く頭を下げて、顔をまっすぐ上げる。カメラ越しに、涙の跡や震える指先まで見られている気がする。奥歯を噛み締めて、切実な願いを眉間に刻んだ。


「些細な情報でも構いません。あいつへの励ましの言葉でも、なんでも嬉しいです。よろしくお願いします」


 最後は、自分が瞼を閉じる音さえ聞こえた気がした。「オッケーです!」とカットがかかると、全員の口から、ほうとため息が漏れた。


「……素晴らしかったです。俳優の仕事が増えそうですね」


 一番最初に傍にきた友成が口を開いた。睫毛を伏して、灰色の瞳を隠すように俯いていた。友成が直視を恥じるような顔をするとき、内心ではこの上なく満足しているのだと、観察を重ねて最近覚えた。


「うまいこといくかな」


「それは、私のプランに不安があるという意味ですか?」


 灯明が冷ややかな顔で青崎を見上げる。踵の低い靴を履いているのに、下から槍で突き上げるような威圧感があった。


「まさか。灯明先生(あかしせんせい)はいつでも最高です」


「……どうも。あなたも、いつも予想以上の出来を返してくれてますよ。一人で舞台に立っていても、あなたはきちんと「西中島南方」の役割を全うしている」


「そう言うてもらえるよう、死ぬ気でやっとります」


「そういう演者と仕事ができることは、私にとっても幸運です」


 油断して笑ってしまわないよう、硬い言葉で褒めてくれる。唇を引き結んでも冷徹になりきれない灯明を、青崎は好ましいと思った。

 撮影現場に静かなため息が落ちる背後で、メイク担当と、写真担当の鬼束がバタバタと足音を交差させる。白い背景の前にはまだ緊張感が残っている。

 青崎が濡れた目をそっと拭おうとすると、


「青崎くん、まだ顔触らないで。そのまま撮るから」


 青崎は後ろに用意された椅子に座って、黙って顔を差し出す。見たことがない大きな刷毛や、何色もの肌色や茶色の粉が目の前を舞う。

 照明の温度帯が切り替えられると同時に、表情に寂寥と不安の色が付いた。

 プロの仕事に身を任せるのは心地良いが、左隣が空っぽの寂しさは埋まらなかった。

 自分がどんな顔をしているのか、青崎には分からない。案外平気そうな顔をしているんじゃないか、そう思って友成を見上げると、友成は優しく肩に手を置いた。


「なるべくあなたの傍にいるようにと、御舟師匠からも仰せつかっています」


「師匠たちの耳にも入ってんのかいな」


「当然です、あなた方の漫才を誰よりも楽しみにしていらしたのは、師匠たちですよ」


 自分たちに期待をかけてくれる人々の最後の舞台を汚しかねない企てを、師匠たちがおおらかに受け止めてくれていることを、しみじみとありがたいと思った。


「……期待以上をお見せしますって、伝えといてくれ」


「それなら既にお伝えしています。期待せず、確信していてくださいと」


 友成が塞いでくれた逃げ道に背を向けて、カメラの前に立つ。

 人々が相方の不在を忘れられなくなるように。ここが、青崎雲雀の独擅場(どくせんじょう)になるように。

 カメラの向こうで見ているすべての人々を相手取り、一世一代の大芝居に挑む。

 緊張が胃の底に染みた。喉にひりつくような不安感が貼りつき、掌はぞっとするほど冷え切っていった。それら全てを、隠さずにカメラの前で曝け出す。


「絶対最後に笑わしたるから、目を逸らさずに見とってくれよ」


 寒々しい閃光の中で、青崎雲雀は笑った。帰るべき場所のために。


 *


 灯明の想定通り、情報は速やかにSNSで拡散されていった。青崎のアカウントから発信された一分弱の動画は、一晩で三万ビューを記録すると、その数字はさらに加速度的に伸び続けた。そこへ友成が公式チャンネルに二人の漫才の動画を立て続けにアップロードしたことを告知し、「これを期に西中の漫才を知ってほしい」というファンの呟きに反応が集まった。青崎の涙を切り取ったサムネイル画像と二人の漫才の映像が繰り返しSNSの画面上に現れ、これが情報の拡散と共に、西中島南方の名前を世に広める一助になった。

 この動画が話題作りの虚構なのか、本当の事件なのかという議論は、世間に様々な反応を巻き起こした。

 無名に近いお笑い芸人の情報の信ぴょう性は、かつて彼らの芸を劇場で見ていた関西のファンたちと、青崎の電話番号に実際に掛けたという視聴者の証言が裏打ちした。青崎は、舞い込む取材や一人でこなす舞台の合間を縫って、電話に出続けた。


「確かなことはなんも言えんのですけど……俺は絶対戻ってくると信じてます。だから、あなたにも劇場にきてほしい。あいつが戻ってきたときに、劇場が空っぽやったら寂しいでしょう?」


 生身の声で、一人一人に語り掛けた。まもなく、この先二週間の劇場の空席がすべて埋まった。


「動画の反響、かなり良いですね。伊丹さんの情報も続々と入ってきてますよ」


 友成は毎日SNSを更新して、ダイレクトメッセージやコメントを公開した。一人になってもコンビとして踏みとどまる青崎への励ましの声が圧倒的だった。


「頑張ってください」「早く見つかりますように」「もう一度西中の漫才が見たい」

 ——匿名の祈りが、西中島南方の関係者の胃を、自業自得の罪悪感と喜びで痛ませた。


 一方、伊丹の所在については、確たる情報はなにもなかった。

 発信される情報は東京を中心に、大都市圏にまんべんなく散らばり、果ては北海道や沖縄からも届いた。


「日本中の人が相方の動向気にしてるて、不思議な気分やな」


 事務所の稽古場でSNSの反応を眺めていた青崎の声を、部屋の隅にいた友成が聞いていた。


「灯明先生の仕掛けもですけれど……やっぱりあなたの演技が圧倒的でした」


「そらどうも。演技っちゅうほどのことは、なにもやってないけどな」


 青崎は手に握っていた進行表を広げて、丁寧に埃を払った。


「……青崎さんは、伊丹さんと連絡とってるんですか?」


「時々。友成は話してへんのか」


「定期的に連絡は入れています。健康状態や、眠れているか、食事はしているか——そんな内容が主ですが。なにも変わりないと言うので、その点は安心しています」


 友成が、伊丹がどこにいるかより、健康に暮らしているかどうかを案じていることを、青崎は「友成らしい」と評し、心の温かい場所で喜んだ。


「最初に大阪に行ったと聞いてから、どこに向かったかまでは知らないんです。これだけ情報が散らばるということは、日本中を旅しているんでしょうか?」


「いや、それはないと思う。目立たんように一カ所に引きこもってるはず。……俺が一番信頼してる人に託したある」


「へぇ……」


 友成の頭の中に浮かんでいた無数の選択肢が、数本の分岐に収斂(しゅうれん)していく。

 青崎は自分のことをほとんど話さない。「一番信頼している人」を特定できるほどの情報は、友成も持ち合わせていなかった。


 それでも、「青崎さんが信頼している人なら安心です」と言った。それは本心だった。

 日頃どれほどそっけなくても、青崎が伊丹を大切に思っていることは、言動の端々から見て取れた。誰にも自分の重荷を譲らない青崎が、伊丹にだけはその重さをそっと譲ることがあった。伊丹も、なんでもない顔をして荷物の肩代わりを引き受けた。それは唯一無二の関係性に違いない。


「皆あいつがどこにおるか気になってる頃やろ。探しに行くのは良い時期かもな」


 いつも激しく音を立てる稽古場のパイプ椅子が、音もなく閉じられる。青崎雲雀の前では、万物がその自己主張をやめて、呼吸を噤む。友成も次の風の動きを読もうとして、自然と息を殺して青崎の動向を追った。


「明日休みやし、一日使うて映像撮りに行こか。友成が良ければやけど」


「もちろん。お付き合いしますよ」


「おおきに。マネージャー、頼りにしてるで」


 離れていく青崎の背中を見ながら、友成は自分の肩に載せられた信頼の重さを計ってみる。伊丹の不在で青崎が背負いこむことになった荷のいくつかを、自分は引き受けられているだろうか。


「おやすみ、友成」


 肩に背負った黒い鞄の中に進行表を仕舞うと、青崎はひらひらと手を振った。骨張った細い指がいかにも心許なくて、彼はこれから薄暗い屋根裏部屋に一人で帰るのだと思うと、胸が詰まった。


「……青崎さんがよければなんですが」


「ん?」


「サイバーライフ社のアンドロイドの様子が、ずっと気がかりなんです」


 ふっと溜め息のような笑いをこぼす気配がした。ゲームという共通言語があってよかったと思った。


「晩飯付き合うてくれるなら、こっちもありがたい。あいつおれへんと、飯食うのめんどくさくてな」


「それは是非いきましょう。それ以上痩せられたら、衣装が合わなくなってしまいます」


 あくまでマネージャーとして口煩く言うのだと言外に念を押すと、青崎は満足そうに眼を細めた。


「しっかりしてはるわ、うちの友成は」


 *


 翌日朝早く、二人は同じ家を出て上野に向かった。

 不忍が池は蓮の葉が覆い被さり、今桃色の花が満開を迎えている。白い空に浮かぶ太陽の日差しは雲にけぶって柔らかいが、台風が来る前の渦巻くような強い風が、風鈴の音をずっと遠くまで鳴らしていた。

 弁天堂の奥まで広がる蓮池は、東京に慣れていない青崎の眼には、果てがないように感じられた。


「……朝咲いてる花見るためにって、めっちゃ早起きさせられてな。上野までわざわざ来たのに、花そんな咲いてへんくてよ、流石に俺がツッコんだわ」


 Vlogのカメラを回しながら、友成が応じる。


「意外と付き合い良いですね」


「こんなでかい蓮池って、そんなにないもんな。見たことないもん見とくのは、なんでも芸の肥やしになるって師匠も言うてたし」


 引き合いに出された師匠は、今ごろ身に覚えのないくしゃみをしているに違いない。友成は苦笑いを素知らぬ顔で噛み殺す。

 行く当ても決めずに、池の端を歩いていく。まだ開く気配のない屋台が並ぶ道を、散歩の人や顔見知りらしい犬たちがすれ違っていった。


「青崎さん、犬に好かれる方ですか?」


「いや、まったく」


「……僕もです」


 青崎のカメラロールに収められた珍しい一枚。伊丹は朗らかな顔で数匹のトイプードルと戯れていた。


「あいつやったら、犬の方から知り合いみたいな顔して寄ってくるのにな。飼い主が引くぐらい好かれるで」


 犬同士で挨拶をしている光景を眺めながら、ぽつりぽつりと呟く。


「動物に好かれるのは昔からですか」


「そう。ペンギンとかにも好かれる」


「それは何の記憶なんですか」


「修学旅行で行った旭山動物園やな。歩いてたペンギンが、伊丹を興味深そうに見上げてた。あいつの前で行列止まって、飼育員のお姉さんが焦っとったな」


「……付き合いが長いと色んな思い出が出てきますね」


「ほんまの話やから、なんもボケられんで申し訳ないけど」


 ベンチに座っている青崎の横顔を撮る。色素の薄い透き通った肌と緑の池が好対照を作っている。昨日遅くまで起きていたのに、カメラの前では影一つ、おくびにも出さなかった。

 なんの工夫もなさそうな黒いシャツの袖から伸びる白い腕を画面越しに映す。その手が、友成の方へ伸びてきた。


「友成も撮ったろ」


「え、僕は良いですよ」


「伊丹を後で悔しがらせるねん。蓮の花の前に座って」


 昨日一度家に戻ってから合流したので、今日は私服姿だった。麻のシャツに着替え、ループタイで装いを軽くしたので、朝の風の涼しさが肌にそっと触れた。カメラを向けられた友成が笑顔を作らずにいても、それはそれで絵になった。


「友成と一緒に蓮の花見に来た。今日も散歩の犬がめっちゃおる」


「僕らには寄ってこないですけどね」


「……はよ帰ってこな、花全部閉じてしまうぞ」


 青崎の静かな声に、一抹の寂しさが潜んだのを、友成は明敏に察した。


「伊丹さんがいなくて、青崎さんは退屈そうです」


「——伊丹おらな漫才はでけへん。つまらん」


「事務所にも、ほかの漫才師はいくらでもいますけど」


 友成が本当のことを言うと、青崎はわずかに目を見開いた。


「……考えたこともなかった」


 青崎は友成にカメラを返すと、それから暫く黙っていた。池の周りを半周ほど歩いてから、小さく首を振り、吐息のような声で呟いた。


「やっぱりそれはないな」


 友成は安堵の感情の中で「そうですね」と相槌を打った。それだけ言ってしまうと、青崎はさっさと駅の方向へ踵を返した。蓮の花の香りが、名残を惜しむように空気の中を漂った。



 色彩の乏しいカメラロールを二人で覗き込み、次の目的地を決めた。

 清澄白河駅から少し離れた、隅田川沿いにある倉庫を改築した焙煎所兼ベーカリー。川面から距離を取るための堤防と、テイカカズラの垣根に囲われた瀟洒なカフェに入り、柔らかい木でできたテーブルに腰掛けた。香ばしく深みのある珈琲の香りと、パンの焼ける匂いが、涼しい風と共に店内を吹き抜ける。二階まで届く大きな窓は、教会のステンドグラスを思わせた。


「洒落た店ですね」


「ここも伊丹に連れてこられた。前来た時は珈琲飲んだんやけど、美味かったな。朝食も食べれるらしいから、腹減ってたら」


「せっかくなので、いただきます」


 バゲットサンドとコールドブリューの珈琲を注文し、パンが焼けるまで席で待つ。

 その間に、友成は上野恩賜公園から途切れず続けていた思案をそっと再開した。目の前に座っている青崎の眼差しは、テーブルの木目に吸い込まれて、そこから一歩も動かない。青崎は、優しくて寂しい瞳をしていた。その感情がどこから来るものか、友成は答えを見いだせないまま、何度も考え続けた。これほどまでに、深く人の心を知りたいと拘泥(こうでい)した記憶はなかった。

 マネージャーとしては、失格かもしれない。話しの切り出し方や展開次第では、信頼を損なうかもしれない。そう思いながらも、青崎が見せた感情の断片を振り払えずに、口を開く覚悟を決めた。


「少し、個人的な話がしたいんです」


「……ほう」


 頬杖をついていた手首から顔を上げて、友成の方へ顔を向けた。


「かまへんよ。友成の話、聞いてみたいと思ってた」


 友成はカメラのレンズをカバーで覆い、液晶画面を伏せた。神経質そうな青崎の指先が、少しだけ揺れた。


「青崎さん、兵庫県のご出身でしたよね。実は僕も、関西出身なんです」


「へえ。どの辺?」


「奈良です。家はちょっと古い旅館で、僕は一人っ子でした」


 水が入った透明のグラスと、友成の顔の間を、瞳がゆっくりと往復する。頬を熱が通り過ぎていく。冷たい珈琲と共に、喉の緊張を飲み込んだ。


「旅館の生活というのは、盆も正月もないものです。家族はいつも忙しく、広い家の中で、自分一人で生きられる人間にならなくてはいけませんでした。正月に出される冷や飯がなにより嫌いで、葬式の精進落としが好きだと思い込んでいたのは、今となっては笑えない記憶です。……家族のことは嫌いではありませんが、距離がある方がほっとします。もしかしたら、心のどこかで恨んでいるのだろうかと思うこともありました」


 この記憶は、誰にも触れさせたことがない。家と学校の往復をしている間も、行く先が京都の大学に変わってからも。自分の生まれ育った環境が、人と違うということを知るにつれ、普通の人生を装うことを義務のように感じた。内心がひび割れていっても、彼の凍えた灰色の瞳は、平然として見えた。それが幸運だったのか、不幸だったのか、今となっては分からない。


 まだ痛みが引いていない言葉をそのまま口に出しても、青崎は何も言わない。黙って耳を傾けてくれる。


「自分は幸福な方だったと理解しているんです。家族との距離はあったけれど、従業員たちが相手をしてくれました。年の離れた兄や姉の役目をしてもらったと思っています。それでも……」


「……そういう傷は、幾つになっても消えへんもんよな」


 祈るように組んだ両手が、静かに机の上に置かれる。青崎の内心にも、同じ傷痕があることを、友成は感じとった。


「辛ないか」


「お陰様で。お節介な御舟師匠と、西中島南方のお二人に、随分救われたと思っています。完璧ではありませんが、その不完全さも、受け入れられるようになりました」


 完璧であろうとする努力を認めてもらえることと、完璧でなくても受け入れられること。それは確かに、友成の張り詰めた精神を緩めてくれた。

 店内を流れる音楽、焙煎機から漂う珈琲の香り、囁き合う和やかな話し声、高い窓から差し込む明るい光が、二人の間をつなぐテーブルに温かい空気を運ぶ。しばらくしてから、息をひとつ吐いて、青崎はふっと笑った。それは安堵の吐息だったのだろう。


「俺ら、芸以外でも人の役に立てることあるんやな」


「もちろん。青崎さんに電話をかけてきた人たちも、そう言いませんでしたか」


 伊丹の不在に耐える青崎の姿は、遠い誰かの心の支えになっている。友成には確信があった。


「……そう言われたら、そんなこと言うてた人もおったな。……人の言葉を信じられんのは、ほんまに良くない癖や」


 青崎は寂しそうに笑い、「俺の話もしてええやろか」と訊いた。


 友成は「勿論」と言って頷いた。


「……俺には、家族ちゅうもんがおらんかった」


 無残なほど青い空が逆光になって、青崎の夜めく瞳と黒い髪を空間から浮き立たせる。


「生まれは大阪と聞いてるけど、それも詳しくは知らんのや。小学校から施設転々として、高校までは面倒見てもろた。身近には兄弟みたいなもんがおったけど、出てからはほとんど居場所も知らん。施設の中の人間関係て、全然続かんもんでな」


「……そうだったんですね」


「伊丹とは中学からの縁で……あいつだけは、ずっと傍におってくれたな。あいつの家族も、ほんまにようしてくれて。高校出て一人になった俺を、家族みたいに扱ってくれた。俺、漫才しかできへんのにな」


 どこに感情を置いていいのか、ずっと迷っていたのだろう。躊躇いがちに笑った。

 友成は、青崎の言葉に潜む危うさを、ようやく飲み込むことができた。

 師匠や灯明の前で見せた「死ぬ気でやっとります」という壮絶な言葉は、芸にかけるプライドではなく、一人で立たなければならないという悲壮感の表れだった。命を懸ける覚悟は美しいが、青崎の精神と肉体を削っているのは、身に余る罰のように思えた。


「じゃあ、解散したのも、それが理由だったんですか」


「理由はひとつじゃないけど……それもある。俺がずっと伊丹の傍におることで、あいつの道を狭めるんちゃうかって、どっかで思ってたんや。あいつはええやつやし、漫才以外でもやっていけるやろう。……漫才しとらんかったら、人と話す言葉も思いつけへん俺と違てな」


 友成は愕然として、手が震えるのを感じた。天才的な才覚を持ち、多くの人の記憶に留まる魅力があっても、それらは青崎の中になんの痕跡も留めていない。自分の持ちうるもの全てを人に差し出してきた青崎が、欠落だけを抱えて生きているのは、あまりにも寂しい事実だった。


「マネージャーではなく……友人として、一つ言わせてください」


「……うん」


「あなたの選択は、間違っていません。伊丹さんのことを思って漫才を辞めたことも、今再結成して多くの人の夢を背負っていることも、どちらも最善を尽くした結果だったと思います」


 下手な笑顔を作ろうとして、途中でやめて、心細い微笑を見せた。


「……友成が言うんやったら、そうかもな」


 友成は、祈りを込めて口を開く。今目の前にある、小さな光のために。


「僕は、西中の一番のファンのつもりです。これまでも、これからも。あなた方が向かうところがどこであっても、お供しますよ」


 薄い涙の膜が、青崎の澄んだ眼を曇らせた。指で眦を拭う姿を見せたのは、友成の気のせいかもしれない。気のせいだろうと思い込んで、視線をテーブルの上に戻した。


「師匠たち、嫉妬せえへんかな」


「師匠たちには四十年物のファンがついてますから、大丈夫でしょう。あの絆に、僕は入り込めないですよ」


「それもそうか」


 空になったグラスの底をストローでつつき、それから、今まで見せたことのない、気の抜けた顔で笑った。


「これからどうしようか」


「そうですね……どこか行きたいところ、ありますか」


「海が見たいな」


「海?」


「兵庫には、須磨(すま)海岸てのがある。電車乗って兵庫から大阪行くと、必ずその前を通るんや。劇場でなんしか失敗したり、うまくいかん時は、伊丹と一緒に途中下車して、ボール放ったり、ぼーっと海見たりしとった。あの広い海が見たいな」


 スマートフォンを開いて検索をかけるより先に、今までの記憶を辿る。自分が見てきたもの、人に与えてもらったものの中から一番いい思い出を、青崎にあげたいと思った。


「葛西臨海公園はどうでしょう。陸地に囲まれた小さな浅瀬ですけど、近くにペンギンがいる水族館もあります」


「水族館。一人やったら絶対行かへんわ。そこにしょ」


「砂浜でアサリが捕れると聞きましたが、東京湾の水質には、期待しないほうがいいです」


 泡の立つ鈍い灰色の隅田川の色を思い出して付け加えた。


「……先言うといてくれておおきに」


 プラスチックの伝票挟みを掴んで店を出ようとする青崎の手から、素早く伝票を取り戻し、そこで無言のひと悶着があった。伝票の奪い合いをした後、小さくじゃんけんをして、どちらが払うか決めた。その最後まで、二人は一言も口を利かなかった。


「お前、意外と強情やな」


 使う用のなくなった財布を仕舞いながら、悔しそうに呟いた。


「青崎さんこそ、少し人に甘えることを覚えた方がいいです」


「お前に言われたないわ。なんでも一人でしてまうくせに」


「これからは違いますよ」


 青崎のテンポに合わせて口から出た言葉に、友成は内心で少しだけ驚きながら受け止めた。

 その小さな変化も、ふたりの空気を心地よいものにした。


 *


 その翌日、大阪某所にいる伊丹は、何気なくスマートフォンで動画を見ていて、見慣れないサムネイルをクリックした。しばらく流し見していたその動画を途中で止めると、今度はPCの画面に切り替えて、見慣れた友の顔をじっと見つめた。数回コールして着信履歴を残すと、青崎はすぐにかけ直してきた。後ろが騒がしいので、どこかの劇場にいるようだった。


「なんやねん。お前のせいで忙しいねんぞ、こっちは」


「別に大したことやないねんけど。元気してるかと思ってな」


「声聞けばわかるやろ」


「愛想ないなぁ。東京湾どないやった」


 顔を見ていなくても、鼻で笑う気配がした。


「遠目から見る分には良かったな」


「な、海の写真すげー綺麗やったわ。鬼束さんさすがやな」


 海と一緒に映っていた青崎の表情が、随分柔らかく自然になっていたことを、伊丹は指摘しなかった。代わりに「今度俺も連れて行ってくれよ」と笑いながら付け加えた。


「お前と友成だけええ感じで撮ってもらって、ずるすぎるわ」


「ほなはよ戻ってこいや」


「復活祭の前日まで帰ってくんなって言うたのお前やろ」


「もうええから帰ってこい。話すること山ほどある」


 やれやれと溜め息を吐く。「電話じゃあかんのかい」と言いながら、青崎が「話すことがある」というのが嬉しかった。


「ほんなら、ちょっと早いけど帰るしかないなぁ」


「友成がちゃんと宣伝してるから、誰もお前のこと忘れてないで。腕なまっとったらすぐバレるからな」


「素直に帰ってきてくれて嬉しいって言えや」


「言うかそんなこと」


 そこで電話口が一瞬無音になった。伊丹が液晶を離して見ていると、遠くで「伊丹さんですか」と静かな声がした。


「調子はどうですか。ちゃんとご飯食べてますか」


「おかげさまで元気にしとるで。いろいろありがとうな、友成」


「いいえ。劇場の出番時間など段取りして、お戻りお待ちしていますね。帰りの新幹線の時間が分かったら教えてください」


 電話越しの友成の声にも、微かな高調の兆しが読み取れた。

 電話を切ってから、伊丹は見慣れた団地の窓から、大阪の空を眺めた。

 透明に澄んだ青の混じった夕焼けが、今日は優しく遠ざかっていった。

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