喜劇 Chapter.1
中央・総武線の錦糸町駅前は今日も寂しい愁嘆場を演じている。
南出口のそば、ぎっしりと人が詰まった喫煙所と、頼りない街路樹を囲う銀色のベンチ、飲み屋街の入り口が交差する駅前広場には、いつも寂しげな人々が取り残されていた。シンガーソングライターやマジシャン、古本商が持ち場を広げる中、神の伝言者や縦笛を吹き鳴らすペルー人が、その雑踏の中に溶け込む。客引きの鋭い視線を受けながら、警察官はそのすべてを冷静に見つめている。人々は自分を極力目立たせる必要があると主張するかのように、手に音が出るものを持って駅前に集う。この街では、何処で何かを鳴らしても、誰も咎めない。それは優しさなのか、あるいはただの無関心なのか。駅を行き交う余所者には分からない。会社に出勤するかのように、毎日駅に来て、音を鳴らし、消えていく。バス停の傍には明治の歌人・伊藤左千夫の歌碑があって、この土地がかつて牛飼いのものであったことを伝えているが、ベンチに座って缶チューハイを飲んでいる人の何割がその道標を見ただろう。公衆トイレから必ず見えるところに、ずっと立っているのだが。
路面でいち早く店を開けるチェーン店のパン屋、路上禁煙が施行される前からそこにあって今でも煙草が吸える喫茶室、ピアきんしちょうという名がついた歓楽街の入り口と広場を挟んで二つもセブン・イレブンがある。優に客の五倍は店員がいるヨドバシカメラは白っぽい蛍光灯の光を放ち、明るい威圧感を放ちながら呼び込みを行っている。店はどんな欲望にも応えようとするが、駅前の空々しさはかえって増幅した。金銭と引き換えに快楽を売る店を通りの奥に押し隠す駅ビル通りでさえ、本当に欲しいものは決して吐き出してくれなかった。
今日はミセス・グリーンアップルを歌う男がいないことを喧騒の中で察しながら、伊丹悠介は広場に向かう階段を下っていった。春の雨がそぼ降っている。これくらいなら、仕事用のコートで十分しのげる。傘をさすか迷った後ポケットに滑り入れたスマートフォンを取り出すと、手の平でジジ……と震えた。
——顔上げてみ。
仕事疲れで朦朧としていた眼を奪われたまま、液晶に表示されているLINEの通知を、無意識でスライドさせる。
——喫煙所前。
メッセージがぽつりと2つ、立て続けに同じ人物から届いたことを示している。青崎雲雀。送り主の名前を見て、伊丹は見慣れた喫煙所前に素早く視線を走らせた。暗色の傘がちらちらと開いていく隙間に、薄暮に紛れながらも、すぐに見つかった。薄く霧雨に濡れた黒髪、黒い外套に身を包み、同じく黒いズボンを履いている。慣れない東京で見るせいか、昔より一層痩せてか細く見え、百八十センチある青崎の実在を疑いたくなった。青崎は肩に提げているナイロンのバッグにスマートフォンを仕舞い、なにかつかみ損ねたように震わせていた神経質な指先を、腹の下あたりで打ち合わせて、伊丹だけに聞こえる口ぶりを示した。
——はいどうも~
それは符丁だった。かつて舞台の上で客前に駆け出したとき、青崎の唇が形作った、合図のような一言。その響きが、伊丹の胸に鋭い痛みとなって蘇る。二人で経験した大音響の舞台、頼りない木板の上に乗る感触、客が笑う前に一瞬だけできる真空の断裂。そういったものが一気に蘇ってきて、伊丹は胃が重くなるような緊張を覚えた。
「青崎……」
その緊張が口から出る前に、伊丹は地面を蹴った。不在の五年がわずか三秒で乗り越えられた瞬間だった。
「青崎!」
青崎は低い声で「おう」と言って、片手をあげた。
「どうしたんや、なんでここに?」
「……久しぶりやなぁ」
妙な間を取ってから、一言発する。そのせいか青崎の言葉には、人を惹きつける魔力のようなものがあった。それが今も失われていないことが、伊丹には不思議と嬉しかった。
「久しぶりやなぁちゃうねん。来るなら言えって! 知らんかった、いつからこっちにおんねん」
「錦糸町楽天地」というサウナ施設の看板がパルコの屋上に見える。それを眩しそうに眺めてから、青崎は悠然と視線を投げた。
「お前の汚い関西弁、変わらんのう」
「いやそんなことないねん。お前に会ったから戻ってもたんや。俺はもうバリバリの東京の男やで」
「ほんまか」
青崎は長い指を広げて、そっと耳の上の髪をかき上げた。伊丹は知っている。これは大体伊丹の言うことを「どうでもいい」と思っている時の仕草だ。小さな頭に沿って動く彫刻めいた手は、五年前と変わらず、綺麗な形をしていると伊丹に思わせた。
「なんや用事あったんか? 呼び止めん方が良かったか」
LINEのメッセージを受け取った側なのに、伊丹は気遣いの言葉を吐いてしまった。
「いや……お前に用事があって来た」
「なんや」
「俺と、コンビ組めへんか」
これ手土産やで、というくらいの気軽さで、青崎は言った。
「な、あ?」
「俺とコンビ組んでくれって言うてんねん」
すうっと吐き出された声は、わずかな熱を帯びていた。
「あぁ?」
「聞こえたやろ。答えてくれ」
伊丹は青崎の眼を見た。表情が薄いが、それがなにか縋るような目で、底をついた心から発された言葉であることが分かった。
「無茶苦茶やお前、お前なぁ」
呆れているのだと示すためにポーズを作り、動きを誇張して見せる。人生の愁嘆場で、誰も見ていない舞台で、伊丹悠介は人生で2度目の喜劇を演じ始めた。
「5年間ろくに連絡もせんと、どこで何やってたんか知らんけども、いきなり芸人復帰なんか、そんな簡単にできやんて」
観客は、静かに腕を組みながら伊丹を見ている。
「できるやろ。俺とお前で三八マイクの前立ったら「西中島南方にしなかじまみなみかた」や」
「できるか。お前みたいな天才と一緒にすんなよ。素人が板の上立つのにどんなけ覚悟いるか」
「素人やったら覚悟はいらん。それは芸見せる人間にだけ必要なもんや。お前、今でもちゃん分かったあるやないか」
青崎は長い腕を片方開いた。大型の猛禽が羽を広げる時のように、風がざぁっと音を立てた。
「なぁ伊丹」
パソコンが入っている背中のリュックの上に、腕が乗せられる。青崎から微かに煙草の匂いがした。喫煙所の前を通っても既に反応しなくなっていた鼻の奥に煙の誘惑が刺さる。「今すぐ煙草を吸いたい」という欲望が沸き上がった。
「俺とお笑いのてっぺん取りに行こや」
伊丹はその声を聴きながら、自分の表情を省みた。今鏡があれば、どんな顔をしているか見てみたいと思った。青崎の顔に浮かぶ柔らかい安堵の表情は、伊丹の拒絶がポーズだと言っていた。
「いきなり東京まで押しかけてきて寝言ぬかすなよボケ」
「起きてんねんから寝言ちゃうやろ。俺は嘘つかへんから虚言でもない」
青崎は淡々と答えた。伊丹が断らないことを知っているかのように。
「ほな、なんやねん。お前、マジでなんやねん」
青崎は伊丹の鞄に寄りかかり、伊丹は久しぶりに感じた人の重さに驚いて足に力を籠め損ねてよろけた。二人が粗末なマイムを演じる間、警視庁が流す客引き防止のアナウンスが、街の色を猥雑に染めていった。
「お前とまたやりたいなぁって思ったんや」
「…………」
答えが分かっていても、自分はもっと迷うだろうと思っていた。それくらいの分別は持っているはずだ、二十六歳にもなってと、誰かの声を借りて頭の中で喚いてみたが、無駄なことだった。青崎の隣で見た景色を、忘れられるはずはなかった。
「あ、そういえばスカイツリーも登りたい。今から登れるかな」
「相変わらず自由やな! っていうか俺は登りたないねんけど」
伊丹の頭の上で、会話を無視して青崎のスマートフォンが光る。
「押上駅ってどこや? 伊丹」
「隣の駅や。半蔵門線」
「どこやねん半蔵門。連れて行ってくれ」
「も~お前ホンマに嫌い!」
「あっそう」
二人は押上駅に向かって歩き始めた。今更、広場を通り過ぎる人たちの目線が気になるように感じて、伊丹は足早に広場を出た。春の雨は薄い霧になって街に溶けていった。