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愛する夫に隣国の森にポイ捨てされたようですので、いまさら戻るつもりはありません~記憶喪失生活を全力で愉しみすぎて、いまはとってもしあわせです~

作者: ぽんた

 唐突に目が覚めた。


 そこは、森の中だった。


 青々と茂った枝葉。その枝葉から、やわらかな陽が射しこんでいる。


 小鳥たちの楽しそうな囀り。


 起き上がってみた。


 途端に後頭部がズキンと痛んだ。


 手で触ってみると、コブができている。


「コブができているわ」


 そう口に出した声は、長時間発声しなかったときにありがちなかすれ声だった。


「これ、どうしたのかしら?」


 どうしてコブをこさえたのかがわからない。


 ありがたいことに、耐えがたい痛みというわけではない。


 周囲を見まわしてみた。


 やはり、ここは森の中のようだ。


 目のかすみやめまいなどはない。


「ここ、どこなのかしら?」


 もう一度、見まわしてみた。


 そもそも、ここがどこだかわからない。


 さらには、視線を下げて自分自身を見てみた。


 コブ以外には外傷はなさそうだ。


 土にまみれ、草や枯葉だらけになっているけれど、ちゃんと衣服は着用している。


 そのとき、とんでもないことに気がついた。


「わたしってだれ? わたし、どこのだれ?」


 いま森の中で目が覚めたわたしは、自分自身さえわからないことに。


 どうやらわたしは、記憶をなくしているようだ。




 しばらくボーっとしていた。


 なにも考えられない。


「グー」


 頭はまったく機能しないのに、お腹は活発に動いている。


 つまり、お腹が声高に空腹を訴え始めたのだ。


 ここでどれだけ気を失っていたかはわからない。が、これだけ空腹だということは長い間意識を失っていたのだろう。


 森の中ならなにかあるかもしれない。


 たとえば木の実とか果実とか、なにか食べられるものがあるはず。


 というわけで、探してみることにした。


「よっこいしょ」


 ゆっくり立ち上がってみた。


 立ち眩み回避のためである。


 長時間横になっているときに、急に起き上ったり立ち上がったりしたら立ち眩みしてしまうことはあるあるだ。


「というか、そんなことはわかっているのね」


 われながら、そういうどうでもいいことは覚えていることが不可思議だ。


 ありがたいことに、立ち眩みはしなかった。


 そろそろと歩いてみる。


 これもまた、ありがたいことにちゃんと歩ける。


 ゆっくり歩いてみた。


 コブのあるあたりがほんのわずか痛むだけで、あとはまったく問題はなさそう。


 もう一度、周囲を見まわしてみた。


 茂みに囲まれていて、道らしきものが見当たらない。


「さて、どちらに行こうかしら?」


 森の中らしいということだけで、あとはさっぱりわからない。東西南北はもちろんのこと、どう進めば目当てのものが見つかるのか、皆目見当がつかない。


 とはいえ、ここで迷っていても仕方がない。


 まずは、食べられそうなものを見つける。すこしでもお腹になにかをいれる。それから、森から出て人を見つけなければならない。


 頭上を見た。


 枝葉の間から太陽が見える。


 あの太陽が沈むまでになんとかしなければならない。


 この森がどんな森なのかわからない以上、なにがいるかわかったものではない。


 夜の森は危険だ、ということもわかっている。


 そのことも驚いた。


「ザザザッ!」


 そのとき、茂みで大きな音がした。


 驚愕の叫びをあげるまでに、なにかが飛び出してきた。


 それは、白馬と黒馬。そして、白馬に跨る騎手だった。



「レディ?」


 馬上、騎手は驚きの表情でわたしを見おろしている。


 まぁ、だれでも驚くだろう。


 それにしても、騎手は驚くほどの美貌だ。枝葉から射し込む陽光の中、彼の瞳が魅せられるほどのルビー色であることがはっきりと見てとれる。


「きみは、いったい……」

「あなたは、いったい……」


 ふたりの言葉がかぶった。


「これは失礼。きみからどうぞ」

「これは失礼いたしました。あなたからどうぞ」


 またまたかぶった。


「いやいや。レディファーストだから、きみから」

「いえいえ。男性をたてるべきですので、あなたから」


 さらにかぶった。


「……」

「……」


 なんと、沈黙までかぶった。


「ハハハハハ」

「フフフフフ」


 なんとなんと、笑いまでかぶった。


「まいったな」

「まいりましたね」


 どこまでかぶるのか続けたかったけれど、かぶり合い合戦はそこで終わった。


「グルルルルル」


 お腹が盛大に鳴ったのだ。もちろん、わたしのお腹が、である。


「これは、失礼いたしました」


 恥ずかしさのあまり、顔が火照っているのがわかる。


 謝罪が終わるまでに、彼が白馬から飛び降りていた。


 その瞬間、彼が連れている黒馬の鼻面がわたしにぶつかった。というか、黒馬が鼻面をおしつけてきた。


「まぁ、かわいい」


 その鼻面を撫でてやると、黒馬の両耳が激しく動き始めた。


「やだ、そんなにうれしいの? というか、もしかして、あなたはわたしの知り合い?」


 馬は、耳で会話する。


 それがなぜわかっている。


 そして、黒馬の耳は、わたしを知っていることをわたしに語っている。


 つまり、黒馬は記憶を失う前のわたしを知っているのだ。


「この黒馬は、あなたの馬だったのか」


 黒馬とわたしの様子を黙ってみていた青年が言った。


「アルフレッド・マグワイア―。狩りをして暮らしている」


 差し出された右手は、驚くほど分厚い。


 そして、その彼の右手を握ったとき、手にマメやタコがあることに気がついた。


 彼越しに白馬を見ると、なるほど鞍に弓や矢や縄など、狩りに必要っぽいものがくくりつけられている。


(っていか、わたしってばこういうことも知っているのね)


 そういう知識もあるらしい。


「狩人なのですね」

「あー、まぁ、そんなものかな?」


 白馬から彼に視線を戻した。


 彼は、わたしより頭ひとつは高い。


「それで、きみは?」


 彼は、こちらが不快にならない程度でわたしの頭の先から爪先までチェックしたようだ。


「その……」


 なんて答えればいいのか逡巡した。


 が、いまの状態では迷う必要などなにもない。


 なぜなら、なんにもわからないからだ。わからなさすぎて、正直に答えるしかないだろう。


「それが……。わからないんです」

「は?」


 正直に答えると、アルフレッドのルビー色の瞳が点になった。


「ですから、わからないのです。だから、あなたの質問には答えられないというわけです」


 そう答えた後の小鳥たちのお喋りが、耳に痛いほどだった。


 


「おいおいおい、アルフ。冗談だろう?」

「冗談? マイルズ、なにが冗談だというんだ?」

「だってそうだろう? きみは、子どもの頃からなんでもかんでも拾ってきた。それはいまでもかわらず、迷子だったり傷ついた野生動物や家畜をはじめ、子どもや老人まで拾ってくる。そして、ついに若いレディだ」

「仕方がないだろう? 彼女、森にいたんだ。もう間もなく暗くなる。放っておけないよ」

「……」

「なんだよ、マイルズ?」

「きみはほんとうに子どもの頃からかわらないな」


 大男は、わたしに向き直ると上から下までジロジロと見た。


 そのあからさまな視線に、居心地の悪い思いをせずにはいられない。


「マイルズ。レディにたいして非礼はやめろ」

「あのなぁ、アルフ。彼女が問題がないといいきれるのか?」

「問題? なんの問題だ? ただのレディじゃないか」

「きみは、自分の立場というものをわかっちゃいない。もっと自覚を持つべきだ。そもそも、ここに来ているのだって……」

「わかっている。わかっているから。とにかく、こちらのレディは腹をすかせている。そして、おれは手ぶらで帰ってきた」

「まったく、きみってやつは……。出て行くときには『ひとりで大丈夫。でかいのを仕留めてくる』といっていたじゃないか? でっ、獲物のかわりにこれか?」


 マイルズという大男は、わたしを指さした。


「おい、やめろ」


 ラルフが低い声で制止すると、マイルズはハッとしたようだ。


「レディ、すみません」


 マイルズが素直に頭をさげてきたので、鷹揚に笑顔をみせた。


「たっだいまー」

「でっかいの、仕留めてきましたよ」

「楽勝楽勝」


 そのとき、三人の男たちが入って来た。


 その内のふたりは、野生のブタを抱えている。大柄な男性二人でフウフウと抱えているその獲物の肉は、焼いたら最高に美味しい。


(って、どうしてそんなことを知っているのかしら?)


 自分自身のことはさっぱりわからないのに、不可思議な話である。


「バカ者どもめっ! 裏口にまわれ。せっかく磨き上げたというのに、血みどろ毛だらけになるじゃないか。っていうか、裏で解体してくれ」


 奥から飛んで来てキーキー叫び始めたのは、メガネ男子。


 いかにも筋肉体力バカっぽい人たちの中で、唯一知的男子のようにうかがえる。


「あー、すみません。ってそのレディ、だれですか?」


 仕留めたブタを抱えていない人がわたしを指さした。


「ええ。わからないんです。わたしがだれなのか」


 またしてもそう答え、微笑むしかなかった。



 アルフレッドの住まいは、二階建てのログハウスでそれはもう立派である。


 森の中に佇むその一軒家は、多少の人数が住んでもまったく問題がないほどおおきい。


 つまり、狩人らしからぬ立派な住まいということになる。


 そこには、アルフレッドだけが住んでいるわけではない。わたしのことを拾い物あつかいしたマイルズ・モフェット。彼はアルフレッドの幼馴染で、体格も性格もずいぶんと豪胆だ。はやいはなしが、おおざっぱすぎる。それから、メガネ男子のランドル・ベアード。メガネだからというわけではないけれど、驚くほど知的なジェントルマンである。ただし、辛辣で容赦ない口撃は、アルフレッドやマイルズを辟易とさせることがある。あとは、ロドニーとブラッドとチャールズのバートン三兄弟。わたしがここに来たとき、野性の大ブタを仕留めて帰ってきた三人だ。三兄弟は茶髪に茶色い瞳と髪と瞳の色は同じだけれど、それ以外の顔立ちと体型と性格はバラバラである。


 アルフレッド曰く、この時期は六人で狩りをして生活をしているらしい。


 全員の手が分厚いのは、狩人だからなのかもしれない。


 アルフレッドの住まいには、母屋だけではなく厩舎もある。しかも、立派である。


 六人の愛馬だけでなく、わたしのことを知っているらしい黒馬が加わっても、まだ馬房があまっている。


 その黒馬だけれど、アルフレッドが見つけたときには鞍もなにも置いていなかったという。


『ブラックローズ』


 わたしの頭の中に、なぜかその名が浮かんだ。牝馬だから、そういうのが相応しいと思ったのだろう。


 その名を口からだしたとき、黒馬は喜んで馬面をスリスリしてきた。


 もしかしたら、その名があっていたのかもしれない。だとすれば、名前も含めて自分自身のことだけがわからないということだ。


 最初こそ、アルフレッドをのぞく全員が反対をした。アルフレッドが拾ってきたわたしを、ここに置いておくということにだ。


 近くの町には大陸を横断する馬車の駅がある。そこには、宿屋や飲み屋や食堂があるらしい。そこならば、住み込みで働けるところがあるだろう。そこへ行くべきだ、と口を揃えて言った。


 しかし、アルフレッドだけは反対した。記憶を失ったレディをほっぽりだすのは、人間として、男としてどうだろうか? というわけだ。


 数日、すったもんだしていた。


 わたしとしては、正直どちらでもよかった。


 アルフレッドに迷惑をかけたくなかったからだ。


 それでもその間は、家事をやらせてもらった。


 驚くべきことに、料理洗濯掃除、どれをとっても完璧にこなすことができた。とくに料理は、食材さえあればどんな料理だって作ることが出来た。それだけでなく、アルフレッドたちと森の奥に出かけ、木の実やベリーやキノコを採ったり、獲物を狩ったり、池で魚を釣ったりしてそれを調理した。


 気がつけば、わたしの処遇はうやむやになっていた。それどころか、すっかり馴染んでしまっていた。


 アルフレッドたちの中で、まるで以前から住み込みで働いているメイドのようになっていた。




 記憶を失ったわたしがアルフレッドのところに転がりこんでから、半年が経過していた。


 とにかく、毎日が楽しすぎる。


 自然の中ですごせることだけではない。家事や狩りや遠乗りなど、ありとあらゆることが最高なのだ。


 その間、アルフレッドはときどきいなくなった。狩人以外にも仕事をしていて、そちらの仕事で数日間、ときには数週間留守をする。その際には、マイルズやランドルもいなくなる。


 すっかりここでの生活に馴染み、それどころかわがもの顔でのさばっていて、三兄弟を顎でこき使うようになっていた。


 このままここですごしたい。


 楽しるぎるあまり、そんなど厚かましい願望まで抱いてしまっている。



 アルフレッドとマイルズが三日前から出かけているある日のこと、この日は全員分のシーツを洗濯した。朝食後に始め、全員分のシーツを洗い終えると昼前になっていた。


「ほんとうに助かっているよ」


 メガネ男子のランドルは、洗い終わったシーツを運ぶのを手伝ってくれながら言った。


 彼のこの言葉は、すでに何十回と聞いている。


 わたしがここに転がり込むまで、暗黙の了解的に彼が調理を担当していたらしい。


「ほんとほんと。ミユのお蔭で大助かりだ」


 それから、三兄弟の長兄であるロドニーが言った。


「人間らしい生活が出来てるって感じだよ」


 さらには、三兄弟の次兄のブラッドが言った。


「これまで不潔だったし、食事だってろくなものはなかった」


 さらにさらに、三兄弟の末弟チャールズが言った。


 これまで、掃除と洗濯は三人がやっていたらしい。


 三人とも、テキトーでかなりおおざっぱすぎたとか。それこそ、掃除も洗濯もやらない方がマシというレベルだったらしい。


「体力だけのバカ三兄弟。わたしの調理に文句があるのか? おまえらの掃除や洗濯よりかははるかにマシだろう?」


 ランドルが文句を言った。メガネの下の眉間には、いくつものシワがよっている。


「バカ三兄弟? バカは、弟たちですよ」

「バカ三兄弟? バカは、兄と弟ですよ」

「バカ三兄弟? バカは、兄たちですよ」


 三兄弟がいっさいに不貞腐れた。


 彼らは、いつもこんなふうにやり取りをしているのだ。


 それを見ながらシーツを取り込もうとした。木の枝にロープを渡し、干しているのだ。おチビさんのわたしでは、シーツを干すのも取り込むのも難しい。ロープに届かないからだ。家事全般をやってはいるけれど、みんなも手伝ってくれる。いまも三兄弟の末弟のチャールズが、身の軽さを利用して木の枝にのぼって手伝ってくれている。もちろん、干すのもチャールズがやってくれた。


「ミユ」


 アルフレッドとマイルズがやって来た。


『ミユ』という名は、アルフレッドがつけてくれた。


 どういう意味なのか、あるいはどういうきっかけなのかはわからない。


 本人曰く、インスピレーションらしい。


「アルフレッド、マイルズ。おかえりなさい」


 彼とマイルズが帰ってきたのだ。


「ただいま、ミユ」

「ただいま」


 ふたりは、笑顔で近づいてきた。


 最初はわたしにたいしていい顔をしなかったマイルズも、いまはすっかり打ち解けてくれている。


 というか、わたしが打ち解けたのかもしれない。あるいは、マイルズを無理矢理打ち解けさせたのか。


「用事はすんだの?」

「ああ。滞りなく、ね。ところで、町の人たちの噂では隣国の情勢がかなり悪いらしい」


 アルフレッドは、森の向こうの山脈へと視線を向けた。


 その山脈が、隣国であるランス国との国境になるらしい。


「ランス国だったわよね?」


 なぜかその国名は知っていた。


 アルフレッドにここがカルダー王国で隣国がランス国だと聞いたとき、その二国の名は知っていたのだ。


「そうだ。ランス国は、ここ半年ほど前から疫病や飢饉や災害が連続して起こっているんだ」


 アルフレッドがそう言ったタイミングで、チャールズがシーツを干し終えた。


「チャールズ、ありがとう」


 まずはチャールズに礼を言い、アルフレッドに向き直る。


「クッキーが焼けたばかりなの。アルフレッド、あなたの好きなチョコチップ入りよ。お茶にしない? ゆっくり話を聞きたいから」

「やったね。ミユ。きみのクッキーは最高だ」


 どちらからともなく歩き始めた。


 もちろん、みんなもついて来る。


「あらやだ。クッキーだけ?」

「いやいや」


 肩を並べるアルフレッドは、ブンブンと音がするほど首を左右に振った。


「料理だって最高だよ。もちろん、クッキー以外のスイーツもね。お蔭で、太ってしまったよ。なぁ、みんな?」


 彼がうしろを振り返ると、全員が苦笑している。


「マジでヤバいかも」

「ああ、たしかに。ミユの料理が美味すぎて、自制が出来ないんだ」

「おれもおれも。もっと運動しなきゃ、だよね?」

「運動? それだけで足りるものか」

「食べなきゃいいんだろうけど、ぜったいにムリ。だろう?」


 マイルズ、ランドル、チャールズ、ブラッド、ロドニーが困り顔で言った。


「ミユ。きみは、魔女かもな。おれたちを食にまみれさせる為に、魔界から遣わされたのかもしれない」


 アルフレッドが推測するその真面目な表情を目の当たりにし、おもわず笑ってしまった。


「まさか。このわたしが? 魔女にしろ聖女にしろ、そんな特殊な能力は備わっていないわ。おそらく、どこかでメイドか料理人でもしていたんじゃないかしら?」


 いろいろな料理を知っているから、メイドか料理人だったのだろう。


 自分では、そんな気がしてならない。



 居間のそれぞれの位置でお茶とクッキーを愉しんだ後、アルフレッドが説明してくれた。


 居間には長椅子や椅子だけでなく、ラグの上にはおおきなクッションもある。


 それぞれお気に入りの場所があり、いつも暗黙の了解的にそこに座るのだ。


「疫病や飢饉や災害の影響で、ランス国の民は飢えや病で苦しんでいる。気の毒なことだ。これまでは、どちらかといえばこのカルダー王国が日照りや大雨の影響で苦しい状況だった。が、今年は、というか最近は、この国はそういったものの影響がなく、豊作のようだ」


 カルダー王国の最大の産物は、小麦や大麦であることも知っていた。


 それから、鉱物資源が豊富なことも。


「大雨がすくないから、鉱山での作業も滞りなく進めることが出来ているようだ」


 鉱山での作業は、危険を伴う。大雨が続くと、その作業は出来なくなってしまう。


「これまでとは真逆のことが、わが王国だけでなくランス国で起こっている。しかも、ランス国の王家はその危機的状況をまったくわかっていないらしい。民にさらなる重税を課し、搾り取るだけ搾り取った。それだけでは飽き足らず、どうやらわが王国の資源を狙っているようだ」

「外交で? それとも軍で?」


 そのどちらかしか思いつかないので、そう尋ねてみた。


「もちろん、野蛮な方法さ」

「それはそうよね」


 単純明快なアルフレッドの答えに、さもありなんと頷いた。


 隣国のランス国は、このカルダー王国をはじめとした近隣諸国にたいし、つねにおおきな顔をしている。軍事力にものをいわせているわけだ。外交でも脅したり威圧的であったりするので、めちゃくちゃ嫌われているのだ。


 わたしは、なぜかそのことも知っている。


「じゃあ、ここも危ないかもしれないのね?」


 ランス国との国境は、すぐ側にある山。しかも、このログハウスの近くには大陸横断の街道がはしっている。それを使えば、カルダー王国の王都まで一直線。この国は、ちいさすぎるわけではないがおおきすぎるわけでもない。


 あらゆる意味で時間のないランス国軍は、最短ルートをとるだろう。


 わたしには、なぜかそのこともわかっている。


「そうなんだ。そのため、われわれも加わらなきゃならない。ここが危険なことはいうまでもなく、きみを守ることができなくなりそうだ」


 アルフレッドのいつにないわけのわからない言葉の数々は、違和感だらけだった。


「ちょっと待って。われわれも加わる? わたしを守る? どういうことなの? っていうか、あなたたちは何者なの? さらに言うと、なにを隠しているの?」


 アルフレッドに問い、というか詰問し、ここにいる全員を見まわした。


 アルフレッドだけでなく、全員が視線をそらせてしまった。


 これまで、男所帯の中にわたしひとりとはいえ、じつに居心地がよかった。


 わたし自身の性格や行動が男性っぽいからかもしれない。みんなだって、最初こそどこの馬の骨かもわからないわたしを意識、というよりか警戒していたみたいだけれど、すぐに打ち解けてくれた。


 とはいえ、アルフレッドを含めて全員の行動が怪しげなことは多々あった。


 アルフレッドが言った通り、狩人として狩りをして生計を立てているとは思えないのだ。


 さらには、わたしについてほとんど触れないということがおかしい。


 たしかに、最初はこの近辺の村や町の人たちに尋ねてまわってくれたようだ。もっとも、それもアルフレッドがそう言っただけで、ほんとうのところはわからない。が、それもしばらく経つとうやむやになってしまった。


 わたし自身、ここでの生活をエンジョイしまくっているので、このままでもいいかなと考えてしまっている。過去のことなど知らないままで、いまの「ミユ」として人生をすごしたいとまで思っている。だから、わたし自身あえて触れなかったということもある。


 下手に触れてここから放り出される事態にでも陥れば、それこそ目も当てられない。


 それが怖かったのだ。

 

 なにより、こんなわたしを拾ってくれたアルフレッドに複雑な感情を抱いてしまっている。


 彼が、途方に暮れてお腹をすかせたわたしを拾い、助けてくれたヒーロー的存在だからではない。


 やさしくて気遣い抜群で、なにより他人の痛みを知っている。そんな彼のことが気になりすぎている。


 そんな自分の感情に気がついたのは、つい最近のこと。気がついた途端、その感情はどうにもおさえられないほど膨れ上がっている。


 もっとも、アルフレッドはそんなわたしの感情の欠片も気がついていないだろうし、わたしのことなどただの迷いイヌか迷いネコくらいにしか思っていないだろうけれど。


 ここを離れたくない最大の理由は、アルフレッドとさよならしたくないということなのだろう。


 しかし、情勢がかわったいま、わたしのワガママでこれ以上彼に迷惑をかけるわけにはいかない。


 いま、アルフレッドはわたしの質問にどう答えようか生真面目な表情で考えている。


 そのウットリするほどきれいなルビー色の瞳には、ちんちくりんなわたしが映っている。


 美貌の彼の真剣な表情とわたしの冴えない表情を見比べつつ、決意した。


「ごめんなさい」


 まずは謝罪した。


「アルフレッド、いまの質問はナシにして。あなたたちが何者で、わたしが何者であろうと、いまとなってはどうでもいいことだから。アルフレッド、それからみんな。いままでほんとうにありがとう。早急に出て行くようにするわ」


 決意したことは、すぐに表明しなければならない。決意などというものは、容易に挫けてしまうからだ。とはいえ、決意表明する人ほど挫折するともいうけれど。


 そんなことも、わたしは知っている。


 アルフレッドだけではなく、この場にいる全員が息をのんだのが感じられた。


「ミユ、なにを言っているんだ? そうじゃない」


 アルフレッドが手を伸ばしてきた。が、その手を拒んだ。


「明日にでもここを出るわね」


 そう言いながら、カップを回収した。


「ミユ、違うんだって。聞いてくれよ……」

「だから、わかってるから」


 まだ手を伸ばしてくるアルフレッドに微笑んだ。聞き分けのいいレディを演じたかったからだ。とはいえ、いまさら? という感は否めないが。


 それはともかく、微笑みは失敗した。アルフレッドのルビー色の瞳には、ひきつった不気味な笑みにしか映らなかっただろう。


「今日の夜と明日の朝は、みんなの好きな料理を一品ずつ作るわね」

「ミユッ!」

「ミユッ!」


 アルフレッドだけでなく、みんなが呼んでいる。


 それを背中で聞きながら、居間の扉を閉めた。


 涙がにじみ、粒が頬を伝う。


 ここに来てはじめて泣いた。


 カップを洗い、食事の下準備をする間中、涙はとどまることを知らなかった。


 夕食やそのあとのお茶の時間は、これまでとはうってかわって静かだった。


 みんなもわたしも、それぞれに物思いにふけっている。三兄弟でさえただ黙々と食べ、食後にはお茶をすすっていた。


 夜のお茶のあと、寝台に横になったのはいいもののなかなか寝付けない。


 みんなの前ではああ言ったものの、不安だらけである。


 これまで、ここである程度の家事はやって来た。だから、メイドや宿屋や食堂で働けるかもしれない。が、得体のしれないわたしを雇ってくれるところはあるだろうか? できれば、住み込みで働けるとありがたい。それから、ヤバそうなところも勘弁してもらいたい。


 さっそく、明日から路頭に迷うことになる。不安じゃないという方がおかしい。


「やはりここは、意地を張らずにアルフレッドにどこか紹介してもらうべき、よね?」


 立派な木材がふんだんに使われている天井を見つつ、声に出していた。


 アルフレッドは、しょっちゅう町や村、それから遠くの街に行っている。彼の紹介なら、まず間違いないはず。まさかわたしを売り飛ばしたり、奴隷のように働かせるようなところは紹介されないだろう。


 そう考えると、仕事についてはすこしだけ不安が軽くなった。


 しかし、それ以上に違うことが心と頭にわだかまっている。


 むしろそっちの方が、眠れない原因かもしれない。


 そのとき、扉がノックされた。


 その音が、静寂満ちる部屋にやけにおおきく響いた。


 びっくりして飛び起きていた。


「ミユ。こんな遅くにごめん。部屋の灯りが扉の隙間からもれているから、もしかして起きているのかな、と思ってね。すこしだけ話ができないだろうか?」


 アルフレッドだ。


 彼の言葉で、まだ灯りをつけたままだということに気がついた。


 そんなことにも気がつかないほど、あらゆることが不安だったのだ。


 灯りのことだけではない。


 扉に向いながら、自分の恰好がアルフレッドから借りたシャツとズボン姿だと気がついた。


 夜着に着替えることさえしなかったのだ。


「まだ起きているわ」


 気を取り直し、扉を開けた。彼もまた、先程と同じシャツにズボン姿だ。


 扉から一歩退くと、彼は部屋に入って来て扉を閉めた。


(そうだ。彼に仕事先を紹介してもらうようお願いしよう)


 彼の突然の訪問は、わたしにとってもいいチャンスに違いない。


「アルフレッド、どうぞ」


 部屋内にひとつだけある椅子を示すと、アルフレッドは素直に腰かけた。


 わたしは、寝台の上に腰をおろす。


「ミユ、聞きたいことがあるんだ」

「アルフレッド、お願いがあるの」


 口を開いたのは、同時だった。


「失礼。きみからどうぞ」

「ごめんなさい。あなたからどうぞ」


 また同時だった。


「急がないから、きみが先にどうぞ」

「急がないから、あなたから先にどうぞ」


 またまた同時だった。


「いや。きみから先にどうぞ」

「いいえ。あなたから先にどうぞ」


 またまたまた同時だった。


「これって、あのときと一緒だ」

「これって、あのときと一緒よね」


 さらに同時が続く。


 それから、ふたりで笑ってしまった。


 森の奥深くで初めてであったときとまったく同じことを、いままさに繰り返していたのだ。


 そのことが、ほんとうに可笑しかった。


「ミユ。いまもまだ思い出せないかい?」


 ひとしきり笑った後、アルフレッドが尋ねてきた。


 その美貌に笑顔はなく、表情は真剣である。ウットリするほどきれいなルビー色の瞳には、ちんちくりんで間抜け面のわたしが映っている。


「思い出せない? ああ、記憶喪失のことね?」


 溜息をついていた。


「ミユ。じつは、きみとおれは……」


 彼がまた口を開いた瞬間である。


 カーテンを閉め忘れたままのガラス窓が弾けた。


 反射的に悲鳴をあげそうになったわたしに、アルフレッドがおおいかぶさってきた。


 彼越しに見えたのは、ガラスが無残に砕け散った窓から侵入してきた黒ずくめの連中だった。



「ミユ、大丈夫か?」


 アルフレッドの両手がわたしの両肩をつかんでいて、激しく揺さぶっている。


 そのお蔭で、われに返ることができた。


「ええ、ええ。大丈夫、だと思う」


 なにがなにやらわからないけれど、そう答えるしかなかったのでそう答えた。


 黒ずくめの襲撃者たちが、わたしたちに迫りつつある。アルフレッド越しにやけにゆっくり近づいて来ている。


「動けそうか?」

「ええ、ええ。大丈夫、だと思う」


 バカみたいに同じ文言を繰り返す。


「おれが行けと言ったら、すぐにこの部屋から出て階下に降りるんだ」


 彼の言葉に頷きながら、窓の下だけではなく階下からも凄い物音がしていることに気がついた。つまり、襲撃者たちはアルフレッド越しに見える三名だけでなく、もっとたくさんいるのだ。


(わたしね。こいつらは、わたしを狙っているのよ)


 そう感じた。まったく根拠がないのにそう確信した。


「ちょっと待って。あなたは? あなたは逃げないの?」

「おれは、大丈夫」


 そう断言したアルフレッドのすがすがしいまでの笑みに、心臓が飛び跳ねた。


 その瞬間、アルフレッドの手が肩から離れた。アッと思う間もなく、彼は立ち上がって振り返るなり襲撃者たちに体当たりした。


「行けっ!」


 彼の怒鳴り声が、ログハウス内外の喧騒をも掻き消した。


 迷う必要などない。アルフレッドのことが心配でならないけれど、いまはそのアルフレッドの言うことに従うべきだ。


 立ち上がると一目散に扉へと向かった。そして、扉の取っ手を掴んだ。が、なぜかうまく開かない。当然、鍵などかかっていない。そもそも鍵などないのだから。なんの変哲もない扉の取っ手で、フツーにまわせばフツーに開く。これまでもフツーにまわしてフツーに開けたり閉じたりしていた。


 それなのに、なぜか開かない。


「ミユッ、危ないっ!」

「キャアッ!」


 今度は、全力で叫んでしまった。


 またしてもアルフレッドがおおいかぶさってきた。


 先程と違うのは、彼が襲撃者のひとりに剣で背中を刺されたことだ。


 飛び散った血を呆然と見ている間に、アルフレッドがわたしに全体重をかけてきた。


「アルフレッド」


 その衝撃的な場面に、頭の中と心の中が真っ白になった。


 と、そこへたくさんの場面があふれてきた。それはもういろんな場面が。急激かつ急速にあふれでた場面の数々に耐えきれず、おもわず頭を抱えてしまった。


「ミユ」


 アルフレッドの弱弱しい声で、閉じてしまっていた瞼を開けた。


「ケガ、ケガはないかい?」


 彼は自分のことを棚に上げ、わたしのことを気遣ってくれている。


 そのような中、襲撃者たちの刃が容赦なく迫ってくる。


「やめなさい。すぐに退くのよ」


 アルフレッドにおおいかぶさり、襲撃者たちを睨みつけた。


 そして、キッパリはっきりスッキリお願いした。


 襲撃者たちの動きがピタリと止まった。


 同時に、あれだけまわらなかった扉のノブがまわったのか、いとも簡単に扉が開いた。


 そして、マイルズたちがなだれ込んできた。




 わたしをかばったアルフレッドは、致命傷を負った。


 しかし、癒しの術で快復した。


「わたしにこんな力があるなんて知らなかった」


 わざと驚いてみせた。


 というか、わざとらしすぎてみんなにはバレバレだっただろうけれど。


 襲撃者たちは、マイルズたちとわたしの能力によって一網打尽になった。


 彼らは、ランス国国王の直属の暗殺部隊だったのだ。その彼らの任務は、わたしを殺すことではなかった。アルフレッドを暗殺し、わたしをさらうことだった。


 わたしは、ランス国国王の形ばかりの妃だった。そして、アルフレッドはカルダー王国の王太子でありカルダー王国軍の将軍のひとりだったのだ。マイルズたちは、その側近としてずっと付き従っている猛者であり頭脳でもある。


 わたしは、もともと守護と戦いの女神の末裔。生まれてからすぐ、将来国王を継ぐべく王子の妃になった。が、成長しても夫はわたしに関心がなかった。むしろ、他の貴族令嬢にしか関心がなかった。くわえて、わたしは末裔としての能力がないと思われていた。


 当然である。わたしは、聖女や聖職者ではない。あるいは、魔術師や呪術師でもない。これみよがしなパフォーマンスでもって国を守り、反映させるわけではない。もしくは、戦勝をもたらせたり疫病や災害をなくすわけではないのだから。


 わたしの能力は、ただそこにいるだけでいいのだ。はやい話が、わたしの存在そのものがその国を守護し、繁栄させるのだ。


 愚かきわまりない夫であり国王は、そこがわかっていなかった。いつもわたしに愛と忠誠を強制し、すべての雑事や厄介事をおしつけ、自分はハーレムを築く勢いで遊びまくっていた。


 それでもわたしは、彼に尽くし、国に貢献した。


 すくなくとも、わたしはそうし続けたつもりだ。


 そしてついに、夫はわたしを排除した。


 わたしが、夫であり国王である彼の散財や不行跡を非難したのが発端だった。


 こればかりは、わたしの能力だけではどうにもならない。というか、こんなことは能力とは関係ないのだ。


 無能で愚かな国王や家臣相手では、わたしの能力でもってしても太刀打ちできない。というか、頑張るつもりもない。


 逆切れした夫は、強硬手段にでた。


 わたしのことをテキトーな冤罪でもって国外追放し、カルダー王国に入った途端に追手に殺させようとしたのだ。


 追い詰められたとき、ブラックローズから落馬した。腹帯を切られ、鞍ごと落ちてしまったのだ。


 その衝撃で、頭部をしたたかに打った。


 薄れゆく意識の中、迫る追手とわたしの間に白馬が踊りこんできた。


 それはまさしく、子どもの頃に読んだお話に出てくる「白馬の王子様」だった。



「だまっていてすまない。あのとき、きみが記憶がないと言ったから、なにも知らぬままここでのんびりすごしてもらった方がいいだろうと考えたんだ」


 アルフレッドが言った。


 彼は、わたしの癒しの力のお蔭ですっかりよくなっている。


 そのアルフレッドだけではない。襲撃者たちのお蔭でめちゃくちゃになったログハウス内は、みんなで片付けた。


「ランス国の国王は、きみは死んだと聞かされていたんだろう。そして、なにかのときにきみの生存の情報を得た。そこでやっと、きみの存在意義に気がついたのだ。再三再四に渡り、わが国の国王宛に使者を遣わした。というか、恫喝しまくった。『その女は、わが国の所有物。すぐに返せ。さもなくば、強硬手段を講じる』とね。当然、受けるわけはない。国王、いや、父はそれらの使者すべてに『ノー』と返事を持たせて帰した。もちろん、丁重にね。とはいえ、いまのランス国に武力に訴える力はない。暗殺部隊か工作員を送り込んで来るだろと予測した。だからきみを、国境に近いここではなく、王都に招こうとしたんだ」


 アルフレッドの説明は、いちいちもっともなことである。


 居間には、いつものように全員が揃っている。


「アルフレッド。どうしてわたしを助けてくれたの? 王太子だったら、他国のいざこざに巻き込まれるのは忌避しなきゃってやつよね?」


 尋ねたけれど、彼に答えを求めているわけではない。


 記憶を取り戻したいま、アルフレッドのことも知っている、いや、知っていたことに気がついているからだ。


 しかし、いましばらくは記憶を失っているふりを続けたい。だから、だれもが当然疑問に抱くであろうことを尋ねたにすぎない。


 アルフレッドとは、子どもの頃に出会っていた。


 ランス国の前国王の世だった頃、その当時、ランス国はこのカルダー王国より強大だった。アルフレッドは、人質としてしばらくランス国ですごしたのだ。そのとき、アルフレッドは寂しがり屋の泣き虫の少年だった。


 彼とわたしは、励まし合い、慰め合ったのだ。


 わたしもまた、寂しがり屋の泣き虫だったから。


 彼は、その縁でわたしを助けてくれたのだろう。


「向こうが暗殺部隊を送り込んできた。これでもうわが軍がランス国に攻め入る充分な動機になる」


 アルフレッドとのことを思い出していると、マイルズが言っていた。


「わが国はともかく、攻め入ればランス国の民が被害を被ってしまう。それでなくても食うや食わずの状態だ。さらには、災害や疫病で打撃を受けているのだ。できるだけ穏便にすませたい」


 アルフレッドは、即座にたしなめた。


 彼は、夫、いや、元夫と違い、あらゆる面でいい王太子なのに違いない。


「ミユ。ああ、ミユというのは本名だよ」


 アルフレッドは、美貌に悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「ミユ。きみは、どうしたい? 故国に戻りたければ、きみを送り届け、ランス国国王にはきみの身の安全を誓わせよう」

「記憶がないから、故国といわれてもピンとこないわ。たとえ記憶を取り戻したとしても、妻をポイ捨てどころか殺そうとした男のもとに帰る気にはなれない。だけど、このままここにいても、アルフレッドやみんなや国王をはじめ、カルダー王国の人たちに迷惑をかけてしまうことはわかっている。だから、そうね」


 窓の外を見た。


 今日も快晴で、シーツを干せばパリッと乾くに違いない。


「故国とやらに行ってみるわ。それから、夫とやらに言ってやるの。『記憶喪失だけど、よそでしあわせに暮らしているから戻るつもりはありません』ってね。そのあとのことは、そのときにまた考えるわ」


 痛いほどの沈黙。


 自分でもむちゃくちゃなことを言ったと自覚している。


「アルフレッド、いや、殿下。こんなときこそ、言うべき言葉があるのでは?」

「マイルズ殿の申される通りですよ。せっかくのチャンスを逃すおつもりか?」


 マイルズとランドルが、ほとんど同時に言った。


「ほんとほんと。意中のレディにカッコいいところをみせないと」

「憧れのレディに男ってところを誇示しないと」

「愛するレディのハートを射止めないと」

「わわわっ! な、なにを言いだすんだ?」


 三兄弟が言った途端、アルフレッドが慌てて叫んだ。


 その美貌は、真っ赤っかになっている。


「だけどまぁ、そうだな」


 アルフレッドは、わたしの前に立つと片膝を折って目線を合わせた。


「ミユ。その、おれはきみのことが好きだったんだ。もっとはやくにどうにかしていたら、きみも苦しまずにすんだのだが。それどころか、命まで救ってくれた。ほんとうにすまない。それから、ありがとう。これからは、きみのことを守りたい。きみのことを大切にしたい。まずは、ランス国国王を戦争ではなく、個人的にぶっ飛ばす。それでどうかな?」


 手をとられ、その甲に口づけされた。


 元夫との形ばかりの結婚生活は、最悪最低だった。というよりか、生活すらままならなかった。


 しかし、アルフレッドならば、彼ならばしあわせにしてくれる。


 わたしの能力などではなく、わたし自身を愛してくれる。


 これはなにも、わたしが彼を愛しているから贔屓目にみえているわけではない。


 これが、わたしたちの運命なのだ。


 そう断言できる。確信している。


「アルフレッド、そうしてもらえるとうれしいわ。そのときには、わたしにもあの愚かなろくでなしをぶっ飛ばさせてね」


 そう答えると、アルフレッドはわたしを力いっぱい抱きしめた。


 彼の体は、筋肉質でなによりあたたかい。


「もちろんだとも。ところで、ミユ。ほんとうにまだ記憶を失ったままなのかい?」

「まぁ、アルフレッド。イヤだわ。そういうことにしておいた方が、いろいろスリリングじゃないかしら?」


 そう答えた瞬間、つぎは彼の唇がわたしのそれに重ねられた。


 それもまたあたたかく、なによりやさしい。


 みんながはやし立てる声を、最愛のアルフレッドの胸の中でウットリ聞いていた。



                                 (了)


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