第1話 ヒップホップ貴族社会①
柔らかな朝陽がバリントン公爵家の華やかな石造りの邸宅を照らし出す。窓辺から差し込む光が大理石の廊下に反射し、きらびやかな模様を描いていた。そんな優雅な光景の中、クリステラ・バリントンは重厚な扉の前に立ち、静かに深呼吸をする。
「行くわよ」
小さく呟くと同時に、クリステラの銀糸のような長い髪がふわりと揺れ、まるで彼女が今から主役として舞台に上がることを予感させるようだった。すでに着飾られた服装は、豪奢なドレスとヒップホップスタイルを巧みに融合させた特注品。貴族の風格を表す刺繍が所々に施されている一方、動きやすさを重視したパンツスタイルが覗き、足元には踊りやすさを重んじた靴が光沢を帯びている。
この世界に根付いたヒップホップ文化は、貴族の地位や権力だけでなく、ダンスやラップのスキルによっても人の価値が計られる、不思議な伝統を持っている。その中心に立つのがバリントン公爵家。中でも令嬢であるクリステラは幼い頃から卓越した感性を示し、ラップにしろダンスにしろ天賦の才を見せつけてきた。誰もが認める「絶対的エース」として、彼女の名は社交界で知らぬ者はいないほどである。
廊下に待機していた侍女や使用人たちが、クリステラが通りがかるたびに恭しく頭を下げる。公爵令嬢への敬意ももちろんあるが、それ以上に「ステージの女王」に向けられる畏怖の念がそこには感じられた。
「クリステラ様、みな首を長くしてお待ちかねでございます」
そう声をかけたのは、彼女の忠実な付き人でありバックダンサーでもあるリアンナだ。淡い色の髪をきゅっとひとつに結んだ姿は控えめな印象だが、その踊りのキレとサポート力は抜群で、クリステラが絶対的な舞台を成り立たせるには欠かせない存在だと言える。
「ええ、わかっているわ。今日のパフォーマンスは完璧に仕上げてあるから、余計な心配は無用よ」
クリステラはそう言って微笑む。しかし、その言葉にはどこか高慢な響きが混ざり合う。事実、彼女は自分の才能に絶対の自信を持っている。努力で培った部分も大きいが、生まれながらにして優れたリズム感や感性を備えており、それを最大限に生かす環境も整っていた。
そして、彼女が向かう先――それは今日開かれる貴族たちの定例社交パーティ。その名も「モーニング・ラップ・セッション」。格式高い貴族同士が午前中から宮廷や大邸宅に集まり、軽食を取りながらラップバトルやダンスバトルを楽しむという、実にこの国らしい文化行事だ。
扉を開ければ、広間にはすでにリズムの重低音が鳴り響いていた。豪奢なシャンデリアが光を放つ優雅な場でありながら、床の一角にはDJが陣取り、ターンテーブルを操っている。その周囲では貴族やその招待客が思い思いのスタイルで体を揺らしていた。
「お待ちしておりました、クリステラ様!」
紳士淑女がにこやかに挨拶するものの、そのまなざしは早くも次のバトルの展開を期待している。みなが待ち望むのは、クリステラがマイクを握り、抜群の韻とフロウで観衆を沸かせる瞬間。
「ごきげんよう。さあ、みなさん盛り上がっていきましょう」
クリステラは軽く手を振りながら、広間中央のステージへと歩みを進める。そこにはすでに数名の貴族が先にパフォーマンスを披露していたが、どこか物足りない空気が漂っていた。バリントン公爵家の令嬢が登場したと知れば、期待が一気に膨れ上がるのも無理はない。
甘いメロディを軸にしたトラックから、一気にビートの強いヒップホップへと切り替わった。DJがクリステラのために用意した特別なトラックだろう。すると、リアンナをはじめとしたクリステラのバックダンサーたちが一斉にラインを揃え、ステージの周囲を取り囲む。
「さあ、楽しませていただくわ」
クリステラがマイクを手に取り、ゆっくりと息を整える。会場は一瞬で静まり返り、誰もが彼女の一声を待つ。すると、ビートに合わせてラップが流れ出す。
「チェック ワン・ツー ここで 描くビジョン
磨くドレス 揺れるリズム 踊るセッション
華やぐ舞台に 光るパッション
バリントン公爵家の名は 伊達じゃないってアクション
見せてあげるわ これが本物のエレガンス
煌めくフロア 掴むパフォーマンス
“高貴”と“ストリート” 融合のカレイドスコープ
私が流すのは 一流のホープ
ラップに宿すのは 誇りと気高さ
響く声は 疑いようのない強さ
今日のフローで貴方たちを 完全ノックアウト
息を呑んで見なさい 私こそトップラウンド」
韻を踏むごとに言葉が強調され、絶妙なリズムで鮮やかなイメージを描き出していく。高貴さとストリートの荒々しさが同居する彼女のフロウは、まさに唯一無二。その背後でリアンナたちがキレのあるダンスを繰り出し、観客を圧倒していた。クリステラは上半身をわずかに揺らしながら、手にしたマイクを巧みに使い、まるでビートと対話するかのように口を動かす。
「まだ終わらないわ このまま走るヴァイブス
シャンデリアのきらめきにも劣らないスタイル
感じるでしょ? 胸を震わすベースライン
貴方の心奪うわ これが私の正体
一瞬で世界を バリントン色に染め上げる
完璧なムーブで 誰もが憧れる
マイクと共に舞う 華麗なるレディ
このステージでは 私が唯一の主役…ベイベー!」
言葉が“ベイベー”で終わった瞬間、ミュート処理されたように曲が一旦途切れ、踊り手も全員が一瞬静止する。
すると次の拍で再び重厚なビートが流れ出す。クリステラはラップを締めくくるように決めポーズをとり、リアンナたちもタイミングぴったりに腕を突き上げた。その刹那、盛大な拍手と歓声が会場を包み込む。
「最高でした、クリステラ様!」
「ブラボー!」
観衆の間から興奮混じりの声が飛び交い、彼女は涼しげに会釈をする。胸の奥に宿る自信がますます高まり、口元に笑みが浮かぶ。
そこに人混みをかき分けるように、ひとりの青年が歩み寄った。金糸の髪を優雅に整え、紺色の衣装をスタイリッシュに着こなし、品のある仕草で周囲へ手を振っている。
「やあ、今日も見事だったね、クリステラ」
まっすぐとした瞳を向けてくるのは王太子ラファエロ。王家の直系として若くして「国のグルーヴを統べる者」と謳われ、そのダンススキルは王宮内外で多大な人気を誇る。クリステラは幼少の頃から彼と顔を合わせる機会が多く、その流れで婚約という形になった間柄でもある。
「ラファエロ殿下、ご機嫌うるわしゅう。聞いていただいて光栄ですわ」
クリステラは彼を気遣うように微笑みながらも、どこか誇らしげだ。ラファエロもまた、彼女の実力を心から認めているからこそ、こうして素直に称賛の言葉をかけてくれる。周囲の貴族たちも、まるで王と王妃のように二人を崇めるように見ていた。
「さっきも皆で話していたんだけれど、次の大舞踏会は僕が主催でダンスバトルを開こうと思っているんだ。君の力をまた貸してほしい」
「もちろん。殿下にご協力するのは私の喜びですわ」
クリステラがはにかむように笑みを見せると、ラファエロもまたうれしそうに頷く。ごく自然に周囲の視線を集める二人のオーラは、華やかさそのもの。社交界でも「王道カップル」として崇められるのも納得の光景だった。