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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死忘症

作者: 猫月 彩生

「裕司」

 ベッドから声がして、こたつでゲームをしていた裕司は顔を上げた。

「ちょっと話があるから、おいで」

 掛け布団と敷布団の間から細い腕が手招きしている。

「何? おばあちゃん」

 裕司はゲームに目を戻した。敵からの攻撃をAボタンで避ける。

「私は、もうすぐ、死に、ます」

 裕司は耳を疑った。今までそんな話を祖母がしたことは一度もない。気がそれたからか、敵に打った攻撃が外れた。

「やめてよ。大丈夫。まだ死なないよ」

「おいで」

 ゲームは佳境に差し掛かっていた。この敵を倒せば素材が手に入る。だが、祖母の様子が気になって集中できない。

 ベッドから咳き込む声が聞こえてきた。

 ゲームの中のキャラクターに攻撃があたり、ゲームオーバーと表示された。裕司は立ち上がってゲームをこたつの上に置き、ベッドに近づいた。

「なに?」

 祖母は布団に埋もれている顔を裕司に向けた。ぐるぐると苦しそうな音がする。

「シボウショウ、っていうのがあってね」

 初めて聞く言葉で、裕司は頭の中で漢字に変換できなかった。

「それは、太りやすいってこと?」

「脂肪じゃない。死に忘れるで、死忘症」

 なんだか気味が悪い字面だ。

「死んだ人のことを忘れてしまうんだ」

 祖母は裕司から目線を外し、天井を眺めた。目尻から涙が流れ落ちる。裕司はそばにあったサイドテーブルからティッシュを取ると祖母の頬を拭いた。

「おばあちゃんも、誰かのことを忘れているの?」

「忘れているかも、忘れた」

「じゃあ、お父さんのことも」

 言いながら裕司は心臓がドクンドクンと高鳴るのを感じた。

 祖母は、ゆっくりと頷いた。

「裕司と、同じ。覚えてないよ」

 中学生の時、両親は交通事故に遭って亡くなったらしい。らしいというのは、裕司はショックで両親の記憶を失ったからだ。

 気がつけば唯一の家族になってしまった祖母の家にいた。それから中2の今まで一緒に住んでいる。

「裕司が、孫というのはわかる。でも、私の息子か娘のことは思い出せないんだ。これが、死忘症で、私たち森井戸家の人間はみぃんなそういう症状がある」

「なんで今まで教えてくれなかったの」

 両親のことを覚えていないのは、事故現場を目撃しショックが大きかったからだと医者から聞いていた。でも、それが遺伝によるものだとしたら話は変わってくる。

 祖母はどこか遠くを見つめていた。どう答えようか考えているのか、裕司の言葉が聞こえていなかったのか。

 祖母の返事を聞く前に裕司は恐ろしいことに気がついた。

「じゃあ、おばあちゃんが死んだら忘れてしまうの?」

 何かを言いかけていた祖母に被せて質問してしまった。

「あ、ごめん。何?」

「そうね。忘れてしまうね」

 祖母は違うことを言おうとしていたはずなのにそう言った。「そんなの嫌だ」と裕司は駄々をこねた。

「記憶を思い出すことはないの?」

「私はなかったなあ」

「なんで遺伝するの?」

「呪いよ」

「なんの?」

「質問ばっかりだねえ」

 祖母のシワだらけのほほが緩んだ。

「だって、気になるよ」

「そうだねえ。気になるねえ。なんでだろうねえ」

 祖母は宙を眺めた。

「死んだ人は戻らない。だから、悲しむ時間はもったいないと私は思っていた。死忘症であることは、自分の人生をよくするためにいいんじゃないかって考えたこともあるね」

 ふうーっと祖母が息を吐いた。こんなに話す祖母を見るのは久しぶりだ。

「でもねえ、やっぱりだめだわ。覚えていてほしい、って思っちゃうの」

「忘れない」

 裕司は言い切って、祖母の手を握った。冬でもないのに祖母の手は冷えていて、裕司の心臓が縮んだ。祖母の手の冷たさが、この世のものではないような気がしたのだ。死が祖母に近づいていると感じた。だが、その不安を顔に出さないようにもう一度伝えた。

「忘れないよ」

 両親が死んでから、祖母しか家族がいなかった。2年前に脳梗塞で倒れ、寝たきりになってしまったけれど、それまでは毎朝お弁当だって作って、部活の応援に県外にまで駆けつけてくれた。子供は唐揚げが好きだろうと毎日大量の唐揚げが入っていて、午後の試合の前とかはちょっとしんどくなったりもしたけれど、それでも嬉しかった。沢山思い出がある。大切な家族のことを忘れるわけがない。

「ありがとう。優しい孫がいて、私、しあわせ」

 祖母の手に力が入る。皺だらけの手は柔らかく愛情に満ちていた。

「裕司、遺伝する条件だけど」

 裕司を見つめていた祖母の目が逸れた。何かを言おうか悩んでいるようだった。裕司はベッドの傍に座りながら祖母の言葉を待った。寝ているのかと思うほどの逡巡のあと、祖母は「忘れた」と呆けた。

「ええっ。教えてよ」

「忘れた。忘れた」

 祖母はふぅと息を吐き「疲れた」と呟くと、裕司を見つめた。

「ごめんね」

 目尻の皺を涙が伝う。ティッシュを取ろうと、裕司は祖母から視線を外した。

 ふと恐ろしい考えが頭をよぎる。

 人を殺したらどうなるんだろう?

 手の中の指の力が抜けた気がした。

 一瞬前の記憶が消えて、突然、ここに現れたかのような気がする。

 ティッシュを取り、首を傾げる。

 何をしようとしたんだっけ?

 裕司は思い出せなかった。ティッシュを手に取ったということは、何かを拭こうとしたのだろう。なにかをこぼしたのかもしれないと部屋を見回す。壁一面に本が並んでいた。自分の部屋ではないが、自分の家なのは分かった。どうしてここにいるんだろう、誰かに呼ばれたような気がする誰にかは思い出せなかった。頭の中に白いモヤがかかっていて、考えることができない。後ろをむこうとして、その時やっと手首掴まれていることに気がついた。

 シワだらけの細い腕だった。あちこちにシミが浮かび、青黒く変色しているように見える。骨まで冷えるように冷たかった。

 家には俺しかいないはずなのに。

 気味が悪くて、掴まれていない方の手で外そうとした。力は入っていないようなのに、しっかり握られていて外れない。

 ふと、視線を感じた。ベッドに誰かが寝ていてこっちを見ている。

 かち、こちと時計の秒針の音が聞こえた。この腕の持ち主を見ないといけない気がした。生きているとは思えない。腕を握る手は、どんどん冷たくなっているようで、このままだと自分の生気まで吸い取られる気がした。

 ゆっくりと、腕をなぞるように顔をあげていく。

 大丈夫。裕司は心の中で呟いた。どう見てもこれは人の手のようだが。そう見えているだけで人の手ではないんだと無理のある言い訳までした。裕司は息をするのも忘れていた。視線はずっと刺さっていた。二つの目玉がじっと裕司を見つめている。きらりと何かが光った気がした。それは涙だった。誰にも拭かれず、皺に溜まっていた涙が布団を濡らしたのだった。開いた瞳孔が寂しげに裕司を見つめている。

「大丈夫ですか?」

 裕司は名前も知らない老人に呼びかけた。




 ――――――――――――――――――


 裕司に言えなかったことがある。

 死忘症が遺伝する条件。

 私は忘れてなんかいなかった。

 人を殺めると死忘症は遺伝する。

 殺めたことは忘れない。

 孫には遺伝させないようにと思ったのだけど、遅かった。

 あの子が両親を忘れたということは、あの子の親も……。

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