塗り潰す
※題名を『消滅のち塗り潰し』から『塗り潰す』に変更致しました。ご了承願います。
※この物語は全てフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
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一代で富と名声を得た男が人生の黄昏に差し掛かる頃、私を屋敷に呼び付けて「回顧録の口述筆記をお願いしたい」と言ってきた。
寝耳に水と言うか、彼は私の祖父が経営する小さな喫茶店に長年に渡って行きつけの常連客というだけで、祖父の孫である私自身は殆ど接点はない。幾ら私が物書きであっても売れない作家であるので何かの間違いではないかと感じた。
車で屋敷に向かうとそこは彼が若い頃の成金趣味で築き上げた豪勢なものであった。厳めしい重厚な門に、池のある広大な庭園、そして古びた洋館。しかし、現在は専ら書斎と寝室しか使っていないとの事だった。柱時計が時を刻む音がだけが響く書斎にて使用人が酒を持ち、グラスに琥珀色の液体を注ぐ。使用人が立ち去ると彼は私と対面する。皺だらけの顔の真ん中から低い声で問いかけてきた。
「煙草、のむかい」
断ると彼は独りで外国製のものを取り出し実に美味そうに煙草をふかし始めた。紫煙は書斎を汚しているのだろう、壁はすっかり脂で黄色くなっている。
「あんたの爺さんとは長い付き合いでね、あんたの名前も俺がつけようかと言ったぐらいさ。結局は良い名前を貰ったね」
初めて聞く祖父との関係に驚いていると彼は訥々と語り始めた。
「あの戦争のあとに職を転々としたよ。悪い事もした……時代の所為にしたかないが、仕方ないものもあった。ただ、一つ後悔している事がある」
それきり彼が押し黙ってしまったので私も筆を止めて待っている。しばらくの沈黙、柱時計の針の進む音、闇を刻む。ようやく重い口を彼が開いた。
「あんたはもう一人の自分を信じるかい」
――もう一人の自分。脳裏に浮かんだのは怪奇小説で読んだ〝ドッペルゲンガー〟だった。自分と同じ姿、顔をしている。遭えばそれは〝死の前兆〟といわれる不吉な象徴だ。
「どっぺんなんとかってやつさ。闇市で商売していると仲間から『困るじゃねえかショバを荒らしちゃ』と言われた……もう一人の〝俺〟が勝手に商売していると言うのさ」
彼が煙草を深く喫うとひどく苦しそうに激しく咳き込んだ。大丈夫ですか、と問うと私を手で制した。
「もう長くねえのさ、それでもやめられねえ」
彼はちり紙に痰を吐いて捨てる。そして再び新しい煙草に火をつけてふかす。
「それでもう一人の〝俺〟を探す為に張り込んだ。一週間後に大八車に荷物を載せた〝俺〟が現れた。女を連れてな」
柱時計が静かに鳴り響く。古びた音色は忘れ去られた過去を現在に引き摺り戻しているようだった。
「奴は汁かけ飯を売って女が作っていた、二人は手際の良い夫婦だったよ。しばらく奴を見ていると本当に〝俺〟なんだ。俺にガキの頃からある眼元のほくろも、戦争で受けた傷で失くした左手の人さし指も、〝俺〟だ。じゃあ、ここで、蔭で奴の様子を見ている〝俺〟はいったい誰なんだ?」
私はどう言ったら良いのか解らず黙りこくっていた。咽喉から水分がなくなり貼り付くような感覚に襲われ、言葉はそのまま出てこなかった。彼は荒い息で酒を呷る。
「奴が小便に向かった時に俺は後ろをこっそりつけた。誰も居ない橋の下の暗がりに向かった時に俺は『おい』と声をかけた。振り返った奴、いや〝俺〟の顔に向かって隠し持って来た石で殴りつけた」
書斎が静まり返る、私には柱時計の音も聞こえなくなった。私と彼の間に何とも言えない沈黙が支配したのも一瞬だったと思うが。それは、つまりは、殺人の告白であった。
「そのどっぺんなんとかは〝消滅〟したんだ」
消滅した――そんな事があるものだろうか。非現実的な話として彼は隠したのだろうか。
「殴りつけて、手に伝わった痺れる衝撃、肉が抉れる感覚があった。骨が砕ける音も聞いたよ。ただ、奴が崩れ落ちた瞬間、眼の前から消え失せたんだ。訳が解らなかったよ。ただ、呆然としながら闇市の方へ戻るともう一人の〝俺〟の女が不満気な顔で待っていた。『あんた、遅いよ。お客さんがいっぱい待ってるよ』だと。その瞬間、強い光を見たように、知らない筈の眼の前の女房の名前や、二人の馴れ初め、初めて抱いた愛しい夜、そして、女房の胎の中の子供のあたたかさを手のひらで感じた昨日の事まで、頭の中に一気に流れ込んできた。そして、俺は思わず泣いちまったよ。そしたら女房は『お腹痛いのかい、しっかりしなよ。大丈夫だから』だと」
気付けば彼は涙を流していた。大粒の涙が皺の奥の濁った眼から溢れ出していた。そこには富も名声も得た尊大な男の姿はない、過去の罪と〝塗り潰した現在の自分〟に懺悔するただ憐れな老人の姿があるだけだった。そして、私は彼の屋敷をあとにした。
彼はその内に亡くなり、回顧録がまともな敏腕ライターによりまとめ上げられて自費出版された。そこには立派な人物として社会に貢献した一代記が綴られている。
私が聞いたあの夜の彼の独白は使いようもない。ただ、私も、もう一人の〝私〟に出遭わないように気を付けるだけだ。