ルターの愛
マルティン・ルターは、鉱業家の父ハンス・ルターと母マルガレータの次男として、1483年にドイツのザクセン地方アイスレーベン村で生まれた。
二十二歳の時、通学中の草原で強烈な雷雨となり、凄まじい稲光にルターは死を覚悟した。
「神様、助けて下さい。助けてくれたら、私は修道士になります」
すると願いは天に通じ、雷雨は静かに収まってしまった。
村一番の秀才息子に事業拡大を期待していた父は、修道院入りに大反対した。
しかし、これは運命なのだと、ルターは独断で聖アウグスチノ修道会に入ってしまった。
それから一年で司祭となり、教会の説教と大学講師を兼務した。
ラテン語の聖書を読み、教会の仕事をしていると、疑問に思うことがある。
「贖宥状販売とは何であろうか?」
ドイツで流行った贖宥状は、アルブレヒトに始まる。
彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム一世の弟という貴族であったが、すでにマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位を持っていた。
さらにマインツ大司教位も得ようと考え、ローマ教皇庁に多額の献金をする。その集金方法が贖宥状だったのだ。
「買えば罪が消える」との大宣伝だったが、これにはルターも責任を感じた。
「金さえ払えば、正しい人となれるのか?」
教職のルターは深く悩んだ。嘘で金儲けするのは正しくない。
ルターが修道院の図書室にいた時、第二の啓示があった。
「人はしきたりでなく、信仰によって正義を得る」
ルターはよく考えた。
献金や教会儀式が正義ではなく、聖書こそが神の言葉であると。
そうだ、お金がすべてではない。
ルターは早速、ローマ教皇レオ十世に質問状「95ヶ条の論題」を送った。
ローマ教皇は当時、ハプスブルグ家と政争中で、地方で無名のルターになんぞ、構っていられなかった。
そこで教皇は「ドイツ国内で片付けろ」と命じた。
審問に呼び出されたルターは答弁する。
「聖書にないことを、神は認めない」
ルターが、贖宥状だけでなく献金や教会儀式、ローマ教皇の存在まで否定したため、破門されてドイツ追放、異端者の烙印を押された。
ある時は民衆に罵倒され、国からも批難され、ルターは不思議にもキリストと同じ道を歩んだ。
将来は磔になるかもしれない恐怖と、自分は正しいという自信が、心の中でせめぎ合う。
教会から逃げるルターは、故郷ドイツでザクセン選帝侯フリードリヒ三世のヴァルトブルク城にかくまわれた。
そこで多くの論文を発表する。神の真実に迫る良書は、時間と共に国民に認められて行った。
ドイツ語訳の聖書も作った。
四十一歳のルターは、二十六歳のカタリーナと恋に落ち、結婚した。
聖職者の結婚は異例であったが、これはのちに牧師の先例となる。
ルター家族は、夫婦円満に平和な日々を過ごしていた。
しかし、ルターが発信したカトリック否定の教えが大きく広まると、神への冒涜と無秩序が生じて、暴動が起こった。
それは過酷な重税に抗議する農民一揆であった。
責任を感じたルターは隠棲を止めて、愛と平和の説教をして歩き、農民たちの心を鎮めた。
この反省からルターは、弱き民のために宗教組織が必要だと知り、国立教会設立を考えた。
教会儀式を否定したルターが、民の祈りのための教会を必要とする矛盾。
どうしたら良いか悩むルターに、恩人のフリードリヒ三世は珍しく冗談を言った。
「このドイツをやるから、ドイツのローマ教皇になってくれ」
優しいルターは、大真面目になって答えた。
「私は静かに祈り、家庭の平穏を選びたい。愛する妻が私の安らぎであり、彼女さえ居てくれれば、私は厳しい世の中でも生きていける」
「おい、正しいことをするには力がいるのだ。もしルターが悪人だったら、こんな話はしないさ」
笑顔となった優しき賢帝である。本音で生きる人間だった。
「ローマ教皇やドイツ皇帝という地位や権力は、神から与えられた役割の一つに過ぎない。そんな彼ら(聖職者は男性という決まり)と比べても婦女子の仕事が劣っている訳がない。私の妻の声は讃美歌よりも美しいし、その笑顔は太陽のように眩しい。いつも私に元気と幸福をくれるのです」
家族を大切にするルターに、嘘はなかった。
近日、皇帝カール五世のドイツ帝国議会が、カトリックの保全を布告した。
しかし、北欧やイギリスには、隣人愛を説くルター派がぐんぐんと広がりを見せ、国民や諸侯、各都市はドイツの布告に反対した。
この時からルター派はプロテスタント(抗議者)と呼ばれるようになった。
ルターの愛と正義は国境を超えた。
晩年のルターが、フリードリヒ三世から「教皇になれ」と言われた昔話を、妻のカタリーナに話した。
今や三男三女の母だった。彼女は今でも若く、無邪気な笑顔で答えた。
「きっとあなたは、神様のことを聞かれて、俺様の話をしたのでしょう?」
妻もプロテスタントに改宗していたのを思い出した。いい抗議である。
wikiをざっくりと参考にしました。