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言えなかった「行かないで」


あくる日、レーク城は争いを前にした、どこか張り詰めた空気に包まれていた。

産後のシリが過ごす産室も、静かながら異様な緊張に満ちている。


二十日ぶりにパジャマを脱ぎ、久しぶりに着替えた衣の重みが、身体だけでなく心にもずしりとのしかかる。

青ざめた頬に、唇をかみしめた痕が浮かんでいた。



隣には乳母のエマ、そしてユウ、ウイ、その乳母達がいた。


子供達がいるのは、父と最後のお別れをするためだった。


今日でシリはレーク城を去る。

ワスト領は、シリの生家 ミンスタ領と戦うことになった。


シリと子供達の命を考えて、グユウはミンスタ領に戻ることを薦めてくれた。


シリは自分を責めた。


ワスト領とミンスタ領の間を取り持つのがシリに課せられた任務だった。

生家と嫁ぎ先が争う事になってしまった。


もっと巧みに立ち回っていれば、こんな未来は変えられたかもしれない。


故郷ミンスタへの愛着と、ワストへの想い。

両方を胸に抱いたまま、シリの心は激しく揺れていた。


グユウが産室にそっと入ってきた。


彼の背は高く、紺色の軍服に身を包み、肩に掛けた青いマントが重々しく揺れる。

ワスト領の旗印が刺繍されたそれは、彼が背負う責務そのものだった。


こんな状況だったけれど、シリはグユウの姿に見惚れてしまった。

整ったグユウの顔を見るのも今日で最後になる。



グユウは最初にユウを抱いた。


青い瞳、輝く金髪、シリそっくりのユウ。

けれど彼女は、グユウの実の子ではない。


父は、シリの兄――今まさに、グユウと戦おうとしている男だ。


それでも、グユウは全てを承知でユウを可愛がっていた。


そのまなざしは、限りなく優しい。


「ユウ、大きくなったら父を忘れてしまうかもしれないな」

ぽつりとこぼした声に、抱きしめる腕が強くなる。


「けれど・・・オレは、1日たりともユウのことを忘れない」


ユウは真っ直ぐな瞳で父を見つめていた。

この視線は、ユウ独特のものだった。


グユウは、ユウを乳母 ヨシノに手渡した。


その後、産まれて20日しか経ってないウイを抱いた。


グユウとシリにとって初めての子供。


何も知らないウイは幸せそうな顔で寝ていた。

ウイがグユウのことを覚えているはずもない。

グユウは、そっと抱きしめて愛おしげに目をつぶった。


「ウイのことをよろしく頼む」

乳母のモナカに手渡した。


「シリと2人にしてもらえないか」

グユウが静かに話した。


静かに告げた声に従い、皆が部屋を出ていった。

やがて、産室には二人だけの時間が訪れた。


「シリ・・・」

グユウは、シリの顔を両手で挟んだ。


「ユウとウイのことを頼む」

シリはグユウの瞳を見つめ、黙って頷く。


「今となっては・・・ウイが女の子で良かった。シリのそばにいられる」

グユウは辛そうに目を揺らした。


かすかに震える声に、シリは胸を締めつけられた。


かつて、シンを置いて行かせた過去が、グユウの言葉の背後に滲む。


シリは、グユウの瞳を見つめた。


結婚した当初、この黒い瞳に自分を映してさえもらえなかった。


ーー寡黙なグユウと会話をしたい。


意思の疎通をしたい。


半分、意地になってグユウの瞳を見続けた事を思い出した。


吸い込まれて、落ちてしまいそうな黒い瞳、今はシリだけを見てくれている。


ーー行かないで。


シリは、グユウにそう言いたくて仕方なかった。


争いに行かないでほしい。


兄上と争わないでほしい。


シリの目は涙で溢れてくる。


グユウさんの隣で過ごしたい。


でも、それは言ってはいけない。


グユウだって、争いたくない事をシリは知っていた。

領主としての責務を全うしなくてはいけない。


ーーこの人はいつだって、自分よりも誰かを思っている。


だからこそ――


「・・・グユウさん。口づけをしてください」


シリの願い事はグユウにとって予想外だったようだ。

驚いた顔をした後、優しい目をした。


グユウの顔が近づいてくる。

どちらからともなく目を閉じて、唇が重なる。


あっという間に、グユウは唇を離した。


「もっと・・・」

シリが願いを口にした。


「もっと、してください」

戸惑いがちなグユウにシリはお願いする。


この口づけが終えたら、グユウと離れ離れになってしまう。


せめて、今だけは・・・。


グユウはシリの願いを叶えてくれた。

口づけが、長くなり深くなり息が足らなくなってくる。


シリは呼吸すら忘れた。


苦しくて、それでも離れたくなくて、シリはグユウの首に自ら腕をまわした。


ーー離れたくない。


ドアを優しく叩く音がした。


ジムの気配。


もう時間だった。


唇を離して、グユウが声をかけた。


「・・・もう少し、待ってくれ」

グユウは低くそう呟くと、産室に差し込む春の光のなかで、もう一度シリを見下ろした。


淡い春の日差しでシリの髪は輝き、その青い目には人の心を魅する光が溢れていた。


「シリ・・・どこにいても、シリの幸せを願っている」


涙でゆらめく瞳をつくづく見つめ、静かに優しくグユウはささやいた。


そして、シリを優しく手放した。


行かなくてはいけない。


ーー行かないで。


シリは口元まで言葉が出そうになり、飲み込んだ。


思った事を口に出さないのは始めてだった。


グユウがドアにむかって歩いて行く。


シリは追いかける事ができず座り込んだ。


ドアが閉まる音と共に、涙が堰を切ったように溢れた。


「あぁ」

絞り出すような声を出し泣きじゃくった。


ドアを閉めたグユウは、シリの泣き声を背に目を閉じる。


「グユウ様・・・」

家臣のジムがそっと声をかける。


グユウは目を開け、家臣たちが待つホールへむかった。


ホールでは、家臣たちの雄叫びが響き渡っていた。

それは戦の始まりを告げる音――


兵たちの足音が、重々しくレーク城を離れていく。


シリは泣きながら、その音が小さくなっていくのを聞いた。


グユウは行ってしまった。

 

ーー次回


シリはロク湖を見つめ、立ち上がった。

「……エマ、ごめんなさい」

青く澄んだ瞳に、すでに答えは宿っていた。


行けば幸せになれるはず。

けれど――グユウのいない未来を選ぶことだけは、できなかった。


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