最初の言葉は「はは」
「グユウさん、お願いします。兄上についてください」
言葉は静かだったが、その瞳には決して揺らがぬ決意が宿っていた。
ほとんど食べ物を食べれず、命を削るように過ごしているシリが、これほど切実に口にした懇願は初めてだった。
その声に、グユウは何も言えず、ただ深く頷いた
その日を境に、彼の姿勢は変わった。
ワスト領の会議ではっきりと、「ミンスタ領主ゼンシ様につく」と宣言するようになったのだ。
だが、すべてが順調に進んだわけではない。
グユウに従う家臣がいる一方で、
彼の父や多くの重臣は反ゼンシ派であった。
中でもオーエンの反発は激しかった。
急に強い意志を見せ始めた主君に、オーエンは訝しんだ。
「あのミンスタの女に何か吹きこまれたんだろう」
仲間内でそう毒づくとき、オーエンの口調はあからさまに軽蔑を滲ませていた。
会議はたびたび紛糾した。
領政は、領主の一存では動かせない。
それがこの土地の仕組みだった。
ゼンシの元で育ったシリにとっては、それが不思議で仕方がなかった。
ーー領主であれば、己の意のままに決めればよい。
そう思っていたからだ。
ミンスタ領では、ゼンシがあらゆる権限を握っていた。
発せられる一言一言がすべての指針となり、
家臣はもちろん、侍女も、妻子でさえも、その顔色を読み、機嫌を損ねぬよう神経をすり減らしていた。
それが、当たり前の世界だった。
けれど、ワスト領に嫁ぎ、初めて知った。
ゼンシのやり方は異常であり、危ういのだと。
多くの領主たちは、家臣と話し合い、議を尽くして道を定めていく。
それが本来の統治というものなのだと、ようやく理解できたのだった。
――この現実を、兄に知らせねばならない。
シリは、ワスト領での様子、グユウの苦悩と板挟みの状況を、手紙にしたためてゼンシへ送った。
ゼンシが返答を急かせば、反発する家臣はさらに増える。
今は待ってほしい――その思いを込めて、シリはワスト領の内情を手紙にしたためた。
◇
つわりが始まって2か月。
ほとんど何も口にできない状態になってから、3週間が過ぎていた。
シリの顔色は青白く、日に日に痩せていく。
日中も横になっていることが多くなり、朝の散歩にも行けなくなってしまった。
こんなに辛そうなのに、何もしてあげることができない。
グユウは、シリが心配で胸が苦しくなった。
「辛いなら……子供は……」
シリの背中をさすりながら、グユウは思わず呟いてしまった。
だが、その言葉に、シリの瞳が静かに燃えた。
「何を仰っているのですか」
その声は弱々しくも、怒りを湛えていた。
グユウはそれ以上、何も言えなかった。
何度も医師に診てもらった。
「食べられるものだけを食べてください」
医師はそう言うけれど、水さえまともに飲めない場合はどうしたら良いのか。
グユウは途方にくれた。
今朝もシリは食堂の席に座っているけれど、何も口にしない。
「りんごの実がなってきました」
ジムが領民から、渡されたりんごの実をグユウにみせた。
まだ、青いりんごの実がテーブルに転がった。
「今年は、この実が鈴なりです。肥料を与えたのが良かったようです」
次の瞬間、シリはテーブルの上にあるりんごの実をつかんだ。
たまらなく美味しそうに見えたのだ。
誰もが息を呑む中、彼女は青りんごを手に取り、ためらうことなくかじった。
じゅわり、と果汁があふれ、酸味が舌を包む。
シリの瞳には光が宿っていた。
「……美味しい」
泣きそうな顔で、もう一口、また一口と、果実を口に運ぶ。
「シリ! 食べれるのか」
グユウの声は嬉しさで震える。
「はい……美味しい」
シリは泣きそうになった。
言葉にならないほど嬉しかった。
何日ぶりに、何かを『美味しい』と思ったことか。
周囲の者たち――ジムも、エマも、侍女たちも、声には出さぬまでも、その喜びは波紋のように広がっていった。
「ジム、りんごは他にないか?」
グユウが焦って聞く。
「ありません。見本に……2個だけしかもらってないので」
ジムは動揺した。
「すぐに馬を出せ。青りんごをとりにいく」
席を立つや、グユウはもう扉の向こうへ向かっていた。
ジムが慌てて後を追う。
そして一時間後、籠いっぱいの青りんごが食堂へと運び込まれた。
シリは、輝く瞳でその籠を見つめ、次々と口にしていく。
「そんなに美味しいのか?」
その様子を見ていたグユウも、ひとつ手に取り、かじってみた。
「……っ!」
あまりの酸っぱさに、顔が歪む。
吐き出すのは、かろうじて我慢したようだ。
「シリ……これが本当に美味しいのか?」
涙目で質問した。
「はい! 美味しい」
幸せそうな顔をしているシリを見ると、もう何も言えなくなる。
それからというもの、シリの食事には、必ず青りんごが添えられるようになった。
日に日に、青ざめていた頬に色が戻っていく。
不思議なことに、りんごを口にすることで、
少しずつ他のものも受けつけられるようになったのだ。
初めて、スープを2口ほど飲めた日。
温かいパンをちぎって口にした日。
そして、ついに――
「チキンが食べたいわ」
弱々しい声ではあったが、その願いは、久しく耳にしていなかった『食への欲』そのものだった。
料理人たちが急いで用意したのは、詰め物をしたチキンの丸焼き。
香ばしい香りが部屋いっぱいに広がる。
「世の中は美味しいもので溢れているわ……」
一口かじったシリが、涙ぐみながら呟いた。
2ヶ月ぶりに、空腹を感じるという幸せ。
それは、生きていることそのものを肯定されるような、喜びだった。
「ああ」
グユウはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、黙ったまま彼女を見つめる瞳には、喜びと安堵が交錯していた。
そして、医師の許可を得てから、シリが真っ先に向かったのは――子ども部屋だった。
あの日以来、ほとんど足を運べなかった場所。
扉を開けた瞬間、顔を上げたのは、もうすぐ2歳になるシンだった。
「……はは」
小さな声だったが、確かに、そう呼んだ。
その瞬間、シリは胸が詰まり、涙が止まらなかった。
痩せた母の姿を見て、シンは困ったような、それでも嬉しそうな顔をして駆け寄ってきた。
たシンは、言葉が遅かったので乳母達は心配をしていた。
けれど、母の顔を見て、自然と声に出たのだ。
「……ごめんね。いっぱい待たせたわね」
震える手で、シリはシンを抱きしめた。
小さな手が、シリの背をぎこちなく撫でた。
嬉しくて泣きながら、シリはシンを抱きしめた。
グユウは、その様子を少し離れたところから見つめていた。
『ちち』と呼ばれることを、ほんの少しだけ、期待していた。
だが、シンは彼を見ても、言葉を発することはなかった。
そんなグユウの淡い失望を、シリは知らなかった。
一方、乳母に抱かれたユウは、すっかりお座りが上手になっていた。
ころころとした手足を動かしながら、シリの姿を見つけると、嬉しそうに声をあげた。
「あー、あーっ」
口をぱくぱくさせながら、小さな体を前後に揺らしている。
「ユウ……」
しゃがみ込んだシリは、ゆっくりと手を伸ばし、愛おしげにその髪に触れた。
産まれてから半年。
ほんのひととき目を離しただけで、子どもたちはこんなにも成長していた。
日々は、容赦なく過ぎてゆく。
だからこそ、シリは思った。
――もう、見逃したくない。
もう、目を逸らさない。
この子たちのすべてを、抱きとめていくのだと。
そうしてシリは、少しずつ、日常を取り戻していった。
次回ーー
妊娠を喜び合い、静かな幸福に包まれるシリとグユウ。
けれど、シズル領主トナカからの手紙が、二人の心を曇らせる。
「人は自分の意志でしか変われない」
グユウの静かな言葉に、シリは必死に食い下がった。
夫婦の対話は、戦乱の影を前にして、切なく揺れていく。
初めて書いた小説が10万文字を超えました。
絶対に書けないと思っていたのでびっくりしました。
この物語のゴールまで三分の一が過ぎました。
シリの応援お願いします。




