第9話
聞こえる声は酷く穏やかで、口元に浮かべる微笑だって朗らかそのものだった。しかしてその口から発せられる声色は絶対零度そのもの。生存本能に駆り立てられ、つい反射的に足が後ろを向こうとしたが、それは叶わなかった。
「なあに?そんなにビビっちゃって。まるで蛇に睨まれたみたいじゃないの」
蛇に睨まれたって?冗談じゃない、そんな可愛らしいものなんかじゃ決してないくせに。むしろ今の私にとってこの人の存在は死神そのものだ。
思考が逃亡一択に絞られたとき、ふとそういえばここに人間のヘンリーがいることを思い出して自分の右を振り向く。視界には特になんの異常もないまま佇むヘンリーがいて少しホッとした。そしてそれと同時に完全に相手の標的が私一人に絞られていることを再度理解し、首筋に冷たいものが流れる。
だってほら、目の前のヤツは私の右側にいるまっさんとヘンリーなんてまるで眼中にありませんって顔してる。
「あれ、真祖のメデゥーサじゃん」
「それってつまり、アリーのお母さんってことですか?」
「そんなに若く見える?見る目あるねえ、人間のお嬢さん」
「騙されないでヘンリー。こいつ若作りしてるだけで、実年齢なんて軽くよんけ──」
「えッ…?え、ななに」
轟音とともに突如として巻き上がる土埃。徐々に晴れる視界の中で自分の左側を見れば、直線にえぐられた地面が目に入る。それこそ重機か何かでも通ったかのような見事なクレーターであった。そんな高威力のなにかがほんの数ミリ真横を通った事実に腰を抜かしそうになるが、ここで卒倒でもしてしまえばさらなる地獄が来るのが目に見えてわかっている。
というか、知り合ったばかりの友達の前で醜態なんて晒したくないし!
そんなくだらない意地で気力を保っているのが事実。
「な、なんだよう!実年齢の公表なんて今更じゃん!!」
「……はあぁあぁ」
わざとらしいほどの大きなため息。一度伏せられ、再びあげられた瞳はより濃い色彩を纏っている。
「私がたかが年齢隠すために指をはらったと、お前は本気で思っているわけだ?」
その言葉とともに緩みかけていた雰囲気はいともたやすく霧散し、再び場の空気は目の前の人物に掌握される。
自分自身の思考が全てフェリシア・メデゥーサに向くのと同時に、右の方で誰かの息を呑む音が聞こえたような気がした。
「この、私が、わざわざこんなところに出向いて、仲良くお前の友達と談笑すると?本気で?」
「…なんかさあ、完全に怒ってるみたいだけど。どうするアリー」
さすがは魔界を統括しているだけはある。この場においてまっさんだけがいつもどおりだった。
神代に勝てるのは同じくらいのくらいじゃないとだめってことね。
とはいってもババアの言うとおり、彼女がここにいる理由なんて一つ……二つ三つくらいしかない。いやもう完全に私の自業自得すぎて現実逃避すらできやしない。
「お城に行くには当然だけどここを突っ切らないと行けないし。譲位に関してアリーは関係ないからここで別れてもいいんだけど、この感じだともう指名手配されているよね。誤解…今回の場合は弁解?どっちにしろ取り下げてもらうにはお城に向かわないとなんだよなあ」
「あ、あとから合流…」
「本当に合流できますか…?あの、説得するとかは…」
「いいねえ、平和的解決。そういうの大好き。人間の君は一体なんて言って私を説得するんだい?」
「無理です、諦めましょう」
交渉の余地なし。
そもそも自分の家庭事情に人様を巻き込んで、時間を取らせるなんて申しわけが立たない。
「やっぱり先に行って。後から追いつく」
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。安心して私の屍を超えて行って」
「それ全然大丈夫じゃないやつです!」
「ははは。大変愉快なやりとりをありがとう。それで、ずいぶん呑気しているようだけど、お話し合いはもういいかい?待たされるのって嫌いなんだよね、私」
「よし!ここは私に任せろー!」
「おっけー。アリーがそう言うなら私たち先に行ってるね。さくっと終わらせて迎えに来るよ」
「できれば5分で戻ってきてくれると嬉しいな!」
「さすがにむりー」
任される側の台詞でないことは重々承知しているが言わずにはいられない。一緒にお城まで飛んで行きたいのが本音。だって怒り心頭のババアとなんか基本的に二人でいたくないし。
というか5分保つかこれ?
本当に今更な後悔ではあるけど、転移魔法で瞬きの間に消えた二人の顔を思い出して選択間違えたかもー、なんて。
「お前、私相手に5分も保たせられると思っているんだね」
あ、絶対無理。
「家出までは許そう。だけどね、指名手配ってのはちょいとおいたがすぎるんじゃない?」
「べ、弁解をよろしいでしょうか!!」
「どうぞ」
「指名手配に関してはちょっとした行き違いというか、そもそもあの双子が」
「他所様のせいにするんじゃない!!!!」
「はい!もうおっしゃる通りでッ!!!」
問答無用で放たれる高魔力の塊を横に跳んで避ける。ノーモーションで放たれたそれを綺麗に避けられるわけもなく、両手をつくようにして転ぶと、そのまままコロコロ転がっていく。
「多感な時期だ。うん、だから少しの火遊びは別にいいさ。青い春の傷とかなんだとか、私からすりゃ縁遠い話だしね。楽しめているのなら大変よろしい。けどね、他所様に迷惑かけるってのは話が違うだろ?」
「ね、ねえ、ちょっと待って?クレーターができてます。えっ?本気?まじで?威嚇射撃とかじゃなくて、こんなのを本気で自分の孫に放ったの?これ当たったら洒落にならな」
「身内の不始末は身内でつけるもんだ」
ド直球の死刑宣告。つまりは証拠隠滅。お前に朝日は来ねえってコト。
全身の血の気がサッと引くのがわかった。腰が抜けたとか、呆けてる場合じゃなく本気で自分の命がやばい。両の下肢をバネのようにして起き上がり、そのまま全力で悪魔から距離を取る。
「シューティングゲーム?いいね、私と遊ぼうかアリシア」
「し、洒落になるかーー!!シューティング?お前が的ってかー!?」
「よくわかっているじゃない。ほらいくよ!そらそらそらそら!」
相手はまるで自分の服についたゴミを取るみたいに軽く指先を弾く。そんな簡単な動作一つで地面が抉り取られていく。高度な魔術だとか、自分を強化しているとかではなく、ただただ単純に大気中の魔力を雑に集めて放っているだけ。あのやろ、自分の魔力すら全く使用していないわけだ。しかし悲しいかな。力の差なんて結局のところはこんなもん。
「なあに、逃げるだけ?」
「そりゃっ、そう、なる!でしょおっ!!?」
飛んで跳ねて、転んで起き上がって。コロコロ逃げるたびに広がるクレーター跡。避ければ避けるほど地面は地形を変えて、より足場は不安定になっていく。
「お、おおっ、おおおおおうっ!」
乙女のアレそれなどかなぐり捨てて走り続ける。そんなもんより手前の命。こちとら、あの二人が迎えに来るまでの間を無限シャトルランしなくてはならないのだから。
そもそもなんでこんなことになっているんだろう。家出が指名手配に繋がるなんて、きっと聖人でも思いやしないだろう。それでもやっぱり始まりが家出である以上、どう転がっても自業自得なんだよね。部屋に籠城くらいに留めておけばよかったなー!
「あ」
余裕もないくせに考え事なんてしていた罰が当たったか。気がつけば視界いっぱいに広がる地面。とっくに体力の限界を迎えていた体は受け身を取ることすら叶わず、肩から無様に転がる。勢いが収まって顔を上げる頃には既に第二射撃の用意が完備されていた。
「ぁ、わ───。悪かったです!全部自業自得でした!!家の名に泥を塗るどころか、他所様に迷惑かけまくって大変申し訳ありませんでした!!」
命乞いという名の謝罪だった。それはもう全力の。フェリシアに対する意地も大勢もかなぐり捨てての陳謝である。
「今更謝罪するなとか、ご尤もすぎるしド正論すぎて頭下げるしかできないんですけど、ここで言わないと一生意地を張り続けそうだし」
「……」
「お城には出向いてちゃんと誠心誠意謝罪してきますので!」
無言。ただひたすらに無言。何を言うでもなく、何をするでもなく、きっと表情の一つも変えないままにフェリシアは私の方へと近づいて。
そうして、ぽすんと頭を叩かれた。叩くという動作ではない、聞き分けの悪い子供にするかのように小突く程度の返事。
「まあ、妥協点」
「そもそもね、謝りもしないで言い訳ばかりなんて、生物としてどうなの。ちょっとお灸を据えるつもりだったけど、ここまでしないとダメとか、一体その性格は誰に似たんだか」
十中八九私かー。
そうぼやきながらも私を引き上げ、服についた土やらなにやらを取っ払っていく。
「……痛い」
「痛くしてんだから当たり前だろ、文句言うんじゃないよっと。はい、おしまい」
「なんか拍子抜けなんだけど」
こちとらそんなあっさりと、はいわかりましたー。なんて言ってもらえるはずないと思っていたから用意していたはずの続きの言葉が無意味になったり、妙な気恥ずかしさでむしろ気絶したほうがましっていうか、こんな歳になってまでガチ謝罪とか本当恥ずかしすぎて穴があったら入りたい、むしろ掘らせてくれ。
そうしたら私を覚えている人がいなくなるときまで籠もっているので。
「なに不貞腐れてるのさ。ほら、城に行くんだろう?片道切符は既に用意済みだからさっさと要は済ませてくるように」
一体どこまで計算済みでどこまで読んでいたのか。彼女がそう言うとほぼ同時にあたり一面が暗くなる。正確には二人の周りだけが、だが。
「よお、ちびシア生きてるか」
「どっか半分なくなってたりしないか?泣いてないか?」
ぐるぐる旋回しながら双子の龍は気遣わしげに尋ねてきたので、平気の意味を含めて手を振っておいた。どうやらお城への片道切符というのは彼らのことらしい。きっと、というか絶対、フェリシアに説教でもされたのだろう。いつもなら堂々と臆すことなく翼をはためかせている彼らであったが、ことこの瞬間に至ってはその大きな翼を小さくして控えめに飛んでいた。
「ババ…すまん。フェリシアに頼まれてな、だからあのでかい家まで運んでくぜ」
「うん、お願い」
「ちなみにおれはお留守番だぜ。兄者と違ってしばらく長い距離は飛べそうにないからな…」
「そういうわけだから、城攻めするなり撤回しにいくなり早く済ませてきなさい。お前の帰りが遅いとフレデリカが困るんだから」
鎌首をもたげた兄の頸部を道にして胴体へ飛び移る。今朝方に乗ったときと違い、黒黒とした鱗の艶は減り、ところどころに罅すら入っている物もある。よほどキツめな説教だったようだ。
黒龍の跳躍とともに視界は一気に青空一色に染まる。先程までいた場所は遥かに遠く、飛来物一つない蒼穹の中へ。ぐんぐんと地表の置物を果てに置き去り、龍は空を駆け抜ける。
「ババア、めっちゃ怖かったね」
「怖いどころじゃねえよ、あれ。なんだあいつ。飛んでるおれたちのことをなんのなしに撃ち落としやがって。翼もないくせに空飛んでんじゃねえよ。全龍種に謝れ」
落ち着いてきたところでようやく体が痛覚を思い出したようで、気を紛らわすために話しかけたのだが、どうやら内容は適切ではなかったみたいだ。やはりというか、この罅割れの原因は彼女の仕業だったらしい。それにしてももはや何でもアリな彼女に驚愕の感情すら湧いてこなくなってしまった。
「あーー、ちびシア。着地場所ってよ、どこでもいいか?」
「できればお城のテラスあたりにおろしてもらえるとありがたいかも」
「テラス、テラスね。おう、気力で最後は飛んでみせるぜ」
────ちょっと待った。今、気力でと言わなかったか。
こちらが質問をするより遥かにはやく、黒龍の飛行速度が加速する。まるでラストスパートとでもいうかのように。そういえば、弟の方は確かこう言ってなかっただろうか。
『長い距離は飛べないから』
「おい、ちゃんとしがみついてろよ」
加速度はそのまま。しかしそれに反比例するかのように発せられた息遣いは弱々しいものだった。お城の全景が見えたあたりで滑空が開始される。目標は確実にテラスを狙っていた。
「タンマタンマ!!そのまま突っ込む気?!二回目は流石に許さないって!!ねえ!ちょっと聞いてる!?もしもーーーし!」
「………」
返事はない、気絶しているようだ。
この黒龍、先に繰り広げられた一方的な鬼ごっこでよほど疲弊していたらしい。お城までの足を買って出たのはいいが、どうやら限界だったみたいだ。
コントロールを失った機体は、しかして目標を外れることなく一直線に落ちていく。
大した魔法もつかえない私は、当然勢いを殺せるはずもなく、きっと次の瞬間に訪れるであろう衝撃に備えるしかなかった。
「い、いい加減にしろーー!!」
瞳が濡れているのは、乾燥によるものだと思いたい。