第6話
悪夢が助走をつけてやってきた。女装野郎だけに。いや、笑えないな。
土埃を巻き上げながら周りの目なんて一切お構いなしに一直線に走ってくる彼女、いや彼。魔界では知らない者なんていないくらいの有名人。魔王様同担拒否ガチ勢と書いてアスモデウスと呼ぶ。
私にとって秘書のラスクより会いたくない人物である。まさに自然災害。現れたら最後、誰も防げないのである。だって周りを見て。誰か匿ってくれないかなーなんて目で助けを呼んでも、気がついたらまあ不思議。軒並みシャッターが降りていらっしゃる。魔界はいつからこんなに冷たくなったんだろう。
「どうして逃げるんですの?!」
後ろを確認しようとして振り返ったのが運の尽き。まさにゼロ距離。鼻と鼻がぶつかりそうなくらい近づかれたらそりゃ反射的に後ずさるよね。
その行為をアスは逃亡とみなしたのか、両手で私の胴体をがっつりホールドしてくる始末。魔界随一の怪力に締め付けられ、出てはいけないものがまろび出そう。なんてつらつらと現実逃避をしているが、ここに至るまでなんと驚き5秒も経ってないんだよね。私は喋っていないんじゃなくて、喋れないの。
「きゃーーーーー!!私ったら公衆の面前でなんて破廉恥なっ!魔王様に抱きついてしまいましたわー!!あーん、なんて素敵な包容力!!!!」
「抱きついたのお前じゃん…」
「まあ、いけずなお方。いえ、そういうところも好きなのですけれど!はいっ!!」
てれてれと顔を赤らめて両の頬に手を添える姿はまさしく可憐な少女。馬鹿力と行き過ぎた信仰心と女装癖がなければまともなのに。あと言動。……あれ、これ全部じゃね?未だもじもじとその場から動こうとしないアスを尻目に私は再度の逃亡を試みる。
「取り込んでるところ悪いんだけどもう行っていい?」
「あっ、だめ、だめですわ!だって私が魔王様をこうしてお呼びしたのも、有史始まって以来の由々しき事態が起きているからなのです!!」
「えーー、なにそれえ」
いつにましても真剣な目で訴えてくアスモデウスに対し、ほんの少しだけ逃亡の意思が弱まる。というかついさっきまでいた場所が場所なので、その由々しき事態に心当たりしかないんだよね。聞きたくなーい。
「どうせラスクのお小言」
「そんなことではありません。もっと重大で、もっと真面目なお話です。王座がルシファーに奪われましたわ」
ルシファー?それってあの天界堕ちの?あいつ?
「さあ今すぐに戻りましょう。今は魔王様が急にいなくなられて血迷っているだけで、魔王様が城にお帰りになられればあの低能プランクトン共だって理解致しますわ!真に魔王たらしめるのはやはり魔王様のみだと!」
「いいんじゃない?交替で」
「ええ、ええそうですわよね!!……………はい?今なんとおっしゃいまして?」
がちり、そんな錆びついた音が聞こえてくるかのようにアスの動きがピタリと止まった。
よくよく考えれば魔王の交替をしてはならないなんて規約は存在していないし。ただ今まではなんとなく私がやっていただけで、システムさえ機能すれば誰がやったって差し支えはないのだから。本来であれば引き継ぎとかいろいろ面倒な手順を踏まなくちゃいけないのだろうけど、そこはあの天界で生きていたルシファーだから問題はないだろう。大罪におけるあいつの発言内容はともかく、行動原理としては大真面目そのものだから万が一なんてこともないだろうし。このままトンズラでも良い気がしてきた。いえーい、有史始まって以来の休暇だーー!!
「……せんわ…」
「ぇ」
ごきりと嫌な音が響くほどに握られた拳を見て、自分でも気が付かないうちにアスから距離を取っていた。俯く表情はこちらから伺えはしないが、きっと見えないほうが良い。危機察知能力は魔王故に高いのだ。生命危機…いや人生の危機を感じた私は、次にアスが口を開くよりも早く、その場から弾丸の如く駆け出した。
目指す先は人界!!もうそこしかない!
「認めません、認めませんわそんなこと!!魔王様が魔王様をやめるなんてそんな解釈違いがどこにありまして?!!いくら魔王様といえども今の発言は聞き捨てなりませんわ!!!!!!」
ドゴンッッ!!!
重い地鳴りにも似た音に恐る恐る振り向けば、土煙の中今まで見たこともない表情で立ち尽くすアスがいた。アスが佇んでいる地面は彼を中心に窪み、地割れが起きている。おっと、これはもしかしなくても地雷原でタップダンスした感じ?
「魔王様が魔王の座をルシファーと交替しても…交替して…も………ううううぅぅぅううっっ!!……こうなったら貴方様が玉座に戻ると仰るまで徹底抗戦ですわ。ええ、そうしましょう。保険にとマモンの言ったとおり連れてきて正解でしたわね。さて…おいでなさいな、私の部下達ッッ!!!」
ジャミング効果を切ったのか、四方八方に現れたアスの部下達が数にものを言わせて掴みかかってくる。転移魔法を使うやつを妨害する方法はざっと言って二つ。一つ目、術者と同等の魔力をぶつけて相殺する。二つ目、発動する前に物理的に抑える。取り押さえたあとに阻害系のアーティファクトを使用すれば魔力量が少ない者でも簡単に捕まえることができる。
今回は後者の方。魔王レベルの魔法を阻害できるアーティファクトなんて天界くらいにしかないんだけど、今魔王を名乗ってるやつが天界堕ちのやつだからなー、きっと用意したんだろうなー。
「とはいえ、こっちだって引きこもり生活がかかってるんだからなーー!!!」
一種の声明の如く、アスに負けじと吠えてみた。気合の一撃。転移魔法の発動なんて一秒すらかからないのだから。
魔王が消えた場所には数名の魔族が折り重なるようにして山ができていた。
はなからこいつらにあの御方を捕らえることなんて期待はしていなかった。だから彼らに対する落胆はない。今のアスモデウスにあるのは“魔王”という玉座からサタンが逃げ出したこと。その事実に対する苛烈なまでの怒りだった。
彼の中では魔王はよろこんで玉座に戻るはずだったのだから。
「絶対に見つけ出しますわ…」
ぎちりと噛み締めた唇から落ちた血が手に滴り落ちる。その手には、ラスクによって追尾魔術が掛けられた羅針盤が握りしめられていた。