第1話
爽やかな風と眩しい朝日が、眠っていた私を目覚めへと導く。ああ、今日も一日が始まる。今日も……今日も……。
「──起きてください。朝ですよ」
「……今起きたよ」
「今日は珍しく早いですね」
「うん、ちょっとね」
この眼鏡の男性はラスク。口やかましい私の秘書。いつも私を幸せな睡眠から引きずり出して仕事を振ってくる悪魔だ。ラスクを部屋から追い出して支度を済ませる。その際もずっと扉の向こうから今日の仕事について何か喋っているけど、適当に返事をしておく。
全ての支度を済ませて部屋から出ると、執務室へと向かう。お察しの通り、その間もずっと隣のラスクは仕事のことについて喋っていた。面倒なので適当に返事をすると、呆れた様子で小言を言ってきた。その小言の返事も適当に返す。
椅子に座り、机の上にある書類の山とご対面だ。ああ、忌々しい。眼前に広がる小さな地獄を見て、ため息をひとつ。今日も最悪な日が始まる。
つい先日仕事を放って抜け出したせいか、ここ数日間はラスクの監視が厳しい。昼食も休憩時間も必ずラスクがそばにいる。トイレに行くにも女性の部下に指示してついてこさせるし。自業自得だとは理解しているけど、流石にやりすぎじゃない? 更に逃げたくなるこちらの心理をわかっていないのだろうか。
ラスクはいっつも鞭ばっかりで飴を寄越さない。これでいて妻子にはデレデレなのが面白いを超えて気持ち悪いよ。
「ラスク」
「はい」
「お茶」
「持ってこさせます」
「ラスクが淹れたのが飲みたい」
「その隙に抜け出すつもりでしょう」
「そんなまさか」
「そう言ってこの間抜け出したじゃないですか」
ラスクと覇気のない言い合いをしてみる。やっぱり意識を逸らすことはできないようだ。だがこんなものは想定の範囲内。
一瞬でも私から気を逸らすきっかけを作ればいいのだから。魔法において私の右に出る者はこの魔界にはいない。その気になればいつだって抜け出せる。そしてラスク、お前は私をその気にさせてしまったのだ。
ふと、私とラスク以外誰もいない室内からガラスの割れる音がした。外からのアクションで気を逸らすことができないのはもう知っている。ならば内側からならどうだ。
これには驚いたようで、音の発生した場所へ視線を送るラスク。その瞬間、一目散に窓から飛び出す。後ろから怒号が聞こえた気がしたが、そんなもの聞いてられない。というかもう聞き飽きた。
さて。逃げる場所だが、魔界にいてはすぐに追手がきて連れて帰ろうとしてくるだろう。実際今まではそうだったし。ならば向かう場所はあそこしかない。
転移魔法を使い、とあるゲートの前に移動する。城内でも転移魔法を使えたのだが、ラスクが厄介な追尾魔法を張り巡らせているため発動した瞬間に移動先が割れてしまうのだ。移動先がバレてしまっては元も子もない。だから一度城から出る必要があった。
ゲートのそばで眠りこけている門番を横目に通り抜ける。退屈な仕事だろうから寝ちゃうのは仕方ないね。私にもその気持ちは分かるから減給はしないでおこう。
ゲートの向こうはなんの変哲もないただの森。そばに立っていた小さな木の看板には『管理小屋までお越しください』と書かれていた。簡易的な地図もあったので、その案内に従って進んでいく。
少し歩くと、小さな家が見えてきた。木製ポストには『ヘンリエッタ・ファルコナー』という家の持ち主であろう人物の名前と、『許可証発行所』の文字が刻まれている。別にこれ以上先に行く気もないので、ここで暫く寝かせてもらおうとドアをノックする。
「はぁい」
迎えに出てきたのは小柄な黒髪の少女だった。
「許可証ですか? 一旦うちに……」
「んーん。寝かせてもらえればそれでいいの。お邪魔しまーす」
「え?」
困惑する少女の横を通り抜けて、目に入ったソファに横になる。
「ちょっと、え、どういうことです?」
「街の方には行かないから許可証はいらないの。ここで休ませてくれるだけでいいから」
木の匂いと外から聞こえてくる自然音が心地よく、ものの数秒で眠りについた。少女もラスクのように騒ぎ立てることなく、放っておいてくれたし。
ああ、仕事を放り出して静かに眠ることのなんと幸せなことか。
どれくらい眠っていただろうか。昼間からこんなに寝られるなんて、ああ、最高に幸せ!
「おはようございます」
家主の少女が読んでいた本を置いて私の方を見る。
「あの、寝るだけだってことですけど、もう帰っていただけるんですか?」
「居心地いいからもう少しいたい」
「はあ……。じゃあ一応何者か教えてもらっても? 魔界からきたんですよね?」
「そうだね」
「名前は?」
「サタン」
「はい」
沈黙。少女の脳内でポクポクという音が鳴っている気がする。
「サタン?」
「うん」
「……え、私が寝てた?」
「寝てたのは私だよ」
「え」
「うん。サタン」
「……?」
頬をつねる少女。だから夢じゃないんだってば、とツッコミを入れておく。
「──嘘、ですよね?」
呆然とする少女をよそに、あくびをする。
「ベッド、借りてもいい?」