主人公
後退ろうとして、熱々のかまに触れ、ひっと息をのんでわたしは横に飛び退いた。
黒頭巾の人物が土間へおりてくる。頭巾は上等な紗でできていて、麻の小袖と袴を身につけていた。
かまに触れたわたしの手を掴み、そのひとは無言でわたしの手をみずがめへつっこんだ。かまに触れて熱を持った手が、水で冷えていく。
「しばらくそのままに」
黒頭巾の下から、ひび割れた声がする。びくっとわたしは震えた。
玄……だろう。この風貌は。
玄は、わたしの反応に傷付いたのか、さっと手をひっこめ、数歩離れた。なにか弁明したいのだが、声が出ない。
「なにもしない」玄はもごもごと、弁解する。「僕は……あの、いい匂いがしたから、来たんだ」
この邸(というほど立派なものではないが、ふうが暮らしていたあばらやと比べたら御殿である)の主なのに、玄はそういいわけした。
わたしはつめたくなった手をみずがめから出す。「しばらくそのままにせよというに」
玄が呆れたような声を出す。わたしはそれへ軽く会釈して、くどのなかからたきぎを、火ばさみでとりだした。燃えさしは水を張った木桶にいれてしまう。
玄が戸惑ったような声を出した。「火を消すのか」
頷きを返した。それからにこっとして、かまを指さす。玄がそちらへ近寄ったので、かまの蓋をとった。
もわっと湯気がたつ。
「おお」
さつま芋と飯の炊ける、いい香りが、わたしと玄に直撃した。玄はそう声をもらし、深く息を吸う。
「これは、うまそうだな」
よだれでもたらしたみたいな声だ。
わたしはついと、壁につくりつけの台を示した。そこには、朝、玄がつかったのを洗っておいた、どんぶりがある。
玄がそれを見て、こちらを見た。頭巾の向こうの顔ははっきり見えないが、視線は感じた。
「食べていいのか」
頷く。それからはっとして、台においてある小鉢をとった。玄がびくっとして、かまから遠ざかる。
「なんだ? 娘、なにをしている?」
わたしは塩とごまを、小鉢にいれて、小指で軽くまぜた。さつま芋ご飯にはこれを振りかけなくては。
小鉢を調理台において、どんぶりをとった。杓子でざっと、さつま芋ご飯をまぜ、一番おいしそうな部分をたっぷりよそう。ごま塩を振りかけ、玄へさしだした。
「あ、ああ」
玄は裏返った変な声を出して、どんぶりを両手でうけとる。わたしはにこっとして、箸を渡した。
玄はちょっと考えているふうだったが、とことこと移動して、あがり框に腰掛けた。「いただきます」
思いがけず丁寧にいい、箸ですくった飯を器用に頭巾の下へいれる。頭巾をかぶったままでの食事に慣れているようだった。
わたしはそれをしばらく眺め、子犬や子猫をかまうような気持ちになってきた。ふうはまだ十四歳だが、わたしはそろそろアラフォーだったのだ。これくらいの男の子は、子どもでもおかしくはない。
原作だとふうは十四歳、玄は十六歳で、物語終了時にはそれぞれ三歳ずつとしをとっている。だから、玄は今、十六歳の筈だ。
わたしは、ふうふういいながらさつまいもご飯を頬張る玄を見ながら、鍋に残っていた白湯を湯飲みについだ。それをそっと、玄の横に置く。「ありがとう」
ごく自然に、玄はそういった。どうやら、悪い子ではないようだ。
玄はさつまいもご飯を三杯食べ、わたしがわかしたお湯を二杯飲んだ。「うまかった」
そんなことはいわれなくても、あの食べっぷりでわかる。が、わたしはこっくり頷いた。
玄はお湯をすすりながら、もごもごいう。
「こわがらせてすまなかった。だが、この頭巾がないと、尚更こわがらせるだろうと思って……」
やはり、二次創作のほうの「月下の菫」の世界なのだろう。
原作の「月下の菫」では、玄が頭巾をかぶっているはっきりした理由はあかされないし、玄が自分の顔を「ひとをこわがらせるようなもの」だと思っているような描写はない。ファンの間では、華族の跡取り息子だった玄は顔が知れているので、それで隠しているのでは、といわれている。
一方、二次創作の「月下の菫」では、玄の顔には火傷の痕があるという設定になっている。火傷の痕をこわがられるので頭巾をかぶっている、筈だ。
わたしは頭を振って、かまを示した。
「いや、もう充分食べた」
頷く。
ざると、小皿に盛った塩を用意し、残った飯を握った。濡らした布巾をかぶせてけば、明日まで保つだろう。今日のわたしのご飯はこれだ。
玄は三杯目のお湯をすすりながら、わたしの作業をじっと見ているらしかった。
お握りに濡れ布巾をかぶせ、みずやへ仕舞いこんだ。かまを洗いにかかる。かまに水をいれて、わらを束ねたたわしでこすり、水を捨てる。
すっと、玄が横に立った。「なにか、手伝う」
わたしはそれを見る。どうも、本気でいっているらしい。
わたしはみずがめを指さした。玄は頷いて、底の深い木桶を持って出ていく。