27話
『蛍瘴気』の森は『有神人種』は立ち入ることができない。
そのくせこの森には『大精霊』が生息し、無力な異人を『精霊の使徒』に仕立てる可能性がある危険な地だ。
教会や聖騎士団から言わせれば、到底看過に堪えないものの筈である。
にもかかわらずこれまでの間森が放置され続けたのは、ここが彼ら自身にとっても力の源だと認知されているからだ。
この地は、神に選ばれた種族の、その自負たる力もまた、眠っているのだから。
「馬鹿な……教会が『精霊』の……魔法の源泉を焼くなど」
普段取り乱さないリゲルが、珍しく呆然としていた。
単に意外な状況というのもあるのだろうが、彼の肩書は『精霊学者』だ。研究対象を焼かれた衝撃と憤りは、余人に理解できるものではない。
だがボリスは、森を燃やされたことより、それを実行した者たちについて懸念を感じていた。
「まさか、聖騎士団……一体いつから森の外に」
グウィンの態度と状況から察するに、襲来した敵はリコンの聖騎士たちだろう。
だが、森に火が放たれたのは、グウィンが合図を送った直後だ。国境の向こうから駆け付けるのでは、こうも早く事を起こせる筈もない。
つまり、ボリスらがここで戦っている時点で、彼らは既に森の外周に詰めていたのだ。
合図に反応があったということは、そうなるように自ら仕込んでいたのだろう。
ボリスが咄嗟にグウィンを睨むと、力尽き、跪きながらもにやりと満足げに笑いながら、燃える空を眺めていた。
「元々、リコンの壊滅も、目当てだったのだ……国境を砕くついでに呼び込んで一網打尽にしようと、わざと情報を流していたのさ」
「グウィンさん、あなたはそうまでして」
確かに予め聞いていた通りではある。
だが、事ここに至るまでそれを実際に実行する者がいるなど、ボリスは信じ切れていなかった。
本当に、グウィンはこの一戦で列強を崩壊させるつもりで動いていたらしい。
教会の教えで成るこの円状大陸の社会を、本気で土台から打ち砕く目論見だったのだ。
そして、それを為すのは異人、ひいては『精霊の使徒』であればいい。
自分が止められたのなら、より強い師たちを戦うように仕向ければいいという考えだったようだ。
そんな彼をしても、森を焼くまでは想定外だったようだが。
「ふふ……教会の連中、我々が余程恐ろしいようだな。貴重な魔法の源泉を潰してまで『精霊の使徒』の出現を止めたいらしい。あわよくば森と一緒に燃えてくれるとでも思ったかな。馬鹿なことだ、こちらには優秀な水の使い手がいるというのに」
言いながら、グウィンはボリスと、その腕にくっつくユキを見た。
「間もなく、この森は聖騎士に包囲されるだろう。君たちがここから逃れるためには、聖騎士と戦うほかにない。彼らは弱いが、俺たちのように手心は加えてくれないぞ、特に異人相手にはな。くくく……」
「………」
ボリスは『有神人種』だが、残り二人は当然見逃してもらえないだろう。となると、二人を守るために同族と戦わざるを得ない。
聖騎士たちが『精霊の使徒』より弱い事は周知だ。戦っても負けはしないのだろうが、彼らに手向かいをすればその瞬間に大陸中でお尋ね者だ。
それは、つまり。
「つまり俺は……もうこの国には帰ってこられないんですね」
「ご主人様。でも、奥様が……お母様がっ!」
ボリスは黙って、家に残った母のことを想った。
吉報を持ち、帰ると約束したあの家には、もう帰れない。
このまま国に帰れなくなれば、母と再会することも叶わなくなるだろう。
夫を愛し、子煩悩で、愛深いあの女性が、家で一人残されて帰らない息子を待ち続けることになるのだ。
彼女の人となりを知っている人なら、誰もが激しく胸を傷める。
特にその息子の心痛となると、誰にも想像できない。
そんな事情など何も知らず、己の復讐に多くの人々を巻き込んだグウィンは、
「はは、ははは……どうだ差別主義者共。たとえこの手で叶わなくとも、一人でも多く……道連れだ」
ただ、嗤うだけだ。
この男は、憎い相手を一人でも多く殺せればそれでいいのだ。究極的にはこの大陸から根絶するために。
深い意図など何もない。詰まるところは破れかぶれだ。
己の求める結果が得られれば、その余波で傷付く人々の心境など考えないらしい。それこそ、教会が異人を虐げるのと同じように。
そんな弟子の暴挙を見た師の反応は、当然一つだ。
「グウィン……よくも、やってくれたね」
リゲルの声から、怒りの色がさらに濃くなっていた。
彼が、その弟子たちが『有神人種』に復讐をしないのは、こんな報復の応酬を止めるためだ。
リゲル自身も弟子の事情には出来るだけ配慮し、何だかんだで大切に扱ってきた。
ボリスにも協力を呼びかけはしたが、彼が同族の中で逆族にならないように常に心配りをしてきた。
そんな配慮も、今回の一件で全てが台無しである。
離反したとはいえ一番弟子にこうも逆鱗に触れられれば、さしもの温和な師も我慢の限界だ。
リゲルは細い腕で、倒れたグウィンに掴みかかり、
「君が『有神人種』を恨む気持ちはわかるさ。全て知っているとも。だが、彼らだってすべてが差別主義者じゃない。さっきも言ったがこの子は同志だ。我々異人のことも同じ人間と言ってくれる子だ。君は彼から、たった今故郷を奪ったんだ。何てことをしてくれるっ!」
煤の付いた頬を、平手で殴り飛ばした。
荒事には向かない学者の手でも、既に死に体のグウィンには十分な痛打だ。
大柄な体が木の根に倒れ、次の瞬間には杖の先がその喉元にあてがわれた。
だが勿論、一番弟子を見下ろすリゲルの目には、勝者の愉悦も何も無い。
ただ怒りと悲しみを称えた眼差しで、声で、教え子の不始末を嘆くだけだ。
「君はこれまでもこんなことをしてきたんだね。そしてこれからも繰り返すつもりだったんだろう……私はこんなことをさせるために、君を弟子にしたんじゃないというのに。アーシャもあの世で泣いているよ……せめて自分で涙を拭いてやるといい」
「……なんだ、それは」
「その謎解きも、あの子と仲良くやるんだね」
リゲルの杖の先に、肩の上から移動した四色の光球が纏い、一つに合わさって白く輝く。
雷は地属性を除いた三つの属性で発動する魔法だったが、四つ全てを使う魔法はボリスは勿論グウィンも知らないらしい。
何にせよ、リゲルはついに、一番弟子に引導を渡すつもりのようだ。この期に及んで隠していた、奥の手と思しき魔法まで晒して。
何の魔法かはわからないが、白い光の威力は、間違いなく必殺を誇るものなのだろう。
そのまま解き放たれていれば『精霊の使徒』最初の師弟の因縁には決着がついたのだろうが、
「先生、待ってください」
ボリスは師の肩に手を置いて、それを止めた。
リゲルは相当に怒っていたが、たった今、一番状況に傷付けられただろう弟子に制止されれば、多少なり冷静にならざるを得なかった。
狡猾なグウィン相手に油断は厳禁と、魔法の溜めだけはそのままだったが、その態度からは僅かに殺気が霧散した。
「……ボリス君、何故止めるんだい。この子のせいで、君は帰る国をなくしてしまったのだよ。野放しにすれば、君と同じ目に遭う人がこれからも量産される。これはグウィンに甘かった私の落ち度でもあるんだ。けじめを付けさせてくれないのかい」
「違います。けじめを付けるべきなのは、先生でもグウィンさんでもないはずです。それを正しく為すために、先生は俺に魔法を教えてくれたんじゃないんですか」
「………」
そもそもの発端は、結局のところグウィンの言うところの差別主義者たちだ。
『有神人種』たちが異人を劣等種として迫害したことが悲劇の始まりだった。
リゲルの研究は、元々『精霊』の存在を現し、魔法の力に人種は関係ないこと、人種の間に優等も劣等も無い事を示すためのものだった。
心ある『有神人種』に真実を広め、意識を変える事。虐げられた異人たちを奴隷から解き放つことが、リゲルの弟子たちの目標だった筈なのだ。
ならば、グウィンは殺されるべきでなく、むしろ救ってやらねばならない存在だと、ボリスは静かに師に訴えた。
そして、末の弟子の必死の訴えを無碍にするには、リゲルは師として優しすぎた。
「……強情で参るね、全く。その頑固もお父上に教わったのかい?」
杖の先の白い光は消え去り、リゲルの肩に浮いていた四属性の光もまた、同時に消えた。
溜息と共に戦闘態勢を解いたリゲルは、若干呆れた表情で、ボリスを横目に見た。
「それで、どうするつもりだね? 聖騎士たちは『蛍瘴気』の奥までは入ってこられないけど、森を出れば襲ってくるよ。どう頑張っても誤魔化しは聞かないと思うけど」
例えば、ボリスが主人として、リゲルをユキと共に自分の奴隷と偽る手段もあった。
が、異人しか入れない『蛍瘴気』の森から、金髪碧眼の『有神人種』が現れれば当然怪しまれる。
この森に入れるのは『精霊の使徒』か、その資格を持つ者だけ。生きて出てくる者もまた然り、ということだ。
気休めで全員顔を隠す手もあったが、それも限界があるだろう。
リゲルはボリスを守るため、聖騎士との戦闘との戦闘は避けたかったのだろうが、
「俺たちは何も誤魔化しませんよ。誤魔化すのは聖騎士たち……教会です」
「?」
当のボリスに、自分を守るつもりは毛頭なかった。
「彼らは俺たちにどんなにやられて負けても、絶対にそれを表沙汰にはしませんよね。魔法を使う異人にやられたなんて、教会は絶対に公表できない。だから、壊滅しない程度に倒してしまえば」
「……向こうが勝手に、今回の騒動をなかった事にしてくれる、か。まぁ確かにその通りだけど、それじゃあ結局、君がお尋ね者に」
「はい、それでいいんです」
ボリスにはっきり言いきられて、リゲルは黙った。
円状大陸の国家、信仰は、全てが『魔導教会』並びにその配下の聖騎士団に牛耳られている。
この地で教会に手配されるということは、どこにも逃げ場のない不帰の旅路だ。
それこそ、リゲルや弟子たちが置かれているままならない生活に、ボリスも自ら足を踏み入れることを意味する。
それをわからない筈もないボリスに、はっきりと同族から離反する覚悟を告げられれば、リゲルやユキは勿論、周りで聞いていた他の異人たちも、沈黙と共に表情を固めるしかなかった。
中でも『有神人種』を嫌ってやまないグウィンは、驚愕の表情で弟弟子をまじまじと見つめたものだ。
「何故、そこまで」
先まで復讐に燃えていた声は勢いを失い、衝撃と疑問で揺れていた。
目の前の弟弟子が特例であることはわかっていても、グウィンにとって『有神人種』とは身勝手な差別主義者だ。
それがここまで異人に肩入れするなど、たとえ事情が分かってもボリスの人となりを知らない者にとっては信じがたい話だった。
すっかり戦意をなくした様子の兄弟子は、それだけで十分話し合いに足りそうな様子だったが、
「……お話しするのは構いませんが、条件が二つあります。聞き入れて、くれますね?」
ただ単に事情を話すだけで終わらない辺り、ボリスも大概に師の強かさが伝染していたのだ。
ボリスはやっと出会えた長兄分に己の心を話し、この騒動を治めるための、そしてこれからの人間たちのための交渉を、リゲルとユキも交えて始めた。




