7話
迎えの兵士にユキを預けた後のボリスは、いつも通りの日常を送った。
今日の空模様と同じく晴れない気分のまま、頭に入らない授業を受け、無為に時間が過ぎていくだけだ。
それだけなら日常で済んだが、今日に限ってはユキがいた。
うだつの上がらない自分と、それを見上げる彼女の視線を顧みて、ボリスはさめざめと溜息を吐き、
「……こんな事なら、ダメだって強く言えば良かったかな」
帰り道で、そう独り言ちた。
ボリスは彼女にみっともない所を見せたくなかったのだ。
単に心配をかけるから、というのもあるし、それ以上の気持ちもあった。
欝々とした気持ちを抱えていても、ボリスは健全な少年だった。
自分を慕う同い年の少女に、恥じ入るようなところを見られたくない。そんな自然な想いから、今回の同行を許すか迷っていたのだ。
自信のあった実技だから悩みながらも許可したが、それでも結局は惨めな思いをしただけだし、別れ際の彼女は案の定、心配そうにボリスの顔を見上げていた。
ボリスにとっては、およそ一番避けたかった事態だ。
そういうわけで、今日も今日とてボリスは欝々とした表情で家路を帰っていたのだが、もう一つだけいつもと違うことがあった。
「……なんだか今日は、静かだな」
ボリスは貴族街に入る手前の露店街に差し掛かったが、いつも絡んでくるノロの姿が、今日に限っては見えない。
貴族街は住民の家柄が高く、高価な物品も多い事から、盗賊よけのために兵士が多く巡回していた。
勿論、騒ぎなど起こせば即時に拘束される。そのためノロも貴族街までは入っては来ず、ボリスに絡んでくるときは大抵この露店街の中だったのだが、今日は取り巻きまでが姿を見せなかった。
ボリスからすれば、顔を合わせず済むのに越したことはないのだが、
「あいつら……また他所で悪さをしてるんじゃないだろうな」
そうしてまた別種の懸念を覚えさせるのが、あの不良集団だった。
彼らは、ボリスが普段受けているような暴力行為は勿論だが、気まぐれに商店から品物を盗んだり、奴隷の娘を見つけては嫌がらせをしたりと犯罪紛いのことをする時もあった。
そのくせ手口が狡いのだ。
万引きは手慣れていて誰にも気づかれず、乱暴をする相手は必ず奴隷。それも主人の身分が低い事を見計らっての事である。
ボリスは父の影響で正義感の強い少年だった。自分のところに現れないということは、別の誰かが被害に遭っているのではと気が気ではなかったのだ。
だからと言って、わざわざ探し出せるほど犯行場所に見当が付いているわけでもないし、行ったところで自分には何もできないとわかっている。
今日もボリスにできるのは、ただ溜息を吐くことだけだ。
相変わらず足は重いが、妨害が無い家路は随分と短く感じる。
そうしてすんなりと家に帰り着いてみると、門番の兵士が妙に目を丸くしながら出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ若君。今日は早かったですね」
「あぁ、うん……邪魔が入らなかったから。ユキはいる?」
「は、ユキ? ご一緒ではなかったのですか」
「え」
兵士の返答にボリスは固まった。
彼女は実技が終わり次第、迎えの者に託して家に帰した筈だ。
ボリスは母への挨拶も忘れて家に入り、大急ぎで階段を駆け上って、自室のドアを乱暴に開いた。
「ユキ? ユキ!? いないのかっ」
「あれ、若様、お帰りで……」
「あっ、お前!」
部屋を覗き込んできたのは、迎えを頼んだ青年兵士だ。
きょとんとした表情を見るなりボリスはその胸倉に掴みかかり、叫んだ。
「お前、ユキはどうした? 迎えを頼んだろう、一緒じゃなかったのか!?」
「え? いえ、それがあいつ、若様と一緒に帰りたいからと……」
「……!」
兵士曰く、ユキは授業中のボリスの状態を心配していたという。
そのため、せめて帰り道くらいは傍にいたい。
そうした彼女の言葉を、兵士は軍属らしく一言一句正確に思い出して伝えてくれた。
だが勿論、どれだけ丁寧に言ったところで、若君の反応は同じである。
「馬鹿!」
ボリスは怒鳴ると、兵士を押しのけながら部屋から取って返した。
学び舎からの帰り道、汚泥のように張り付いていた不安が、今度は火が点いたようにボリスの胸を焦がしたのだ。
授業中も気になっていた視線。
帰り道に姿を見せなかった不良たち。
そして、消えた従者の少女。
想起されるのは、最悪の状況だ。
遅れて出迎えに来た母に一言もくれず、ボリスは屋敷を飛び出した。
「ボリス! どうしたのです、濡れますよ……!」
道には、いつしか雨が降り始めている。
無礼をさておいてアイビナ姫は忠告をくれ、兵士に傘を出すよう指示を出したが、その頃にはボリスの背はすっかり小さくなっていた。