5話
リゲルとの不思議な邂逅から翌日。
学び舎へ向かうボリスの表情は、相変わらず暗い。
魔法の指導をするとは言われたが返事はできないまま、リゲルは帰っていってしまった。
彼との会話は楽しかったし、指導はさておきもう一度会いたいところだったのだが、出がけに母から言われた言葉がいつまでも頭の中から離れなかったのだ。
「もうあの男に会ってはなりません……かぁ」
何故なのかと聞いても委細は語ってくれず、ただ「なりません」の一点張りだった。
あの母は奴隷を嫌っているし、異人の事も好いてはいないのだが、それにしても少し様子がおかしかった。
会ってはならないも何も、ボリスは行き倒れを助けただけだ。あの男がどこの何者かも知らない。
避けるにしろ会うにしろ、彼にはどうしようもないのだ。
そんな事より今日のボリスには、他に気にすべきことがあった。
「奥様もお酷いですよね。あんなに楽しい方でしたのに」
「こらユキ、母上の悪口を言うんじゃない。あれで案外根に持つんだから……」
「も、申し訳ございません……」
ボリスの隣には、普段のメイド服ではなく小者用の胴着を着たユキが付き従っていた。
今日の講義には助手が必要ということで、生徒たちは従者や同伴者を一人連れてくることが許されていたのだ。
勿論、同級生間での協力でも良かったのだが、ボリスにはそんなことを頼める間柄の友人がいない。
だからと言って家の兵士を連れて行くわけにもいかず、それを知っていたユキが立候補する形で付いてきた次第だった。
学び舎では孤立しているボリスにとっては、正直に言って有難い提案だったのだが、
「それより、教室では顔を隠しておけよ」
「あ、はい」
リゲルの言ったように、ユキは美しい少女だった。
昨夜の会話でも話題に上がったように、この世界で法の加護が無い美少女とは酷い扱いを受けるものだ。
ボリスの同級生には、ユキに危害を加えかねない無法者も混じっている。そしてボリスには、彼らからユキを守る力がない。
無用に絡まれるのを避けるためにも、愛らしい顔には母の化粧をわざと不適切に使って汚しを作り、その上で頭巾を被せて隠してある。
当然、やられた方は窮屈だろうし、やる方は心苦しい。
ボリスは善良な少年だ。自然とその顔は俯いたが、
「……肩身の狭い思いをさせて、悪いけど」
「いえ、ご主人様の将来が第一ですから」
ユキはいつものように主人に笑いかけた。
この国の学び舎は、幼年期からの職業斡旋所の意味合いも持つ。
例え魔法の技術を持っていても、食料は勿論、道具や施設が無ければ生きていけない。
学び舎で魔法の適正を見るのは、それらを作る職業から何に適正があるのかを判じ、早い内から働く訓練をさせるのがこの国の決まりだった。
ボリスは真面目に授業を受ける質ながら、魔法に関しての才能はない。
畑を耕すにせよ、炉に火をつけるにせよ、魔法であれば一瞬。
この国では人間の手作業で金を稼げることはないのだ。家の中の内職は奴隷の仕事である。
故に就けそうな仕事もなく、となれば当然留年も危ぶまれるのだ。
なのでせめて、授業の成績だけでも保っておかねばならなかった。
だが、
「実験で器を持ってもらうだけだから、終わったらお前はすぐに帰るんだぞ。迎えは頼んであるから」
「え、でもご主人様、帰り道が」
「いいから、お前は授業なんか聞くんじゃない。帰りだって、俺一人いじめられるならいつもの事なんだし」
強く制されてユキは俯いたが、別にボリスは彼女が学を身に着けるのを嫌がっているのではない。
宗教国家で学び舎の授業と言えば、実技以外は聖典の勉強、このユリウス聖王国なら『起源書』の勉強だ。
普通の人間にとって、それはさして抵抗を感じるものではない。
しかし、普通でない人間や、そもそも人間扱いされない者にとっては、その限りではなかった。
「……奴隷には辛いだけなんだから」
「……はい」
ボリスはユキに授業を聞かせたくなかったが、実技の実験は二時限目。つまり一時限は座学に付き合わせなければならない。
実際、辿り着いて教師の話を聞かされてみると、
「で、あるからして……我々『有神人種』は選ばれし民族であり、海外に蔓延る夷荻らは姿を似せた下等種なのである。故にこそ我らこそが世界を統べ、正しき秩序をもたらすべき……と、天主は仰られました」
案の定、授業中のユキは顔をしかめっぱなしになった。
宗教国家の授業は、思想教育も兼ねる。
王や、特に魔導教会の権威付けは勿論だが、抵抗なく奴隷を扱えるようにとの教育も為されるものだ。
奴隷はモノであり、人ではない。
それを当人たちの前で堂々と言えるようになっていくのが、思想教育というものだ。
周りの生徒たちの多くが自分の従者を連れているが、教師の言葉に頷く生徒一人一人の横には必ず、暗澹とした顔がある。
教師がこの話をあえて奴隷に聞かせるのは、生徒たちだけでなく奴隷の方の教育でもあるからだ。
お前たちは道具であり、天主に選ばれた自分たちに逆らうのは許されないのだ、と。
ボリスはまだ理解していなかったが、こうした啓蒙活動は使われる側に無力感と道具としての自覚を植え付け、主人に反抗させないようにするためのものでもあった。
そして、この世界で両者を分けているのは、たった一つの明快な境だ。
土魔法の才を持つらしい教師は右手を黄色に輝かせ、持っていた小石を粉々に砕いて見せた。
「故にこそ、天主はその証として我々に魔の才を与え給うたのです。この力こそ、世を統べる証。皆さんも、これを我らに授けてくれた天主に感謝を忘れぬようにしてくださいね」
「はい!」
元気な返事をする子供たちの中、ボリスは一人だけ、奴隷たちと同じ浮かない顔をしている。
そんな彼を、面白そうににやけた顔で見つめている者が二人。
一人は教室の中、いつもボリスをいたぶって遊んでいる痩せぎすの少年ノロ。
彼は見るからに人相の悪い笑顔で、ボリスとその隣の少女をじっとりと見つめていたし、そちらはボリスも気づいていた。普段、油断すると物を投げつけられるからだ。
だが、窓の外から見つめるもう一つの視線には、この時の彼は気付いていなかったのだ。
苦手な授業の時間は、級友とも呼べない相手との牽制で過ぎ、ボリスら生徒は実技のために別室へ移っていったのだが、
「なるほど、なるほど……確かにワルそうなのに目を付けられているねぇ、ボリス君」
人の事を言えない、というくらいあくどい笑みを見た者も、後をつける足音を聞いた者も、教室には誰一人いなかった。