1話
少し暑い、とボリスがぼんやり目を明けると、窓からベッドの上に、夏の日差しが高く差し込んでいた。
バルマナの軍学部は、夜明け前には朝の鐘と共に慌てて目を覚まし、急いで身なりを整えて教練に向かったものだが、夏季休暇の今はそれもない。
教官に叩き起こされることもなく、こうも熟睡したのは久しぶりだ。
母親が起こしに来ない以上、寝坊という程寝過ごしたわけでもないが、ボリスは数か月ぶりに快眠の満足感を味わっていた。
夢の中までついてきた、可愛い付き人と共に。
「……おーい、ユキ。起きろ、朝だよ」
ボリスの隣では、メイド服のままのユキがぺちゃん、と潰れるように眠っている。
早起きな主人に対して、従者のユキは元々寝坊だ。
本来、奴隷と言えば主人より早起きして家事や内職を始めるものだが、優しい主人と愛深いその母親、そして彼らに仕える兵士たちは、ユキにそうした働きを強いなかった。
元々、屋敷の世話はアイビナ姫が一人でやっており、手伝いには兵士たちがいるため、ユキの仕事はボリスの小間使いだけだ。
なので、仕事は主人が起きてからでもいいことだし、ボリスはそんな彼女を起こすのを苦手としていた。
くたりと脱力した身体を抱き起こし、揺さぶろうか、それとも声を掛けようかと顔を覗き込んでみれば、
「いつもながら、よく寝てるよな……女の子がこんな無防備でいいものかなぁ」
ボリスの口からは自然と、こんなつぶやきが漏れた。
ユキの寝顔はいつ見ても幸せそうで、起こしてしまうのが躊躇われる。
勿論、普段の性格や所作にも惚れこんでいたが、正直、ボリスはこの寝顔がユキの愛嬌の最たる所だと思っていた。
そのため毎朝寝顔を眺めるのは密かな楽しみだったし、暇な日などはそのまま寝かしつけておくことさえあったのだが、残念ながら今はそうもいかない事情があったのだ。
「ユキ、おーいユキ、起きろってば。ちゃんと着替えて支度しないと、母上に不潔って怒られるぞ」
「……むにゃ」
のんびり寝顔を愛でていたいところだったが、ボリスは努めて優しく、細い体を揺さぶった。
ただ、手加減のし過ぎで効果がない。
むしろ優しく揺られて、気持ちよさそうにユキの頬が緩んだくらいだったが、
「……今起きたら、ルシアさんの焼きたて菓子が食えるぞ」
「……んぅ、ルシアさん……ショコラ……はっ」
菓子と聞くなり、大きな目がゆっくりと開いた。素直な少女である。
ユキの目覚めが悪い時、ボリスは決まって食べ物で釣ることにしていた。
幼い頃は奴隷らしい暮らしをしていただけにに、ユキの食への執着はただならないものがある。
ルシアの焼き菓子はすっかりユキの胃袋を掴んでいたので、その名は効果覿面だ。
ユキは主人の腕の上で慌てて覚醒し、
「お、おはようございます。ご主人様……! 大変、早くお仕度しなきゃ」
それだけ言うと自分の部屋に引っ込んで、寝癖を整えメイド服も替えて、今度はボリスの服の準備にかかろうとした。
「あぁ、待った、俺の事はいいよ、自分でやるから。それより、皆の支度を手伝ってやってくれ」
今、この屋敷は三人の客人を迎えている。
ボリスの友人アルフとその従者フェイ。そして、ボリスの許嫁であるリリア嬢。
付き人がいるアルフはともかくだが、リリアは自分の従者を連れずに泊まりに来ていた。彼女からすれば、お気に入りのユキに世話してもらいたいということらしい。
それに今日は、アルフとフェイを師リゲルに引き合わせる日ということで、諸々準備をしておかねばならなかった。
そのためにユキは今日、大切な役目を任されていたのだ。
主人と一緒にいたいらしいユキは少し不服そうだったが、ボリスは慣れた様子で彼女の機嫌を取った。
「焼き菓子が来るのは本当だ。ガルズさんがルシアさんに頼んで、朝一番で作って届けてくれるって」
「わぁ!」
手を打って喜ぶユキに、ボリスは思わず苦笑した。
ルシアはボリスらが不在の間も、この家に菓子を作っては届けてくれたらしい。
それを手土産にガルズはアイビナ姫と親交を深め、彼女の実家が焼かれた時の事件などもそれとなく探っていたという。
奴隷を嫌うアイビナ姫だが、同時に無類の甘味好きでもある。ルシアの手製であっても、希少なショコラの魅力には勝てなかった。
そして、それはこの国の大抵の令嬢も同様ということで、確実に狙いの足も止めてくれるはずだ、と。
「ルシアさんも来てくれるみたいだから、俺たちが出かける間、頑張ってリリアを引き留めておいてくれよ」
「……うぇ」
ボリスが伝えた作戦に、ユキはあからさまに表情を渋らせた。




