4話
自分に師事して魔法を習得しないか。
そんな謎めいた提案をしたかと思えば、リゲルはその晩、突然帰り支度を始めた。
もう少し彼と話していたいボリスは、せめて朝まで泊まっていかないかと提案したのだが、
「まぁ、何、慌てなくてもすぐに会えるよ。君の行っている学び舎なら知っているし、その内のんびり眺めに行くさ」
そう言って門番に会釈をすると、さっさと屋敷を出て行ってしまった。
すぐに忘れ物を思い出して戻ってきたが。
「あ、ところでこの家、住所はどこかな?」
この男、意識が無いまま担ぎ込まれてきたのだ。勿論、自分が今までどこにいたかもわかっていなかったのである。
しかも引っ越してきたばかりで地理にも明るくないという。
そんな有様で颯爽と屋敷を出ていったものだから、見送りのボリスも門番と一緒に呆れ顔になっていた。
「ここは二番街の十二番地です。上層は王侯貴族の方が住まう一番街で城の直下。階段を下れば三番街以下で、そっちは町民区画ですよ」
「……ほう? 二番街……十二番地、ねぇ」
一方のリゲルは相変わらず、何か面白そうに笑っていたが。
「まぁ、ありがとう。その内会いに行かせてもらう。返事はその時に聞くからね」
かくして、謎の珍客リゲルは好き放題に喋り喋って、その日のうちにボリスの家を出ていった。
「不思議なお客様でしたね、ご主人様」
「あぁ、全くだ」
部屋に戻ったボリスはユキに寝台を整えてもらいながら、二人で先の客人について話し合っていた。
ユキは基本的に屋敷から出る事はなく、リゲルの見送りの際も主人の部屋の世話をしていた。
彼女に限らず家の中を世話する奴隷は、主人が移ったり命令がない限りは主人の家からは出ないものだ。
なので、出がけのリゲルの様子を聞いた時はころころと笑い、夜回りの兵士に叱られたくらいだった。
「……多分だけどあの人、お前と同族だよね? 肌と目の色は違ったけど髪が白かったし……西海がどうとか言っていたけど、ユキの出身も確か」
「あ、はい。確かにそっちの方です……ご主人様が、拾ってくださるまでは」
「……拾った、かぁ」
「あ……すみません、ご主人様」
ユキの言葉は、ボリスの胸には嫌に刺さる。
拾う、とはまるで犬や猫のような言い方だ。
実際、彼女はこの社会でそのように扱われる存在だったし、他の者であれば何とも思わないことだったろう。
だが、
「お前ね……そういう言い方をするんじゃないって、いつも言ってるだろう。お前だって人間なんだから」
ボリスにとって彼女は魔法が使えないという一点で自分と何ら変わりない、普通の人間だった。
それを奴隷扱いして蔑むようなことはこの少年にはできなかったし、自分の従僕にも屋敷の兵士たちにも許していなかった。
それは、この社会に生きる奴隷の身では普通、ありえない幸運だ。
ユキはそんな、ぶっきらぼうだが優しい主人を、その夜も微笑みと共に見つめていた。
客人との楽しい談笑を終え、子供たちが寝静まった後の事である。
夜半は既に過ぎ、屋敷の中では、客人を送り出したアイビナ姫も寝支度を整え始めたころだ。
彼女の私室には、今日も夜回りの番兵が交代の挨拶に訪れていた。
「失礼します、アイビナ様」
「あら、今夜はあなたなのね、ロックス。しっかり励んでちょうだいな」
「はっ、お任せを」
アイビナ姫は夫の亡き後、その配下だった戦士たちを取り纏めている。
配下たちの多くは地方に離散したが、忠義から近くに残った者には遺産から給与を出して雇い上げている格好だ。
主従としての関係はこの通り良好で、アイビナ姫も直接の配下の名前はしかと覚えて大切にしている。
使われる方もまた主人によく仕え、今亡き主人の妻には格別の忠義を尽くしていたのだ。
勿論、その息子にも。
「……それにしても若様、随分と話し込んでおられたようですね。学び舎ではお友達もいないと聞いていましたが、どんなお客だったのです?」
「あぁ……行き倒れの異人よ。あの子が拾ってきたの」
「はは、またですか。若様も好きですねぇ」
若様こと、ボリスが異人を拾ってくるのは、実はこれが初めてではない。
今、彼の傍に仕えているあの少女も、離散した配下への挨拶のため、一家で辺境に行った際に拾ったものだ。
昨今の聖王国は国外との戦が絶えず、必然、戦争難民も多かった。
そのため少しでも都市部を離れると主人を亡くした奴隷が溢れており、ユキもその一人だったのだ。
ボリスも母親も、かつてのユキと同じように、あの男も難民か何かだと思っていたのだが、
「奴隷ではなかったようなのだけど、学者だと言っていたわね。あのなりで剣の話ができるようだったから、話も弾んだのでしょう。奇妙なことだけどね」
番兵の青年は、こっそり苦笑した。
どうやらこの母親、ずっと息子の部屋に聞き耳を立てていたらしい。
普段は厳格そうな態度ながら、その実は子煩悩な事である。
少なくとも悪い事ではないだろうし、配下一同は女主人のそんな性質をこそ愛していたのだが。
「まぁ、何にせよ、ご友人ができたなら何よりな事です。貴族街に住まうならば然程怪しいものではないでしょうし、仲良くできると良いですね」
「……まぁ、どんな者であれ、ツテを増やせなくては貴族の家長は務まらないわ。その点は褒めてやらなくてはね……あら?」
二人が話し込んでいると、がちゃがちゃと鎧を鳴らして階段を上がる音が聞こえてきた。
今は深夜であるため、番兵は普通、寝ている主人に気遣って足音を顰める筈なのだが、その割には無遠慮な態度だ。
すぐに現れた新たな兵士の姿に、アイビナは少し不機嫌そうな声を出した。
「どうしたのです、騒々しいですよ」
「あれ、お前さっき交代したはずだろ。何かあったか?」
アイビナの部屋は、家長ということで家の最上階の三階だ。一階からそこまで駆け上がってきた兵士は息が上がっていた。
ただ、これだけでは武門の戦士が息を乱したりはしない。
見るからに蒼白な兵士の顔を見るに、本当に只ならぬことがあったようだ。
女主人も話していた兵士も、緩んだ気をすぐに引き締めた。
「奥様、来客でございます」
「来客? こんな夜分に無礼な……」
言いながら、アイビナは男二人に部屋から出るように促した。
無論、客の対応のためだ。寝巻のまま出ていくわけにもいかないし、兵士たちの前で着替えることもできない。
アイビナ姫は貴族生まれの女性だが、武門の女らしく行動は迅速を心掛けていた。
突然の来客と、信頼する配下の様子はそれだけ彼女を警戒させたし、
「それで、何者なのです」
そしてそれは、決して杞憂などではなかった。
兵士が蒼褪めた顔で告げた名前は、
「異端審問官の……お越しです」
この列強の国々に生きる人なら、誰もが震え上がる名前だったのだ。