3話
「いやあ、全く酷い目に遭った。助かったよ」
目が覚めた男は陽気にけらけら笑いながら、救助者の主従に礼を言った。
行き倒れていたこの男は名前をリゲルと言い、話によると家に帰る途中だったという。
肌、髪の色の時点で異人種であるのはわかっていたが、やっと開いた目は燃えるように赤い。
朗らかだが理知的な雰囲気に、どこか浮世離れした姿はいずれも馴染みのないものだったが、それが貴族街に家を持つと聞いてボリスは少し驚いたくらいだった。
「……家に帰る途中と言ったが、それはあなたの持ち物ですか? それとも、ご主人の?」
相手の身分がわからないので、ボリスは一応、敬語を守りながら質問した。
この男は有神人種ではなさそうだが、身なりはいい。
浅黒い肌に纏うのは使用人用の礼服でも小者のための作業服でもなく、法衣のような白い衣。
胸元のポケットにはルーペが留められており、メモ紙らしきものがはみ出ている。さながら神学者のような出で立ちだ。
それも自分が住む屋敷があると言っているし、まさか家主ではないだろうとも思ったが、奴隷にも見えなかった。
「あぁ、私は居候だよ。この通り学者なものでね、あちこち調査に巡るのに拠点がいるのさ……それを言うなら、そちらのお嬢さんは君の持ち物かい?」
「……そうですが、何か」
持ち物、という言葉にボリスは微かに眉を顰めた。
人間を持ち物呼ばわりするのは、この国では特に珍しくはない。
しかし明らかに機嫌を悪くした少年の顔を、男は一瞬面白そうに見ていた。
「いや、美しい少女だと思ってね」
「は?」
「え?」
固まる少年と、頬を染める少女。
両者をからかい調子で見てから、リゲルはどこか楽し気に続けた。
「普通、美人で異人種の子供というものは、貴族の男がある種の嗜好品として買うものだ。愛玩用、或いは性奴隷……」
「……おい」
「まま、落ち着きたまえ。話は最後まで聞くものだ」
不謹慎な言葉にボリスの顔が歪んだが、しかしリゲルは片手を軽く上げて制した。
「ところが、その少女の主人は君だろう? えーと」
「……バードンの子、ボリス」
「そう、ボリス君……君は男ではあるが少々若すぎる。ちょっと流石に色情沙汰にはまだ早いだろうし、繰り返すがそのコは美しい。肌も、瞳も、明るい陽だまりのようだ。法の加護が無い美少女とは、大抵男の欲望のまま乱暴に扱われ、沈んだ眼をしているものなのに……大切にしているんだろう」
奇妙な目で見られてユキは微かにたじろいだようだが、それ以上警戒を強めはしなかった。
この男、言葉は直接的で無礼ながら、その態度は不思議と悪意や不快感を感じない。
床に座り込んだ格好のまま、ボリスはもう怒りもせずに、いつしか奇妙な客人の話に聞き入っていたのだ。
「そして君自身だ、ボリス君。たった今ざっくり部屋を検めさせてもらったけど……面白いものを持っているね?」
「面白いもの?」
「それだよ、その机に立てかけてある」
「!」
ボリスは弾かれたように立ち上がり、指さされたそれを背に庇って隠した。
恥部を見られたように真っ赤になる少年を見ながら、男はまたしてもにやりと笑って、
「それは剣だね? その手の前時代的な白兵戦武器は、この魔法社会では絶滅危惧種だ。戦闘以外の用途が無いそれは、戦いにも生活にも使える魔法に必然淘汰される品の一つ。普通は骨董品のお飾りだけど……」
それから、よりによって恥じらう少年の方に歩み寄り、じっとりと観察し始めたのだ。
「君のその身体、腕の筋肉……剣筋だね? つまり君はそれを扱うための訓練を積んでいるということだ。違うかい?」
「………」
この男は、道で拾ってきた初対面だ。
なのに言っていることは全て、図星。
ボリスは微かに肩を震わせながら、しかし恐れよりも強く、怒りと羞恥に表情を歪めていた。
それだけ、彼が今背に庇うものは、汚されたくない誇りだったのだ。
「……あなたも、笑うのか」
「笑う? 何を」
「こんな技、時代遅れだと……何の役にも立たないと、笑うんだろう。皆と、同じように……」
実際、家族以外の誰もがそう言った。
人を殺す以外で何の役にも立たない技術。
それさえ、魔法が使えればそちらの方が都合がいい。
わざわざ近づいて、膂力で切りかかり、そのくせ適切に当てなければ致命傷に至らない。
そんなものより、遠くから魔法で燃やせば、溺れさせれば、より確実。
今更存在意義の見出せない、前時代的な技術、道具だと、何度誹られたことか。
何をしたわけでもないのに、剣を見た者は判を押したように皆同じ反応なのだ。
そんな技を身に着ける暇があったら『起源書』の知識を修め、魔法の威力を高めた方が良いと。
リゲルも一瞬はそう思ったのだろう。
しかし、洞察力鋭いらしいこの男は、目の前の少年の事情をすぐに察したらしい。
その顔から初めて笑みを消し、ボリスの肩にそっと手を置いた。
「そうか、君は魔法が使えないのだね。だから剣を修めた。同じく魔法の使えない奴隷にも優しい。教えたのは、父君だね?」
「……父を、知っているのですか?」
「知らないが、良い戦士なのだろう? 君の名乗りを聞けばわかるさ」
リゲルは再び明るく笑って、先の名乗りを復唱した。
「バードンの子ボリス……誇らしそうに言っていた。どこの家の者かをはっきり先に名乗るのは戦士の特徴だ。それにこの屋敷、私を運んだ兵士の様子……さぞや偉大な方なのだろうね」
その通り、自慢の父だった。
いくつもの武勇伝を持つ、この国きっての勇士だった。
それをしきりと褒められて、息子であるボリスの警戒は自然と緩む。
リゲルは本人に目配せしてから、その背に隠れた剣を抜き取り、抜いて、
「笑ったりはしないさ……まぁ、笑顔は心掛けているが、少なくとも君に嘲笑は向けない。初対面だが、むしろ私は君が気に入ったんだ。そのコへの扱いもね。うん、思った通りいい品だ……持ち主と同じように、その内面は美しい」
古びた鞘から現れた輝く刀身に、満足そうに頷いた。
柄にも鞘にも手垢や脂が染みているが、よく手入れされた両刃は曇りなく、確かに見事なものだ。
褒められ慣れていないボリスは、先とは違う意味で顔を赤らめた。
「これは形見です……毎日手入れしないと、錆びるからと、父が」
堂々と胸を張っていた先とは違い、しどろもどろになる姿は年齢相応でどこか可愛らしい。
ボリスにとって剣の話題と言えば嘲笑されるためのものだった。
それに突然理解を示してくれる人が現れたので、本人も喜びと戸惑いでどんな顔をすればいいかわからなかったのだ。
そこに、
「ふむ……この鉄剣、西海の向こうの意匠だね。そちらの少女の故郷近くの技術だ」
「! ……は、はい。これは……」
もの知りそうな人物から会話の呼び水が注されたのだから、たまらない。
魔法が流行ったこの世界で、武術なるものは廃れに廃れている。
なので剣術は、ほとんどボリスのためだけの技術だ。他人に話す機会などそうあろうはずもないが、苦労して手に入れたものは自慢したくなるのが人情である。
ボリスは父から伝えられた技を、話を、他人に披露する貴重な機会を得たのだ。
必然、彼の口数は多くなった。
教わった技術の話から始まり、それに関連して父の武勇伝に話題が移るといよいよ止まらなくなった。
生前の父から聞いた初陣の話、母から何度も聞かされた祖父男爵の救出劇。
いずれも自分の事のように自慢げに語るボリスを、リゲルは微笑みと共に黙って聞いていた。
「父は水の魔法を使えましたから、これを実践で使ったのは数えるほどだったそうですが……俺にはただ一つの武器です。普段使いは、できないけど」
それでも、父にできて自分にできない話は、どうしても瞳が曇る。
父が水の魔法を振るい、山火事を鎮めた話。
水を操作して洪水から村を救った話。
それはどちらも、父に才能があったからこそできた事だ。
努力で得た力しか持たないボリスには、小さな水滴一つ作ることはできない。
それを思い出す都度顔を暗くする少年に、リゲルは、
「……普段使いできる力が欲しいかい?」
そう、唐突に切り出した。
言うまでもなく、ボリスとユキの目はきょとんと丸くなり、
「……何を?」
「魔法だよ」
謎の質問に、同い年の主従は戸惑う顔を見合わせるのだった。