2話
「……何です? それは」
ボリスの母アイビナ姫が、息子の『荷物』を見た感想がまず、こうだった。
彼女は元々、今は亡き父バードンの兵士時代、任務の最中にたまたま助けた貴族の姫君だったという。
人種差別が存在する社会の常として、この世界では奴隷の反乱は然程珍しい事件ではない。
だがそれは一般人の話で、アイビナの実家のように爵位を持つ貴族の家ではまず有り得ないとされている事だった。
彼女の家は男爵位で辺境住まいと、然程位の高い家柄ではないものの、この国の貴族は有事の際に国王に加勢するため、独自の私兵を持つものだ。
魔法の使えない奴隷の身でそんな主人に反抗するのは当然命がけだったし、余程の覚悟、或いは怨恨が無ければできないのだが、現に彼女の屋敷は焼かれた。
そんな時に通りがかり、家を救って見せたのが、当時丁度その地を巡回していたバードンの小隊だったという。
小さいながらも一貴族との後ろ盾を得たバードン及び彼を抱えていた武門は、その後も数々の任務を与えられ、やがては国王の覚えも高い大氏族に発展した。
一介の兵士に過ぎなかった父の最大の出世話であり、幼いボリスに母が好んで聞かせた父の武勇伝が、主にその時の物語だった。
そうした経緯故に、アイビナは奴隷を信用せず、身の回りの世話は自分で行うようになったという。
だからこそ、息子が異人種らしい男を連れてきたので声を低めたのだ。
それでも、いじめで受けた怪我には触れられなかったので、ボリスの声にはいつもより張りがあった。
「ただいま帰りました、母上……この者は道で倒れていたのです。周りに誰もいなかったので放っておくわけにもいかず、連れ帰ったのです。怪我はしていないようですが、医官を呼んでも宜しいでしょうか」
元々きつい母親の顔が、更に険しくなった。
男は身なりこそ立派だが、褐色の肌はどう見ても異国の人間である。
この国ではほとんどの場合、異邦人とは奴隷だ。奴隷嫌いの母には当然の如く難色を示される。
だからこそ、
「……怪我はないのでしょう? ならそんな者に医官など勿体ないわ。治療ならあなたの奴隷にさせなさい。長居は許さないわよ」
直ちに追い出すよう言わなかったのは、この人なりの温情だったのかもしれない。
言いようは厳しいが、この母は決して息子を粗末に扱わなかった。
こうして人を助ける息子の姿は、驚くほど父に似ている。
実際に自分が救われ、挙句夫婦として結ばれた人の子供だ。何だかんだで無碍にはできないらしい。
厳しい母だったが、息子としてはそんな性質から嫌いになれない人だった。
「ありがとうございます、母上。では、俺はこのまま部屋に戻りますので……」
ボリスは頭を下げると、二階にある自室への階段に差し掛かった。
とはいえ、いくら鍛えていても、ボリスは十歳の少年だ。
細身であっても大の男一人を担いで階段を上るのは無理があった。
アイビナは頼りなく荷物を引きずる息子に溜息を吐くと、
「……そこのあなた、部屋まで手を貸しなさい。余計なことはしないのよ」
「はっ」
そう言って、門番をしていた兵士を一人、加勢に寄越してくれた。
小言と一緒に。
「軟弱な……それだからいじめなど受けるのです。お父様はもっと勇ましく、堂々としていましたよ」
失望と愛情の混じった母の言葉は、今日も変わらずボリスの胸に刺さった。
ボリスの家は父の恩赦として与えられたものだが、それでも貴族街の一角に構えられた立派なものだ。
周りの豪奢な屋敷と比べればいくらか大きさは劣るものの、前庭だけでも一般庶民の家よりは広く、本邸も三階建てと貴族屋敷の体裁を保っている。
この立派な屋敷は、父の生前の偉業の証だ。その中で暮らすことにボリスはささやかな誇りを覚えていたが、大荷物を担いだ今はその広さが忌々しかった。
母が寄越してくれた兵士の手を借りて、何とか二階の自室に辿り着く頃には、十歳のボリスはすっかり息が上がっていたのだ。
それでも何とか褐色の行き倒れを収容し、床に寝かすと、
「……ユキ、いるか」
「はい、只今!」
部屋の奥に向けて、ボリスは自分の傍仕えを呼んだ。
返事は呼びかけの直後だ。
鈴を転がすような声と共に、部屋の奥からぱたぱたと一人の少女が駆けてきた。
この屋敷は、現在の家長であるアイビナの意向で奴隷はいない。
元々武門の家であるため、各々の世話は自分でするというのが一家の意向であり、料理人や門番は、バードンの生前の部下を雇って使っていた。
そのため中にいる人間はおおよそ全て『有神人種』だったが、この少女ユキだけがただ一人の例外であった。
メイド服の少女は、肌は白いが髪も白い。
髪色に関しては行き倒れの男とよく似ているし、更に、はしばみ色の大きな瞳は、一目で異人種と知れる。
可愛らしい少女だが、詰まるところ彼女の身分はそういうことだ。
肩身が狭い筈の奴隷の少女は、しかし帰ってきた主人に屈託のない笑顔を向け、
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
そうして元気よく挨拶した。
ボリスは小さく頷くだけで無表情であるが、小言も何もなくただ帰宅を歓迎してくれるのはこの少女だけだ。
同い歳の好ましい従僕の姿にボリスは密かに心安らいでいたが、気を抜く前にすべきことがある。
手近な毛布を男にかけてやりながら、指示を飛ばした。
「この通りなんだ。介抱するから、手伝ってくれ」
「はい!」
ボリスはユキと共に行き倒れの世話をしたが、蓋を開けてみるとそこまで手間でもなかった。
何せ、怪我はないし顔色も悪くはない。単に気絶しているだけなのだ。医者でもない者にできるのは、精々汗を拭いて寝床を整えるくらいである。
にも拘らず意識が無いのはどういうわけかと思えば、
「ユキ、夕食は?」
「あ、はい。いただきました」
「じゃあ、今腹を慣らしたのは……」
ユキは苦笑して主人と見合った。
つまり、単に腹が減っているだけだったのだ。要するに本当の行き倒れである。
となると、施すべき治療は一つだけだ。
「今、調理場の残りをいただいてきますね」
言うと、ユキはとてとて足を鳴らしながら部屋を出ていき、間もなく湯気を立てた木の椀を手にもって帰ってきた。
中身は麦がゆだろう。甘みを帯びた香ばしい匂いを見るに、料理人はきちんと出来立てを拵えてくれたようだ。
腹は減っていないながら、ボリスもユキも良い香りに目を細めていると、
「きゃっ」
突如、寝ていたはずの男が覚醒し、ユキの手から碗をひったくった。
「んぐ、んぐ、んぐ……」
かと思えば、まるで茶でも啜るように碗の端にから麦がゆを一息で喉に流し込み、
「……あ」
「……あ?」
「熱いっ! 水! 水!」
そう言って口をはひはひ動かしながら、喉を抑えてのたうち回った。
救助者の主従は目をぱちくりさせていたが、主人の方が冷静になると、従僕の方も表情が渋くなった。
何とも慌ただしい男である。
二人揃ってすっかり呆れ顔だったが、火傷をされても困るので、
「……ユキ、水」
「は、はい、只今」
ひとまず、ボリスは保護してしまった人間の責務を果たすことにした。
とんだ変人を捕まえてしまったと後悔しながら、だったが。