最終話
屋敷の庭に咲く水仙は、母であるアイビナ姫の趣味だった。
八つで父が死に、領地からこの貴族街に越してきて七年。春が来る度ボリスは、庭師を呼ばずに自分で花の世話をする母を見てきた。
これから三年、ボリスはこの屋敷を離れる。
貴族学校は王都から離れ、独自の所領を持っている。夏冬には長い休暇もあるが、それ以外、生徒は学び舎に缶詰だ。
ボリスは学び舎で苦労した分、町人たちの付き合いがあっても街に然程の思い入れはない。だがそれでも、母と離れるのは多少の寂しさがあった。
もっとも、別れ際のやり取りはそんな郷愁も情緒もない代物だったが。
「よいですか、ボリス。お父様のような立派な士官になるべく、しっかり励んでくるのですよ。ご飯は毎日三食きちんと食べるように。朝夕の鍛錬も欠かさないのよ。お友達もしっかり作りなさい。三年住み込みなのですから、孤立して居心地悪くするようなことはないようにするのよ。それから……」
「あの、母上……もう時間が。御者が待ちくたびれていますから……」
アイビナ姫は、しばしの別れとなる息子に思いつく限りの忠告を並べた。
何だかんだで息子に甘い母親である。直接干渉してくるようなことは少ないが、口うるさくなるのは心配だからだろう。
特に、
「それとユキ」
「は、はい奥様」
最大の懸念点であるユキには、アイビナ姫はあからさまに厳しい視線を向けていた。
「いいこと? 同行は許しますが、絶対に息子に色目を使うことはなりませんよ。もしも何か間違いがあったら、お前はどこか知り合いにでも売りつけてしまいますからね。それをくれぐれも忘れないように」
「は、はい……」
アイビナ姫はユキの頬を両手で挟み、ものすごい形相のまま息子の臣下に顔を肉薄させた。
言い分は厳しいが、知り合いに売りつける、とは奴隷商ではないのだろう。
奴隷と主人の別はあるものの、ボリスにとってユキはただ一人、直属の臣下だ。アイビナ姫も、息子にとって彼女がどれだけ大事かはわかっているらしい。
情深い母で、女主人。
その優しさに改めて触れた二人は、思わず表情が緩んだが、
「何を笑っているのですっ。こちらはまだまだ言い足りないのですよっ」
「はっ、はいぃ!」
「も、もう結構です。行ってまいります、母上っ」
直後に雷を落とされて、ボリスとユキは逃げるように馬車に駆け込んだ。
御者はボリスの指示で馬を出したのだが、この男、実はガルズの手の者だ。
彼は長く王都を離れるボリスのため、リゲルが寄越した連絡役だったのだ。
出発前最後の確認ということで、王都の入り口、大手門より少し離れた場所では、リゲルの一行が待っていた。
「母上とお別れは済んだかね、ボリス君」
「はい、まぁ……慌ただしかったけど、一応」
思い出してボリスは苦笑し、ユキはにこりとした。
確かに慌ただしかったが、寂しくはならない。思えば門出にはいい別れだったのだろう。
察したリゲルとガルズも微笑み、ルシアはさらに小袋ををひとつ渡してくれた。
「手付金じゃないけど……ユキちゃん、好きでしょ? 馬車の中で食べてね」
「ルシアさん……」
「あぁ、こらこら泣かないの。これからだって会う機会はあるんだから……」
ユキはこの五年で、すっかりルシアの料理や菓子に胃袋を捕まれていた。
勉強の合間に焼き菓子の作り方を教わったり、他愛ない話をしたりして、姉妹のようにすっかり仲良くなっていたが、そんな二人もしばしの別れだ。
姉貴分との別れを惜しむユキの隣では、ボリスも師匠と出立の挨拶を交わしていた。
「はい、これ……不穏な動きがある良家の名簿ね。関係を深めろとは言わないけど、本人と使用人たちの様子に、よく注意してほしい」
言うと、リゲルはボリスに一冊の手帳を手渡した。
そこには、リゲルの一番弟子グウィンの手掛かりになりうる相手の名前が記されている。
いずれも良家、王侯貴族の子息及び息女であり、ガルズや異人の協力者では近づけなかった人々だ。
ボリスはそれらの人々を探り、グウィンの行方を探ることを、在学中の使命としていた。
それがリゲルから、ボリスに向けての頼みだった。
リゲルの弟子で『有神人種』はボリスただ一人だという。
それも貴族学校に入り、普段は近づけない良家に探りを入れられるということで、ボリスはそういう意味でも稀有で奇跡的な人材と言えた。
とはいえ、学び舎という将来を決める場で、危険な使命を託すことにリゲルは躊躇いを見せたものだ。
「最後に改めて聞くけど……いいんだね? グウィンの事は、結構危険な案件だ。君が父君のような兵士になりたいのなら、今から降りてくれても私は恨まないよ?」
「……勿論、父上の事は今でも尊敬しています。でも、俺にこの世の真実を仕込んだのは先生ですよ」
ボリスの答えに、リゲルは微かに俯いた。
ボリスの父バードンは、この聖王国を守る兵士だった。
彼は国の在り様に正義を見て、それを守ろうと思ったはずだ。
だが今のボリスは、国の在り様に正しさが見えない。
異人が『神なし』として不当な扱いを受け、奴隷として差別されるこの列強に、ボリスは既に守るべき価値を見失っていた。
となればもう、盲目的に父の在り様をなぞることはできない。
五年の修練と、学びとの間に、ボリスは新たな志を見つけていたのだ。
申し訳なさそうな顔の師に、ボリスは微笑みを返してみせた。
「そんな顔をしないでください……俺の想いは、もう先生と同じです。俺も異人を……ユキを、自由にしてやりたい。そのためにも、俺は力の限り先生に協力します」
「……心の底から感謝する。歓迎するよ、私たちの新たな仲間……『精霊の使徒』よ」
「精霊の……使徒?」
付けられた肩書に、ボリスは首を傾げた。
曰く、それはリゲルの弟子たちを意味する符号だという。
『精霊』の存在は、リゲルの弟子と、教会の頂点、その中でもごく一部の者しか知らない。
だからこそ、リゲルの弟子たちが互いを呼び合う記号として、その名が使われる、と。
「勿論、俺たちも『精霊の使徒』だぜ」
「これで本当の仲間……二人とも、改めてよろしくね」
ガルズとルシアの父娘も、これからはより密な付き合いになるという。
特に、リゲルからの連絡役は、ガルズからの手の者だ。ボリスが何か重大な発見をした時、或いはリゲルから何か連絡事項がある時、伝達役は彼らが頼りである。
ガルズは、ショコラを手土産にアイビナ姫との繋がりも強めていた。そのため実家からの届けものも一緒に引き受けてくれるとの事で、何かと頼ることも多いだろう。
この通り外の準備は万全だったが、
「連絡は密に取り合いたいですが、目立たないようにしたいですね……多分、リリアの目があるから」
肝心の学び舎の方は、懸念事項が二つほどあった。
一つはボリスの許嫁、リリアの存在だ。
ボリス自身は彼女に靡かなかったが、幸か不幸か、以前の邂逅は見合いとしては好感触だったという。
リリアはボリスに好意を持ったようであり、家の事、騎士団の事、何かとボリスに語って聞かせた。
教会の動きがわかりやすいのは助かるが、何せ騎士団長の娘である。
『精霊』の存在まで知っているかはわからないが、異人とひっきりなしに連絡を取り合えば怪しまれる危険性もある。
そして、人の目という意味では彼女以上に厄介なのが、もう一つの懸念点だった。
「……ノロさんも、来るんですもんね」
ユキが見るからに不安そうな声を出した。
そう、あの悪ガキ、ノロもまた、貴族学校に入学してくるというのだ。
学び舎でも私生活でも散々脅かされ、そのせいでノロはボリスの強さの秘密を探っていた。
直接絡んでくることこそなかったが、そのあからさまな監視体制はリゲルたちも気付くほどだったのだ。
何をしているかまでは知らないだろうが、少なくとも彼はリゲルたちの存在は知っている。
リリアはひとまずボリスに好意的だが、ノロは弱みを握ろうと必死の筈だ。
異人とひっきりなしに連絡を取っていると怪しまれるだろうし、しかも二人とも教会の関係者である。
何かの拍子に教会の上層部に漏れれば、惨事を招きかねない。
ユキの頭を撫でて励ましながら、ボリスもまた不安を隠せない表情をしていた。
「はは、何て顔をするんだい。モテる男はもうちょっと余裕を見せるもんだよ。君は五年間、修行に勉強に、よく励んできたからね。何が起こっても大抵は心配ないさ。今の君なら、少なくとも『小精霊』の魔法に負ける事は絶対にない。今更多少の恫喝があったところでなんてことはないさ」
しかし、こんな時こそ笑うのが二人の師匠だ。
多難な前途に飄々と笑う姿は、ボリスの心に一握りの安心感を与えてくれた。
それに、リゲルにも心配事はあっただろうが、それはボリスが下手を打つ事ではなかったのだ。
「強いて懸念事項があるとすれば」と、不敵な笑みでそう切り出し、
「唯一の不安は、やりすぎることだね、我が愛弟子……『魔剣戦士』ボリス」
成長の中で得た己が通り名に、ボリスもまた笑顔を返した。