22話
『精霊学者』リゲル。
そもそも『精霊』という存在自体が認知されていないこの世界で、彼の名を知る者はいない。
その肩書、研究対象、そしてこの世界の真実を知るのは、彼自身から教えを受けた弟子たちだけだ。
ボリスが知るのはガルズとルシア、そして彼らに協力する南方の異人たちだけだが、この世界にはまだ、リゲルと別行動を取る弟子たちが散らばっているという。
リゲルが話題に上げたのは、その最初の一人についての事だった。
「ガルズとルシアさんは二番目の弟子でね、私には一番弟子が他にいるのだよ。君とよく似て真っ直ぐな心根の男の子……今はもう立派な青年だろうがね」
「……しばらく会っていないのですか?」
「会いたいとは思っているんだがね。君に会ってからも探したが、この国にも手掛かりはなかった……教えを継ぐ人を探すのもそうだが、私の旅は彼を探すのも目的の一つなのさ。実は君の家の隣に越してきたのもそのせいなのだよ。君の母上目当てでね」
「え」
そもそもボリスの家の隣に居を構えたのは、その一番弟子の手掛かりを求めての事だったという。
屋敷の人間との接触も計画に含まれていたとの事だが、それはボリスとの出会いによって無用となり、結果リゲルは労せずして欲しかった情報をそれとなく得ていたという。
しかし、その目的の相手というのは、驚くべきことにボリスの母アイビナ姫だった。
突然師匠から母親を探っていると聞かされ、それも行方知れずの弟子の手がかりだという。当然の如く、ボリスは目を剥いて驚いた。
「厳密に言うと、奴隷の反乱に遭った家を訪ねているんだ。ほら、君の母上も、奴隷に家を焼かれたって言っていただろう? そういう場所があの子の手掛かりになると、私たちは踏んでいる」
「奴隷の反乱に遭った家……ですか」
穏やかでない話だ。
『精霊』という絡繰りを知らない多くの異人たちは、この列強ではいつでも被・支配者だ。
『有神人種』と『神なし』の奴隷の間には、魔法の有無という大きな差がある。魔法を持たない奴隷たちは、基本的にどう頑張っても主人に勝てはしない。
奴隷という境遇を好き好んで受け入れる者などいないだろうし、それ故主人を恨むものなど数えきれないだろうが、それでも力ずくの反乱など滅多に起こらず、成功例などさらに数少ない。
だが、その僅かな成功例にはリゲルの一番弟子が絡んでいる可能性が高いという。
『精霊学者』リゲル、その一番弟子が絡んだ奴隷の反乱。
不穏な予感に、ボリスは「まさか」と声を漏らした。
「そう……あの子は恐らく『精霊』の事を奴隷たちに話している。それも、主人に冷遇されている人たちを狙ってね」
当時を思うリゲルの表情は、普段の軽薄が嘘のように重く、沈んでいた。
「あの時は私も活動を始めたばかりで、若かった……私は幼くして主人から逃げ、偶然『大精霊』と出会い、魔法を得た。当時は今ほど取り調べも厳しくなかったから、私は異人と『有神人種』の混血と偽って、孤児院に入ることができたのさ。だから、同族でありながら知らなかった。我ら異人が、奴隷の扱いがどれだけ酷いものだったかね……」
奴隷だったリゲルは、然程裕福でない一家に安く買われ、しかし然程の関心も向けられなかったという。
何せ、当時のリゲルは薄汚れた幼い男の子だ。これが女の子なら慰みものにでもされたのだろうが、男の幼子にできる仕事などたかが知れている。
最初の数日は食事を与えられたが、やがて見捨てられ、飢えていった。耐えかねて逃げ出しても、誰も追ってこなかった。
飢えに耐えかね『精霊』を飲み、それでも無事だったのは単に運良く耐性があっただけに過ぎないという。
幸運、と言っていいかはわからないが、かくして生き残ったリゲルは、鞭打たれることもないまま混血としての立場と教養を得、やがて『精霊』の知識を深めていった。
やがて教会に研究が見つかり、異端者として逃避行の旅を始めたリゲルが最初に弟子としたのが、主人の虐待に耐えかねて逃げ出した二人の子供だったという。
「男の子がグウィン、女の子がアーシャ……主人の男はとんでもない奴でね。アーシャに散々乱暴を働いて、見かねたグウィンが彼女を連れて逃げたんだ。二人とも、出会った時は、君と同じ十歳だった」
ままならない身分の女の子に、それを助けたい男の子。
少し前のボリスとユキに似ているが、互いに奴隷という事がただ一つの、そして大きな差だった。
頼る当てもなく追われる身だった二人は、リゲルに出会う頃にはすっかり衰弱していたという。
状況を聞いた若きリゲルは迷うことなく二人を助け、やがて回復した彼らに『精霊』を与え弟子とした。
それからしばらく、三人は師弟として列強の国々を回り『精霊』の研究を続けていたのだが、その間もグウィンとアーシャの仲は深まっていったという。
やがて、年頃になった二人が愛を育み、将来を考えるまでに至ったころ、悲劇は起こった。
「『病孕み』って疾患があるんだが……そいつは男女が交わると起こることがあると言われているんだがね、それにアーシャが罹ってしまったんだ……逃げ出した主人から貰ってね」
「……!」
リゲルは『精霊』の研究過程で、医術の心得もあった。なので病気の発生源がグウィンでないことはすぐに知れたという。
『病孕み』は潜伏期間が長く、発症するまでに数年を要する。そのため発見が遅れ、症状が出た頃には既にアーシャは手遅れの状態だった。
そして。
「綺麗な子だったのに、全身から腫瘍を吹いて、顔の形も変わって……見るも無残なアーシャを、それでもあの子はずっと抱きしめていたよ。おかげで私は一人で墓穴を掘る羽目になった。酷い話だろう? ははは……」
リゲルは冗談めかして笑ったが、顔にも声にも力が無かった。
壮絶な最後を遂げたアーシャを弔い、残ったグウィンは間もなくリゲルの前から姿を消したという。
それから列強では奴隷の反乱が方々で聞こえ始め、それも主人の家を焼いて復讐を遂げる例が現れ始めた。
魔法を使う異人への取り締まりが強化されたのは、ちょうどその頃からだったと、リゲルは語った。
「確信したよ……あの子が、グウィンが、アーシャの復讐を始めたんだってね。あの子は奴隷に魔法を与えて、この列強を……教会を転覆させようとしている。罪なき……とは言えないが、それでも人を殺めようとしているんだ。だから私は……」
「………」
言葉に詰まった師の前で、ボリスは無意識にユキを想った。
自分たちの事は、取り返しがつくうちにリゲルが助けてくれた。
しかし、そうでなかったら、どうなっていただろう。
リゲルに弟子入りした日、ノロに乱暴された彼女がもしも命を落としていたら、自分はどれだけノロを恨んだだろう、と。
そう考えると、胸の奥が冷たくなった。
細かい事はいくらでも考えられるし、聞いてしまえば簡単な話だ。
ともすれば月並みで、安易とすら言える。
だからこそ、ボリスは顔も知らない兄弟子の気持ちが容易に理解できたのだ。
協力を頼まれただけで、具体的な内容はまだ聞いていない。
しかし、何をしろと言われる前から、もうボリスの答えは決まっていた。
「俺がその人を止めれば、異人の扱いも良くなりますか?」
ボリスは委細を聞かず、倒す、とも言わなかった。
あくまでグウィンを止め、説得してリゲルに会わせる、という意味だ。
そんな弟子の心意気に、リゲルは深く頭を下げた。
「……少なくとも、教会の警戒感はいくらか緩む。そうなればユキさんを『有神人種』にすることも、できるかもしれない。やりようによっては、穏便に学説を広める事も、或いは」
「なら、迷うこともないですね」
そう言って、ボリスは手を差し伸べ、
「先生は回りくどいんですよ。そんな用なら最初に言ってくれれば、これまでだって協力したのに……それで、何をすればいいんですか」
「……本当に、一途なことだねぇ……全く」
掛けられた言葉に涙しながら、リゲルは逞しい手と握手を交わした。




