18話
ノロを一撃で吹き飛ばしたボリスは、その日から帰り路の妨害に悩むことはなくなり、代わりに魔法の制御に苦労するようになっていた。
『大精霊』の魔法の威力は『小精霊』のそれを大きく凌駕していたのだ。
通常、一般人が扱う風魔法とは、精々が微風を送る程度のものだ。
列強においては複数人で帆に風を当て、船を動かしたり、干しものに利用したりされていたが、拳の一振りで人間一人を吹き飛ばすような力の持ち主はそう滅多にいないものだった。それも大人を基準にしてだ。
魔法であっても、子供の力は大人より弱いのが常だが、ボリスのそれは威力だけなら教師たちをも容易く凌ぐ。
これまでボリスに劣等生の烙印を張り続けてきた教師たちは、彼の突然の変わりように驚き、戸惑うことになっていた。
「お、おぉ、ボリス君……ようやく君も我らが神への信心を得たのですね、感心な事です」
教師たちは額に汗をかきながらそんなことを言っているが、彼らは魔法の仕組みをどれだけ知っているのだろう、とボリスは思った。
彼らは教会の回し者、そして下っ端もいい所なのだろう。
恐らくは『起源書』の内容を鵜呑みにしているだけで『精霊』や、その他の大事な秘密も知らない筈だ。
自分の知識の正当性は、上がそうだと言ったから間違いない、くらいの認識だろう。
それがわかっていたボリスは、自然と学び舎の授業に身が入らなくなっていき、魔法の力と引き換えに座学の成績を落としていった。
「……ふむ、それはいかんね」
相談を受けたリゲルは、そんな傾向を問題視した。
「あのね、ボリス君。学び舎の教えってのは子供たちに社会で生きるための基礎を……『常識』を教えるものさ。たとえ嘘だらけであろうとも、そこは大人を信じてあげなければならないよ。良識に欠けた人間が、どんなモノかはよく知っているだろう?」
「………」
ノロの事を引き合いに出されれば、ボリスも否とは言えない。
ただ、彼のような人間の横暴を許したのも、結局はこの大陸の『常識』のせいなのだ。
学び舎で教える選民思想のせいで、魔法が使えなかったボリスはこれまで冷遇されてきた。
更に、ユキの件はボリスの心により深い不信感を植え付けていた。
教会が掲げる選民思想は『神』という絶対の大義名分があったからこそ容認されてきたのだ。
その存在がでたらめだと言われれば、教会の実態には何の正義もありはしない。
そのために自分や大切な人が苦しんできたとなると、嘘だとわかっている教えを素直に聞き入れることはできなかった。
何とも言えない表情で黙るボリスを見て、リゲルは少し考えると、
「……よし、ならばこうしよう」
そう切り出して、代案を示してくれた。
「今度から、学び舎で教わった内容を私に教えてくれたまえ。私も『有神人種』の子供たちが学ぶ内容には興味があるからね……その上で、私が知る知識も改めて君に授けようじゃないか」
「先生に、嘘の知識を教えてどうなるのですか?」
「だから、どんな嘘が教えられているのかが重要なのさ。私を助けると思ってくれればいい。そんないじけた顔をするんじゃないよ」
リゲルは珍しく毅然とボリスを叱った。
まだ十歳の子供が、必要以上に大人たちを悪しざまに見るのは良くないだろう。
素直で真面目が取り柄のボリスが、こうも人を疑るようになってはこれからの人生に障るということで、真偽はともかく教えを真っ直ぐに受け入れられるようにとの配慮だった。
「いいかね? 私は学者だ。嘘は嘘でも、どんな風に現実と齟齬が起きているのかを調べるのは十分に有意義なことだよ。だから、君は学び舎で教わった知識を私に教えて、代わりに私は対応した研究成果を君に伝授する。そうすれば君は勉強の復習になるし、私も『精霊』の研究の助けになる、両者両得さ。どうだい?」
「……そうですね。それなら」
ボリスはそれから、一週間のうち四日は学び舎に通い、休日の三日はリゲルから教えを受ける日々を過ごした。
昼は勉強、夜は身体の鍛錬、ボリスの一日は休みらしい休みもない多忙なものになっていった。
だからといって苦痛でもなかった。
学び舎では『起源書』の内容のほかに、将来のために必要な魔法の知識を主に教えていたが、これまでのボリスはその理屈を実践する手立てがなかった。
だが魔法を得た今、教えられた理屈は己の身で実践できる。
ボリスは本来真面目な質だったし、できるとわかれば勉強は楽しい。
リゲルに伝えるという役目も得たことで、それからのボリスは文にも武にも充実した学びの日々を過ごした。
変化は、ボリスだけでなくユキにも訪れていた。
ある日、ボリスが家に帰ってきた時の事である。
玄関先では、ボリスの部屋の敷物が、ずぶ濡れの状態で物干し竿にかかっていた。
どういうことかと番兵に聞いてみると、ユキが掃除中にバケツをひっくり返したというのだ。
しかし、ユキは主人同様しっかりした質だ。そうそうそんな失敗はしない。
もしやと思って、ボリスが部屋に帰ってみると、
「……! ご主人様、すみません、実は」
そこには、右手を蒼く輝かせたユキが待っていた。
彼女もまた『大精霊』の魔法の力を授かっていたのだ。
その時のボリスは喜んだが、奴隷である彼女がその力を授かった事は、以前危惧した通り並大抵のことではなかった。