16話
『大精霊』による変化は、まずは小さなところからだった。
具体的に言うと、体力の劣化だ。
ボリスは亡き父からの言いつけを守り、眠る前には体力づくりとして木剣の素振りと、家の外周の走り込みを三周、毎日欠かさずにやってきた。
父が亡くなったのは八つの頃。ユキと出会って二年後の事だ。
子供には中々の苦行だったが、二年も続ければ流石に慣れる。
この頃は息が上がる事など無くなっていたのだが、
「……どうしたのですボリス。随分と疲れているようですが」
ガルズの屋敷から実家に帰った夜には、ボリスは屋敷を一週回っただけでも肩で息をするようになっていた。
アイビナ姫はいつものように汗拭きを片手に待っていてくれたのだが、何しろ急な変化だ。疲れた息子を見れば情けないと叱るでもなく、ただ心配そうに声を掛けた。
「あぁ、いえ……ガルズさんの家で、少し夜更かしをしてしまって。それで疲れているのです。心配は、いりません」
『精霊』は、宿主の養分を吸い取るという。
リゲルにも注意を受けた事だが、身体に『精霊』を宿した人間は、そうでない人と比べると体力が衰える傾向にあるというのだ。
原因はこの通りわかっているのだが、そのことは限られた人にしか伝えられない秘密だ。
ボリスは密かに心を痛めながら、母親相手に嘘と秘密を貫き通さねばならなかった。
アイビナ姫も、息子の様子には気付いていただろうが、
「……まぁ、何でも構いません。ひとまず湯浴みでもなさい。ユキに言いつけてありますから」
ひとまず疑問は置いて、頑張りを労ってくれた。
この屋敷にはアイビナ姫の趣味で、家の者のための湯浴み場がある。
いちいち大量の湯を沸かして、都度湯船に運んで中を満たす仕組みなので、毎日入れるようなものではない。
屋敷に仕える臣下の中には火の使い手も水の使い手もいるが、それでもかなり手間な作業だ。
そのため、ボリスと母親が湯浴みをする際には、料理人が厨房の残り火で湯を沸かし、それをユキがせっせと運んで風呂を拵えてくれていた。
今日もユキはきちんと言いつけを果たし、湯舟は程よい温度の湯が煙っていたのだが、
「……あら、やだ。この子ったらこんな所で寝ているわ。起きなさい、ボリスが着替えるのよ」
脱衣所では、ユキが椅子にもたれた格好で眠っていた。
水の入った入れ物を運ぶのは重労働だ。
これまでも楽な仕事ではなかっただろうが、ユキもボリス同様『精霊』を身体に取り入れた副作用が出ていたらしい。
衰えた身体で仕事を終えて疲れ切り、一休みしようと椅子に座ったらそのまま眠ってしまったのだろう。
アイビナ姫は乱暴に起こそうとしたが、
「いいんです母上。ユキも俺に付き合ってあまり寝てないから……部屋に運んでおきますから、お気になさらず」
ボリスはそう言ってユキを抱き上げ、起こさないように気を付けながら自室に運んだ。
ユキの部屋は、ボリスの部屋のさらに奥である。
彼女の主人はボリスなので、いつでも呼びつけに応えられるよう、わざわざ部屋に仕切りを設けて場所を作ったのだ。
そのためユキの部屋は小さく窓すらない。家具も目立ったものは置かれていないが、ボリスの頼みで寝床だけはきちんとしてもらっていた。
整えられてはいないが、寝相がいいのか枕もシーツも然程乱れていない。
柔らかいベッドの上に、唯一の臣下を寝かせてやると、ボリスはそのまま部屋を出ようとしたが、
「ご主人様、待って……まだ……」
「うん?」
その背を、少し呆けたような声が呼び止めた。
振り返ると、ベッドの上ではユキが上体を起こしている。
疲れているのか右腕をさすっているが、やり残した仕事があるらしい。
ユキは重そうな体を押して、そのままベッドを降りようとしたが、今度はそれをボリスが制した。
「あぁ、待て。言いつけは風呂だけだろ? 今日はいいから、もう寝ておしまいよ」
「でも、まだ洗い物が……」
「早起きして明日やればいいだろう。起こしてやるし……間に合わなくても、料理人たちは怒らないよ。お前は普段から真面目に努めているんだから、ちょっとくらいは言い訳も付くさ。悪いのは『精霊』だろうしね……ほら」
「……ふ、ぁ……」
ボリスはユキの背を支え、そのままベッドに戻してやった。
そうして手ずから寝かせてもらえば、もうユキは逆らえない。
「俺は風呂をもらってくるよ。折角お前が拵えてくれたし……だからもうおやすみ」
「……ごしゅじん、さま……」
「うん?」
ボリスが右手で頭を愛でてやると、ユキはベッドの上でくたりと脱力し、
「『精霊』さんが、いれば……『落ちこぼれ』も、おしまいですよね……だいすきな、ごしゅじんさま……」
声も、身体も、主人の手の中で蜜のように甘く蕩けさせて、そのまま寝入ってしまった。
白い頬は薔薇色に染まり、口元は薄く微笑んだ寝顔は、心底幸せそうだ。
どんなに見慣れていても、見れば思わず頬が緩み、肩の力が抜けていく。油断すればボリスまで眠ってしまいそうだ。
ただ、それでは折角の風呂が無駄になってしまうので、
「ありがとうユキ……でも、そんなすぐには、変わらないよ」
それだけ言い置いて、ボリスは今度こそ部屋を出ていった。
しかし、まだまだ先だと思っていた力の発現は、そんな呟きをした翌日だ。
それは、いつものように学び舎の帰り道、ノロたちに絡まれている時のことだった。
「お前なぁ……こないだはよくもやってくれたよなぁ……」
「うるさい、あれはお前が勝手に雷に打たれたんだ。第一、お前がユキに乱暴したのが悪いんだ。天罰とはよく言ったものだろう」
絡む言葉も、返す言葉も、いつもと似たようなものだ。
ノロは例によって露店街で盗みを働き、それをボリスに見咎められて逆上していた。
そして取り巻きと共にボリスを囲い、いつも通りにいたぶって遊ぶつもりだったのだろう。
魔法が使えず無力なボリスは、今日も今日とていい様に弄ばれ、俯き加減で家に帰る筈だった。
本人も含めてその場の全員が、そう思っていた。
だが、
「え」
その考えが打ち破られた時の反応もまた、全員似たようなものだった。
ボリスはせめてもの反撃にと、いつものように拳を振るっただけだ。
ただそれだけで、ノロの身体は宙に吹き飛び、壁に打ちのめされて地面に伸びた。
悪ガキを打ちすえたボリスの右手には、
「……先生の、言った通りだ」
翠色の魔法の光が、宿っていた。




