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異端賢者と精霊の使徒たち  作者: 霰
戦士の子と賢者
12/85

11話


 刹那。

 視界が白く染め上げられ、轟音が全ての音を打ち消した。

 雷が落ちたのだ、とボリスが理解するのに、たっぷり五秒はかかった。

 そこまでは冷静になれば自然な事だったが、どうしても不可解なことが目の前で起こっていたのだ。

 ボリスは呆然と、目の前にかざされたノロの右手を見つめていた。


「……?」


 目の前に迫っていた火球が、消えている。

 ノロの掌の上に載っているのは、着火に使ったと思しき紙の燃え残りだけだ。

 雷に驚き、ノロが魔法を解いたのかとも思ったが、それにしては様子がおかしかった。

 訝しんだボリスが改めて、ほくそ笑んだ悪ガキの顔を見上げてみると、


「な、なんだ……!?」


 表情はそのまま、ノロは白目を向いていた。

 どうやら気を失っているらしい。

 ノロは数秒、その状態のまま硬直していたが、すぐに左手の傘を取り落とし、濡れた地面にばたりと倒れ込んだ。

 それに続いて、倒れる音がもう二つ。


「ユ、ユキ」


「ご主人様、これは」


 辺りを見ると、ノロの取り巻き二人も倒れている。そんな中、ユキだけは無傷の様子で佇み、戸惑ったようにボリスを見つめていた。

 自然の雷を受けたなら、ボリスもユキも火傷の一つくらいは負っているはずだ。にも拘らず狙ったように自分たちだけが無傷だったので、二人は状況が飲み込めなかったのだ。

 奇跡のように悪ガキたちを撃った、謎の雷撃。

 自然のものでないのなら、考えられる可能性は一つだけだ。

 やがて広場の物陰から、聞き覚えのある声が響いた。


「やぁ、ボリス君。いい天気だねぇ」


「あ、あなたはっ」


 現れたのは、昨日ボリスが助けた行き倒れ、リゲルの姿だった。

 曇天を見上げ、雨に打たれながら笑顔で軽口を叩くその様子に、ボリスもユキも揃って呆け顔になっている。

 どうやら助けてくれたのはこの男のようだが、何処から現れたのか。いつからここにいたのか。

 そもそも、先の雷は何なのか。

 この男の仕業ならやはり魔法だろうが、この世界の魔法は地水火風の四属性だ。雷の魔法など聞いたことが無い。

 そもそも、目の前の男は見るからに異人だ。

 魔法とは『有神人種』の特権であり、だからこそボリス達と異人の間には明確な身分の差が生まれてきた。

 それが魔法を使うなど、誰にも想像ができないことだった。

 ユキは勿論、ボリスもすぐには状況を飲み込めず、歩み寄ってきたリゲルを呆然と見上げていたが、


「……無事かい?」


「!」


 優しく見下ろす微笑みを受けて、ボリスは我に返った。

 何はともかく、助けられたのだ。それは間違いないらしい。

 ならば最初にすべきことがあると、ボリスは慌てて佇まいを直し、痛む腹を抱えながら何とか立ち上がった。


「リゲルさん……御助力、ありがとうごさいます。俺も、ユキも、助かりました」


 そう言って、ボリスは深々と頭を下げた。

 周りは三人が地面に倒れた惨状ながら、震え一つも起こさずに礼を尽くせるのは父の薫陶の賜物だった。

 十歳の子供がこんな態度を取れば、大抵の大人は驚くか感心するかだろうが、しかしリゲルは特に動じた様子もなく、


「はは……ご丁寧にどうも、と言いたいところだけど、せめて雨宿りしないとユキさんが風邪をひいてしまうよ? 君もね」


 ノロが落とした傘を勝手に拾うと、ボリスの頭の上に差してくれた。

 それでもなお、ボリスは顔を上げようとしない。

 あれだけ暴行を受けた後だ。見ている方は心配になった。

 ノロの攻撃は何度も急所を打っていたし、取り巻きの土魔法は頭に当たっている。

 もしや大事になっていないかと、リゲルは屈みこんで少年の顔を覗き込もうとしたが、


「見ないで、ください」


 ボリスの掠れるような声で止まり、その肩が震えているのに気付いて、再び背を伸ばした。

 この少年は武人の子だ。他人に涙を見られたくないのだ。

 悪ガキ相手に何もできず、負けるところを見られるなど耐え難い屈辱だった。

 ましてや、ただ一人の臣下の目の前。

 それも特別な存在となれば、なおさらだった。

 ボリスの肩の震えは時と共に大きくなり、


「な……情けない……こんな俺を、見ないで……見る、な……」


 嗚咽交じりの声は、傷ついた姿と同じように、聞く者の耳に刺さった。

 ユキは、こんなに弱った主人を今まで一度も見たことが無い。

 家に帰ってきたボリスはいつもぼろぼろだったが、それでも母の前に立てば背筋を伸ばし、兵士たちにも毅然と対して、部屋で待つユキにも気丈に笑って見せていた。

 どんなに殴られても、侮辱されても、この少年は人前ではいつも胸を張り、父から受け継いだ勇気と誇りを示してきたのだ。

 逆に言うと、それだけがボリスを支えてきた『芯』だった。

 その勇気が力の前に挫け、大切な人を守れなかったことで誇りも失った。

 それを他人に見られたことで、胸を張って人前に立つ力さえ、ボリスは無くしてしまったのだ。

 耐えかねたように膝が崩れ、ボリスはリゲルの前に座り込んだ。


「お、俺は……一人でユキを守る事すら、できなかった……俺は、勇士バードンの息子なんだ……それなのに、何故、こんなに弱くて何もできないんだ……何で、こんなに、惨めで、情けない……」


 リゲルの後ろで、ユキは既に涙が止まらなくなっている。

 ボリスは屈辱の至りのように語っているが、彼はユキのために学び舎の権力者に立ち向かい、勇敢に戦ってくれたのだ。

 守られた方からすれば感謝こそすれ、情けない事など何もない。

 それなのに、全身で悔しさを現すような主人の姿を見て、ユキはとうとう耐えられなくなったらしい。

 上着の前を留める事も忘れて駆けだすと、


「ご主人様ぁっ!」


 柔らかな白い胸の中に、主人の頭を抱え込んだ。


「惨めなんかじゃ、ありません。情けなくなんか、ない……! 勇敢で優しい、ユキの一生のご主人様……見損なったりしませんから、もうそんなこと、言わないで……」


 それだけ言うと、ユキはわんわんと声を上げて泣き始めた。

 彼女にとってはボリスの生まれも、まして喧嘩に強いかなど、心底どうでもいい事だった。

 自分を人並みに扱い、実際に人間と呼んで温かい言葉を掛けてくれた彼を、ユキは心底から愛して慕っていた。

 彼こそはユキの生きる全てであり、何を持たなくてもこの世でただ一つの価値であり、希望だった。そんな彼が自分を卑下するのは耐え難かったのだ。

 言葉に偽りなく一生付いていくつもりだったし、挫けた時は身を捧げてでも慰める覚悟だった。

 だが、


「……っ」


 そんな得難い人を持ってなお、ボリスはあくまで武人の子だ。

 好ましい感触と温もりに包まれながら、ボリスはただ唇を噛み締めていた。

 武人は強く、誰かを守り、利ではなく誇りに従うものとは、父が幼い息子に何度も聞かせた言葉だった。

 命でなくその誇りを先に立てるようにと、周りから散々仕込まれてきたのが、このボリスという少年だったのだ。

 喧嘩に負け、救ったはずの人に助けられ、挙句幼子のように少女の胸に縋っているこの状況は、彼にとってはそれこそ、と。


「おやめ、ユキさん。それ以上は大事なご主人様を壊してしまうよ……慰めが逆効果になることもあるのさ。戦士ならね」


 リゲルはそっとユキの肩に手を置くと、泣き顔の彼女をやんわりと主人から引きはがした。

 そして二人を横に並べると、リゲルは傘を持ったまま屈みこみ、二人を雨から守りながらボリスと正面から見合った。そして、優しい声で質問をした。


「さてボリス君、何故だと思うね?」


「……?」


「何故自分が弱いのかと、君は言っていたじゃないか。何故だと思う。言ってごらん」


 ユキが文字通り体を張って涙を拭い、体温で頬を温めたおかげか、ボリスの涙は乾いている。なので顔を逸らしたりもせず、二人は正面から視線を交わすことができたのだ。

 ボリスは一瞬迷ったが、やがて絞り出すように、答えた。


「修行が……足りないからです。もっと、鍛えていれば」


「力を付ければ、人間は火で焼けなくなるかい? 水に溺れなくなるのかい? 少なくとも、私はそんな怪物は知らないな」


 リゲルは笑い、別の答えを求めた。

 と、言っても導き出される結論は一つなのだ。

 黙っていても強いノロと、いくら鍛えても彼に及ばないボリスの違いは、ただ一つ。

 その差を克服するためにこそ、ボリスは必死に身体を鍛えてきたのだ。

 だから、事実を認めるのは、彼にとっては例えようないほど辛いことだった。


「魔法が……使えないから、です……」


 唇を嚙みながら、ボリスは答えた。

 この言葉を絞り出すのがどれほどのものか、リゲルにわからない筈もない。

 ボリスも、隣にいるユキも、どういうつもりなのかと非難がましくリゲルを見つめたが、


「それも、違うね」


「え?」


 唯一と思しき答えも否定されて、二人はぽかんと口を開けた。

 この反応まで、リゲルは見通していたのだろう。思わしい返答が無い事に腹を立てた様子もなく、あくまで表情は微笑んだままだ。

 一瞬の沈黙の後、リゲルは右手をボリスの肩に置き、


「君が、君たちが弱いのはね……運が悪いからさ」


 そう、自ら答えを言ってのけた。

 意外な答えを。


「うんが、わるい?」


「そう、運が悪い」


 ボリスは完全に呆然自失としている。

 言われた意味もわからず、自分で復唱してなお言葉の内容が飲み込み切れていない。そんな様子だ。

 主従揃って呆けた様子に「何て顔をしているんだ」と笑うと、リゲルは続けた。


「では聞くがね……例えばユキさんは、何故自分が奴隷なんだと思う?」


「……『神なし』の人種だからです」


「では、何故そのように生まれたと思う? 何故君や私たちが、この社会で蔑まれる人種に生まれたと思うか、わかるかい?」


「わ、わかりません」


「はは、奇遇だね、私にもわからない」


 生真面目なボリスはいよいよ混乱し始めた。

 もう何を聞くべきかも、言うべきなのかも見つからない。

 頃合いと見たのか、思考を放棄し始めた二人にリゲルは結論を述べた。


「まぁ、何が言いたいかというとね……実力の正体は運なのさ。努力じゃない」


「それは……!」


「落ち着きたまえ。現に君は頑張ってもノロ君に勝てなかったろう? そこは事実だ、認めるしかない」


 確かにリゲルの言うことは真理だったが、日々研鑽を欠かさない武人の息子としては受け入れがたい言葉だった。

 それでは、自分たちが日々積んでいる研鑽は全て無駄なのかと、ボリスは視線に込めて抗議したのだ。

 その視線を受けたリゲルは、初めて柔和な笑顔を消すと、


「では君は、自分が誰かより頑張っていると思うのかい? 他人より努力している自分は、他人より優れていなくてはならないと、そう思うのかい」


「……!」


 今までとは打って変わった冷たい声を出した。

 最初に会った時、リゲルはボリスに「君に嘲笑を向ける事はない」と言った。

 しかしその視線からは非難と、それから微かな嘲りが確かに感じられたのだ。

 いい加減に思えたこの男の中に、測り知れない底が潜んでいる。

 その片鱗に触れたボリスは、ぞくりと背筋を凍らせ、何も言い返せなくなった。

 それでも、リゲルが放った威圧感は、ほんの一瞬だ。


「……あのね、ボリス君」


 浅黒い顔はすぐに優しい笑みを取り戻し、諭す声も元の柔らかさに戻っていた。


「人間はね、どう足掻いても人間並みにしか頑張れないものさ。人一倍努力した人も、誰よりも頑張った人も、この世には存在しないのだよ。そんな風に思うのはただの傲慢さ……おおよそ誰もが自分にできる事を、思いつく限りやっているものなのさ。その上で実力は運次第……ユキさんを見れば、君にもわかるはずだ」


「……ユキを?」


「そう、彼女は魔法もなしに君の衣服を洗って、部屋を掃除して、暖炉に火を灯してくれるじゃないか。魔法でそれらを一瞬でこなす『有神人種』よりも、彼女の方が沢山の労力を仕事に費やしている。努力している。なのにこの国で、彼女の扱いはどうだい?」


 ボリスは、はっとした。

 彼自身は一度も蔑ろにしたことはないが、結局のところユキは奴隷だ。

 どれだけ頑張ってもそれは変わらないし、それは間違いなく彼女のせいではない。

 『神なし』が魔法を使えないのは、信心が足りないせいだと学び舎では教わる。だから、種族として自分たちよりも劣等なのだと、子供たちはそう学ぶ。

 だが『有神人種』であっても、真面目に日々を生きていても、ボリスに魔法は使えない。

 ノロのように悪行を重ね、道徳に背いていても魔法が使える事には何の説明もない。

 考えてみれば、理不尽な事だ。

 そしてリゲルは、その理不尽を心から憎む男だったのだ。

 どこか軽かった口調が少しずつ重みを帯び、常に笑顔を浮かべていた顔は、いつしか真顔になっている。

 様々に感情を変えるリゲルの瞳は、深い色を帯びて、雨に濡れる一組の少年少女を見つめていた。


「努力なんて誰でもやっているのさ……例えるなら賽子を転がすような、ありきたりで、他愛のない事なのだよ。良い目が出たからってそう凄いことじゃないし、悪い目が出たからって排斥されるべきでもないのさ。なのに」


 リゲルは傘を捨てると、雨に打たれながら、二人を抱きしめた。


「君や、ユキさんみたいな善い子が、ちょっと他人よりツイてないためにこういう仕打ちを受けるのが、私は嫌いなんだよ」


 妙に痩せた細い身体だが、そのくせ抱きしめる力は強い。

 飄々とした軽い男に見えたが、ボリスもユキも、触れ合ったリゲルの奥には何か熱い『芯』を感じずにはいられなかった。

 この人は確かに、誠実に、自分たちを想って言ってくれているのだ、と。

 二人は思わず肩の力を抜き、しばらくは抱擁を黙って受けていたが、相手の警戒が解けた事を察してか、やがてリゲルは再び身体を離して、ボリスと視線を合わせた。


「前置きが長くなったけど、私は君に返事を聞きに来たんだ……昨日の質問のね」


「質問?」


「そう。私の弟子になって、魔法を習得しないか、とね」


 言うと、リゲルは立ち上がり、右手を蒼く輝かせた。

 その瞬間。


「!?」


 辺りの雨水が、時間が止まったように落下を止め、その場にとどまった。

 この水の魔法は、ボリスの父が得意としたものだ。ここまでなら二人もそこまでは驚かなかったが、


「熱っ……!?」


 今度はリゲルの左手が紅く発光した。

 すると、宙に浮いていた雨水が泡立って形を失い、瞬く間に蒸発して霧へと変じたのだ。

 水の魔法では、こうして熱を操ることはできない。今使われたのは火の魔法だ。

 普通、『有神人種』であっても、使える魔法は一属性のみ。

 それ以上の魔法が行使できる人物は、この社会においてある高位の称号で呼ばれていた。

 極めて稀なその存在は滅多に市井に出てくることなどないのだが、目の前で見せられては疑いようもない。

 ボリスの声は先とは別の意味で、具体的には興奮と驚きで、震えていた。


「二属性の魔法……リゲルさん、あなたは『賢者』なのですか……!?」


「まぁ、確かに私は一般的にそう呼ばれるものだけどね。正直柄じゃないし、別に賢いから魔法が使えるわけじゃないよ。あと、二つだけじゃない」


 言うと、リゲルは今度は両手を緑に輝かせた。

 そして、その両手を思い切り振り上げると、辺りに満ちていた霧が風で吹き飛び、遥か頭上では雲にぽっかりと穴が開いたのだ。

 穿たれた雲の中からは日の光が差し込み、濡れた広場を照らす。

 空気に干渉するこの力は風の魔法の性質だ。

 だが、局所的とはいえ天候まで変えるのは並の使い手には不可能な芸当だった。

 少なくとも、ボリスはここまで力のある魔法使いを見たことが無い。

 しかも、この男はどう見ても『有神人種』ではないのだ。

 魔法が使えず、多くが奴隷として扱われる異人がこれだけの力を持っていることは、ボリスやユキは勿論、この列強に生きる人間なら誰もが驚くべきことだった。

 しかし、そんな奇跡を起こした当人は、やはり飄々と笑みを浮かべながら、大した事ではないという様子だった。


「うーん……子供たちからの羨望の眼差しは悪くないがね。この程度なら、その気になれば君たちにもできるようになるのだよ、ボリス君」


「え?」


 ボリスは信じられない、という顔をした。

 しかも今、リゲルは「君たち」と言ったのだ。

 そんな言い方をした以上、リゲルはユキにすら魔法を習得させる術を持つ事になる。

 この列強で『有神人種』と『神なし』の奴隷を分ける基準はわかりやすい。

 ユキが、彼女でなくとも『神なし』と呼ばれる人々が魔法を使えるようになるのがどんな意味を持つのか。それはボリスにもよくわかっていた。


「私は、君に魔法が使えない原因に心当たりがある。解決法も知っている。現に私も『有神人種』ではないが、この通り魔法を使えるだろう? これが証拠さ。だがお察しの通り」


「……危険な知識、なのですね」


「うん、下手をすればこの社会を丸ごと転覆させかねない、危険極まりない知識だ。だからこそ心正しく、秘密を守れる人にしか教えることができないんだ」


 下手をすれば社会を転覆させる知識。確かにそれはそうだろう。

 ボリスは座学が得意ではないが、頭が悪いわけでは決してない。

 奴隷が魔法を得て、その身分から解放されることで、この国を襲うであろう問題がすぐにいくつか想像できた。

 考え込むボリスを見て、リゲルは何やら満足したように微笑むと、


「……君が賢い子で良かったよ」


「え?」


 思慮深い少年をもう一度褒め、その上でなお、提案を重ねたのだ。


「確かに私が伝えるのは危険な知識だ……だが、決して悪ではない。危険性を知って正しく使う限り、この知識は君の力になる。そして何より、この知識との出会いは、君にとっての幸運になると思う」


「幸運……」


「そう、幸運。君はそれが無かったためにずっとうだつが上がらない思いをしてきた。どんなに強い翼をもつ鳥も、風が無ければ飛ぶことができないだろう? それと同じさ。そして」


 リゲルは次いで、黙って話を聞くだけだったユキを見た。


「残念ながら誰にでも教えられるものではないけど、私は出来るだけ、多くの人にこの知識を持っていてほしいと思っている。これは私の同族を……例えば、ユキさんを奴隷身分から解き放つ事さえできるものだからだ」


「……!」


 この列強で『有神人種』と『神なし』の奴隷を分かつ基準は単純だ。

 即ち、魔法が使えるか否か。

 ユキが魔法を習得すれば、彼女は奴隷ではなくなる。

 少なくとも今日のような理不尽な仕打ちを受ける事は、もうなくなるのだ。

 ただ、それは同時に、彼女がボリスの個人的な所有物ではなくなることも意味する。

 ボリスにとって、それは得も言われぬ寂しさを覚える事だったが、彼の気持ちを読んでいたリゲルは、さらに続けた。


「……時にユキさんはどうだい? 君は、奴隷じゃなくなったら、独立してボリス君から離れるかい?」


「そんなことっ! ユキは、一生ご主人様についていきますっ」


 ユキは勢いよく首を横に振った。

 彼女にはどうせ身寄りもないし、そうでなくともボリスへの想いは本物だろう。二人の間に単なる主従以上の感情があることは、出会って間もないリゲルにも簡単に察せられた。


「……だそうだ。少なくとも、彼女が君から離れる事はないけど、どうだね?」


「………」


 答えのわかり切った意地の悪い質問だったが、それでもボリスの迷いを振り切るにはこの上ないものだった。

 ボリスはしばらくユキと見つめ合い、


「……母上には秘密、だな」


「はい、ナイショです。二人だけの……」


 そうして、二人で微笑みあった。

 あの母はどうしてか、リゲルには二度と会わないようにと言っていた。

 だが、彼との出会いはきっと運命だろうと、ボリスは直感していたのだ。

 今この時の決断が、自分の将来を大きく変えるだろう、と。

 母を欺くのは少し心が痛んだが、ユキが口裏を合わせてくれれば間違いはない。

 信頼できる傍仕えとの短い確認が済むと、


「……あと一つだけ、構いませんか」


 ボリスはもう一つの質問をリゲルに投げかけた。

 それは思慮深い戦士の子が、最後の覚悟を決めるための一押しだった。


「その知識を得れば、俺は強くなれますか。ユキを守れるくらい」


 ボリスの問いに、リゲルは微笑んだ。

 この少年の脳裏には、いつでもユキの姿があるらしい。

 この国では取るに足らない筈の奴隷の少女を、これだけ大切にしているボリスの姿は、同じく『神なし』の人種であるリゲルにはとても好ましいものだった。

 だから迷わず手を差し伸べ、最後の言葉を言うことができたのだ。

 ボリスの運命を大きく変える、決断への言葉を。


「それくらいは、保障できる。絶対だ」


 ボリスは微笑むと、ユキと共に立ち上がった。

 かくして、ボリスの心は決まったのだ。

 雲間から差し込む光の中、


「この出会いは、きっとお互いの幸運だ。これからよろしく、ボリス君」


「こちらこそ。リゲル先生」


 傷付いた逞しい手が、学者の細い手と固い握手を交わした。


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