10話
ボリスは魔法こそ使えないが、その分体格も、身体能力も学び舎で一番だ。
小柄な悪ガキ二人を跳ね飛ばすくらいわけはなく、細身のノロ相手にその拳は強烈の一言。
ノロと取り巻きたちは揃って地面に尻もちをつき、解放されたユキは急いで主人の背中に隠れた。
「ご主人様、ごめんなさい。ユキは」
「そんなのいいから。怪我、ないよな?」
「は、はい」
「なら、良し……ほら、着る」
ボリスは、ユキと目を合わせようとしなかった。
怒っているのではなく、単に目のやり場に困るのだ。
ボリスは純情な少年だ。一緒に暮らしているとはいえ、ほぼ一糸纏わぬユキの姿は刺激が強いらしい。
濡れた肌をできるだけ見ないようにしながら、ボリスは後ろ手に上着を差し出し、ユキに着るよう促した。
ユキも自分の状態に気付いたのか、恥ずかしそうに頬を染めながら上着を纏ったが、面白くないのは悪ガキたちだ。
『落ちこぼれ』から拳で灸をすえられた末に、折角の見世物に目隠しをされた彼らは、見るからに憤慨した様子で立ち上がった。
「ボリスお前、何しやがる!」
「うるさいっ、こっちのセリフだこの下衆が! 抵抗できない女子にこんな真似を……男の風上にも置けない奴め、恥を知れ!」
ノロの抗議に対し、ボリスはいかにも武人然とした口調で言い返した。
勿論、誰が聞いてもボリスの言に分があるのだが、不良にそんな道理は通用しないものである。
正論を突きつけられてなお態度を変えることなく、ノロは取り巻きに指示を出して三人で二人を取り囲んだ。
「そいつは今、俺たちのオモチャなんだよ。『神なし』崩れが、奴隷を庇って俺に逆らうなんて何様だ、返せ!」
「オモチャだとぉ……!?」
ボリスの額に青筋が浮かんだ。
彼にとってユキはたった一人の配下であり、家族だ。
父が女性を大切にする質だったため、ボリスも彼女を慈しみ大切にしてきた。
それをこうも蔑ろにされれば怒らずにいられなかったが、この社会においてはノロの言い分にも理があるのだ。
ボリスの反撃に逆上しながら、ノロは甲高い声で叫んだ。
「当たり前だろうが、奴隷はモノだぞ。お前みたいに普通のガールフレンド扱いする方がおかしいんだよ! モノってのは俺たち人間が快適に過ごすためにあるんだ。気持ち良くなるために嬲ってもいいし、気に入らなければ殺しても自由なんだ。それを使って遊んで何が悪いってんだぁ!?」
およそ神職の息子とは思えない発言である。
ボリスから言わせれば理不尽を通り越して正に下衆の言い分だが、取り巻き二人は一様に頷き「そうだ、そうだ!」と口々に叫んでいる。
どんなに非道に見えても、この国、この社会では彼らの言っていることが正しいのだ。
ボリスは武人の子である。決まりに忠実であることは戦士の倣いであると、亡父から何度も言い聞かされてきた。
なので『社会の常識』を盾にされれば弱かったが、だからと言って引き下がるわけにもいかない。ボリスはいつものように勇ましく叫んだ。
「例えそうだとしても、お前なんかにユキを渡すものか。言い分がどんなに正しくても、人の大事なものを平気で奪うお前たちは犯罪者だ! 亡き父に代わって、俺が懲らしめてやる!」
生真面目も良い所な口上を並べながら、ボリスは再びノロに殴り掛かった。
だが、哀しいかな相手は犯罪者崩れの不良の群れである。正々堂々と殴り合いに付き合ってはくれない。
駆けだすや否やボリスの側頭部に、固いものがぶつかった。
「……っ!?」
視界に星が散り、足元が崩れる。
揺らぐ視界で衝撃の出処を見れば、地面には丸い小石が落ちていた。
更にその向こうには、黄色に輝く手をかざした取り巻きの片方が、ほくそ笑みながら膝をついたボリスを見つめていた。
「ご主人様! ずるい……!」
横やりを入れたのは土の魔法だ。
辺りの塵をかき集め、小石を作って放つ『石礫』は、魔法で戦う列強の兵士、中でも土の属性を持つ者が基本とする技だった。
死角からの不意打ちを非難するユキに、歯抜けが特徴的な悪ガキは自慢げに技の出処を語った。
「すごいだろ。俺の父さん軍隊だから、教えてもらったんだよ……本当はもうちょっと鋭くして、身体に穴を空けるために使うんだからな? 死んじゃったら面倒だからやんないけど……へへ」
要するに「手加減してやったのだから感謝しろ」と言っているのだ。横やりや不意打ちには、特に思うところもないらしい。
更に、絶句するユキの背後からは、残るもう一人の影が忍び寄っていた。
「きゃ」
「ユ、ユキ……!」
残る一人が再びユキの両脇を捕らえ、拘束した。
ボリスに比べ小柄とはいえ、ノロを取り巻くのはどちらも良家の子息だ。栄養状態もよく、力も強い。
組み付かれれば、華奢なユキでは振り払えないのだ。
ボリスは慌てて彼女を救出しようとしたが、
「ぐ、ふっ」
立ち上がろうとした瞬間、鳩尾に鈍い痛みが走った。
見ると、ノロのつま先が食い込んでいる。
痩身のノロの蹴りは然程の威力は無い筈だが、どんなに鍛えた人間でも急所を打たれれば痛いものだ。
ノロは身体を鍛えてはいないが、人間を殴るのには慣れているのだ。どこを殴れば相手が痛がるのか、散々奴隷をいたぶってきた彼はよく知っている。
痛みに悶えるボリスを楽しそうに見下ろしながら、ノロは耳障りな高い声で続けた。
「お前ら、その奴隷抑えとけよ。後でお仕置きしなきゃだからな……でもその前にお前だ、落ちこぼれ」
「ぐ……!」
ノロはいつものように指先に火を灯すと、それをボリスの首に押し当てた。
取り巻きが言うように、殺人は言い逃れできないので致命傷になるようなことはしない。火を押し当てるのはほんの一、二秒だが、それでもボリスの首にはすぐに真っ赤な焼き跡ができた。
ノロは元々嗜虐的な趣味の少年だった。
最初は虫を捕まえていたぶる程度だったが、火の魔法が目覚めてからは奴隷を火で炙り、もがく様を見るのが癖になっていたのだ。
ボリスはそのことを知っている。
悲鳴を上げても、止めるように抗議しても、相手を喜ばせるだけだ。
だから肌を焼かれても少し呻くだけで、ノロの興が削げるまで耐えるのが常だった。
やられる方は慣れっこだったが、余人が静観を決め込むにはあまりにも惨い絵だ。
痛々しい主人の様子に、捕まったユキは涙を流しながら喚いた。
「やめて、やめて! 悪いのはユキでしょう!? 謝りますからご主人様をいじめないで!」
これはノロたちには逆効果だ。
悲痛に叫ぶ少女の様子を見て、残酷な悪ガキたちはますます興が乗ったらしい。
ノロはボリスの腹をもう一蹴りすると悠々と傘を拾い、光る右手を雨から守りながら今度は拳大の火球を掌に浮かべた。
「いい声で鳴くなぁ、アイツ……ますますお前には勿体ねぇよ。顔だけじゃなく喉も焼いてやりたいところだけど、それやると死んじゃうからなぁ……」
「お、お前……っ!」
卑劣そのものなノロの言葉に、ボリスもとうとう殺気立った声を出し始めた。
一応、殺す気はないようだが、この悪ガキは命を慈しむ質ではない。
単に後で自分が叱られるから、権力で握り潰せない問題は起こさない。ただそれだけの事なのだ。
万引きは目撃者がいないから糾弾されない。だがユキを殺してしまえば、ボリスは自分たちが犯人だと知っている。
奴隷とはいえ、殺してしまえば流石に言い逃れはできない。訴えられるのが嫌だから、殺さない。彼らの道徳観は、どこまでもその程度だった。
逆に言うと、死ななければ良い。
死ななければどこまでも子供の喧嘩だ。
教会相手に事を荒立てたくない大人たちは、思うところがあってもそのように事態を治めるのだ。
悪賢いノロはそれをよくわかっている。
そうして放置されてきたからこそ、このような卑劣な人格が形成されたのだ。
しゃがみこんだノロはボリスを見下ろしながら、更に深く表情を歪めた。
「そうだ、歯を全部抜いてやろう。お前の髪を燃やした後でな」
雨の空には、いつしか雷鳴が響き始めている。
稲光に照らされたノロの顔は、ボリスとユキの目には悪魔の嘲笑に見えたくらいだった。
魔法の火球がボリスの顔に近づき、前髪の先が焼けた、その瞬間。
「……っ!?」
その場にいた全員の視界が明転した。