雨の日に。傘を差さずに。
一歩進むたびに、水のはねる音がする。いつもなら雨水がズボンの裾やバッグに付いて億劫になるが、今日の足取りは軽い。季節は梅雨に入りどんよりした空気が漂う中、僕の気分は絶好調だった。
(何故かって? 大学の定期試験が終わったからさ。)
そんな僕の気分とは裏腹に、頭はグシャグシャで服はびしょ濡れの何ともみすぼらしい雰囲気を醸し出していると、傘を差してゆっくりと歩く年配のお婆さんが前を通りかかった。
僕に気づくと、不思議そうな顔でこちらを見る
「おゃまぁ。どうしたんだいそんなびしょ濡れで。」
確かに僕は端から見れば変質者だ。見るからに普通の大学生の僕が、傘を持っているのに差さずに街を歩いていたら・・・。
・・・最近大学生になって思うことは、やはり学生服など無い身分となったのは嬉しいのだが、着る服を選ぶのが面倒なのに、社会人として見られる機会が増えたことが、逆に僕を圧迫しているんじゃ無いかということだ。
大学生になれば好き勝手できる。そう思っていたかつての自分が恨めしい。社会が近づけば近づくほど、人は常識にとらわれるものだと言うのに。そんなことを高校生の僕に言ったら、怒らせてしまうだろうけど。
ハッとして前を見ると、そこにはおばあさんがまだ立っていた。
親切なお婆さんは僕が物思いにふけっている間、ずっと僕の言葉を待っていたようだった。
「すみません、考え事をしていて。えと、何だったかな。あぁ、何で傘を差していないのかでしたっけ。それは、僕が、傘を差したくないからです。」
つとめて、僕の本心であることを伝えられるように言う。
そう言うと、お婆さんは微笑んだ。その微笑みには不思議と哀愁が漂っている。
「私の夫がね、傘を差さない人だったのよ。どうして傘を差さないのか、って尋ねると決まって、傘を差したくないって言うの。
でもね、私が若い頃は、女性は男性に傘を渡しに行くものだったのよ。だから私が傘を差して下さいって言うと、いつも困った顔をして受け取っていたわ。
それでも、傘は閉じたままだったけど。だから、私はいつも一緒に雨に濡れて帰ってた。」
雨音で途切れそうなその言葉は、僕の頭に強く響いた。
「風邪をひかないように気をつけるのよ。」
お婆さんはそう言うと、傘を閉じて歩いて行った。
強くなった雨足で滲んだお婆さんの背中は、不思議と、儚く見えた。