第三話
赤はポストの色。明るい色で、熱そう。お気に入り。とても目立つ色。
緑は森の色。穏やかな色で、吸い込まれてしまいそう。
青は彼の傘の色。爽やかで、涼しそうで、彼にとてもよく似合って……。
そこまで読んで、私はどうにもむず痒くなって目をつぶった。教えてもらった色を忘れないように、私は細かくメモを取っていた。彼と会うたびに、メモの数は増えていった。だけど、これはあんまりだ。恥ずかしくなって、私は誰にも見られないように机の奥深くにメモを仕舞い込んだ。
もうそろそろ出かけなくては。私は自転車に跨ると、白黒の坂道を駆け上り学校へと向かった。途中塀の上であくびをしていたまだら模様の猫に、笑顔であいさつをする。冷んやりとした朝の空気が、頬をなでとても気持ちがいい。『朝の空気が気持ちいい』だなんて、こんなことは、今までは考えられなかった。
不思議だ。
前までは何とも思っていなかったモノクロの通学路も、このところ何故だか華やかに思えて仕方がない。凹んだガードレール。脇道に佇むお地蔵さん。コンビニの看板に、駐車場に止まったトラックの群れ。全部いつもと同じ景色だ。いつもと同じ景色なのに、何かが違って見えた。
すれ違う知らない人でさえ、彼の着ていた服を思い浮かべながら、この人には一体何色が似合うんだろう、と考えるのが楽しかった。あれほど殺風景に見えていた世界が、実はこんなに鮮やかなものだったとは。きっと、彼に色を教えてもらったおかげだ。私はいつもと同じ景色を、いつもと違う気分で駆け抜けて行った。
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「やっぱり、沙彩ちゃん最近何か楽しそうだね?」
朝課外の時間になると、来月から始まる高校受験の事前準備の要領プリントが、前の席から回ってきた。前の席の女の子は、私を振り返りながら不思議そうに首を傾げそう聞いてきた。そんな問いかけにも、私はにっこりと微笑み返すことができた。これには自分が一番驚いた。私って、こういう時でも笑えるんだ。そんな自分が少し誇らしかったし、何より嬉しかった。
不思議だ。
何よりも不思議なのは、彼だった。
どうして彼はいつも、公園にいるのだろう?
一体何故、彼にだけ色が見えるんだろう?
どうして彼は、こんな見ず知らずの私に構ってくれるんだろう?
まだ名前すら教えてもらってなかった。住んでるところも、通っている学校も。何もかも知らないまま、あれから一月が過ぎようとしていた。彼について知ってることと言えば、いつも平日の夕方になると、毎回公園の同じベンチに座っている、ことくらい。
彼のことが知りたくない、と言えば嘘だった。だけど、彼が離れていったりするのはもっと嫌だった。彼と、彼を通して見えるこの世界の『色』を失うのは、私には怖いことだった。私は窓から灰色の空を見上げた。どんよりと重たそうに空を覆う雲は、午後から雨を連れてきそうな、そんな暗さだった。今日は公園にはいけないかもしれない。そう思うと、何故だかどんどんと憂うつになってきた。
……白黒の世界に戻るには、私は『色』を知りすぎたみたいだ。
そしてその日は、何の前触れもなく突然やってきた。
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土曜日の朝。
ベッドから体を起こしカーテンを開けると、晴れ上がった真っ白な空が窓の向こうに広がっていた。私はそれを少し恨めしげに見上げた。昨日は結局、雨のせいで公園に行けなかったのだ。
私は一階に下りお母さんが用意してくれた朝食を食べ終わると、読みかけの本を持って近所の高校生や大人が良くいるようなカフェに出かけた。『カフェ』だなんて。そんなオシャレで人が集まりそうな場所なんて以前の私なら迷わず避けて通るところだが、彼がここが好きだと言ったので、何となく私も好きになりたいと思ったのだった。何ともおかしな話だが、人の好き嫌いなんて案外そんなものかもしれない。
約束していた訳ではない。だけど、もしかしたら彼がいるかもしれない。そうしたら、また新しい色を教えてくれるかもしれない……。そんな淡い期待を抱きながら、私はカフェに足を踏み入れた。午前中とは言え、土曜日の店内は思ったより人で賑わっていた。穏やかなBGMが流れる店の中を見渡してみる。彼の姿はなかった。私は仕方なく灰色のモカを注文し、窓際の席に腰掛けた。
三十分くらい経った頃だろうか。
店の扉が開き、突然、モノクロの世界がパッと明るくなった気がした。白と黒の世界に、淡い藍色が入り込んできた。彼だ。色の見えない私にはすぐにそれが分かった。思わず顔を綻ばせ、声をかけようとして……私は椅子から腰を半分ほど宙に浮かせて、そこで固まった。
店にやってきた彼は、一人ではなかった。
彼の隣にいるのは、私の知らない女の子だった。白黒の私でも一目で分かる、とても綺麗な女の子。それよりも私の目を釘付けにしたのは、彼の見たこともないような嬉しそうな表情と、ほんのりと頬を染める紅い『色』だった。
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そこから先はよく覚えていない。
気がつくと、私は店を飛び出し、自宅へと舞い戻っていた。ベッドに寝っ転がると、そのまま枕に顔を埋め呼吸を整えた。胸の奥がキリキリと痛かった。
彼に見つからなくてよかった。
彼に会いたかったはずなのに、色を見たかったはずなのに、何故だかそう思っている自分がいた。今はもう、何も考えたくなかった。『赤』はお気に入りだったはずなのに、何故か今はそうは思えなかった。
白と黒の部屋が、私の目から溢れ落ちる透明な色で滲んで見えた。