第一話
信号機が『黒』から『白』に変わって、止まっていた人の波が一斉に前へ前へと流れ始める。
その流れに置いて行かれないように身を任せ……私はふと、横断歩道の真ん中で立ち止まった。急に立ち止まった私のせいでせき止められた人の波が、時々背中にぶつかりながら左右に分かれていく。その勢いに押し流されないよう軽く足を踏ん張りながら、私はなんとなしに空を見上げた。
目の前に広がる、どんよりと曇った『灰色』の空。相変わらず私の眼に映るこの世界には、『色』がない。
□□□
「おはよう」
「おはよ……」
「おはよー!」
教室の片隅で『灰色』の空を眺めていると、眠たげな同級生の声が聞こえてきた。昨日の歌番組がどうだったとか、ドラマがどうだったとか、名前も知らないクラスメイト達の気怠げでどこか楽しそうな声。先生が来るまで後十五分はある。私はできるだけ顔を動かさないように空を眺めたまま、残り時間を数えながら黙って椅子に座っていた。
別に仲が悪いわけでもない。いじめられてるわけでもなくて、ただ『仲が良くない』だけ。何となくきっかけが掴めないまま、気がつけば新学期が始まって三ヶ月が過ぎて皆が友達の輪を作っていく中、私だけが輪っかの外側に置いてけぼりになっていた。もしかしたら私も私で、他の人と同じように『色』が見えないから、無意識に壁を作っていたのかもしれない。
生まれつき、私には『色』というものが見えなかった。
空が『青』いねと言われても、林檎が『赤』いねと言われても、私にはそうは見えなくて、頷くことができなかった。住んでいるマンションの狭い窓から見下ろした街はいつも真っ白で、真っ黒だった。生まれた時からそうだったし、別にそれでも構わないと思っていたが、幼稚園を卒業する頃、父と母がそのことで喧嘩しているのを聞いて以来、私はそれがダメなことなんだと知った。
これって、本当は皆何色に見えているんだろう?
中学に入った今、毎日ずっとそんなことが気がかりでしょうがなかった。私の目には全部白か黒、あるいはそれを混ぜ合わせた『灰色』しか映らない。どこを見渡しても何だか味気ない、霧がかかったようなぼんやりとした世界だ。皆と同じものを見ても、私だけ違う色を見ているのだと思うと何だか心から笑えなかった。きっと私が普段から伏し目がちで、皆のように楽しそうじゃないのは、世界に色が無いせいかもしれない。
「沙彩ちゃん」
先生が教室に来る五分前。クラスメイトの一人が私に近づいてきて、声をかけてくれた。そんなことは滅多にないことだったので、私は内心飛び上がった。
「今日の放課後、皆でボウリング行こって話になったんだけど、沙彩ちゃんも来ない?」
名前も知らないクラスメイトは、艶のある髪を輝かせ白い歯を浮かべてそう言った。私はぎこちなく笑みを返した。声にならない嗚咽とは裏腹に、心は舞い上がっていた。
今日こそ皆との壁を越える、チャンスかもしれない。
□□□
黒い木々が揺れるモノクロの公園を、宛てもなくぶらぶら歩いて行く。すれ違う人々の楽しそうな白い笑顔を、私は暗い無表情で見送った。
いっそのこと白も黒もこの世界からなくなって、私ごと透明になってしまえばいいのに。
そう思わずにはいられなかった。
ボウリングは、散々だった。
三人づつに分かれて、私は辛うじて名字が言えるくらいの仲のクラスメイト達と同じチームを組んだ。今思えば始める前から、私は怖気付いていた。ボウリングをやったことが無いわけではないが、決して得意と言えるような技量もなく、足を引っ張るだけではないか……という不安は的中した。
最後の最後、勝負を決める最終フレーム。よりによってその順番は私に回ってきた。ただでさえ色が見えないのに、奥に並ぶピンが暗がりに隠れ、私は全く気づいていなかった。結果、ふらふらと転がったボウルは前の方の三つを倒しただけで終わった。
今日だけで、「ごめん……」とクラスメイトに何度頭を下げたのかも分からない。「気にしないでいいよ」と言ってくれた彼女達の慰めの言葉が、何だかとても遠くから聞こえてきた。私の周りを見えない壁が囲んだようになって、息が苦しかった。たかが放課後のレクレーションですら、役に立てやしないだなんて。同じように楽しむことすらできやしないだなんて。私の世界が、白黒だったからいけなかったんだ。彼らと一緒にいたいと望んだ自分が馬鹿だと思った。結局、壁は壁のままだった。
すれ違う人達を避けるように、公園の片隅を歩く私は、ちゃんと平気な振りが出来てるだろうか。やがて私は、気がつくと公園の真ん中にある真っ白な噴水に辿り着いていた。
「!」
そこで私は見た。
初めての『色』を。
真っ白な噴水の前のベンチで、淡いジャケットを羽織って本を読んでいる、同い年くらいの男の子。柔らかな微笑みを浮かべる彼から、私は目が離せなかった。何てったって彼は、『白』と『黒』以外の色をしているのだから!
「……!」
初めて見た『色』に、私は一目で胸を鷲掴みにされた。頭をバットで殴られたかのようにフラフラになりながら、何も考えられないまま私は彼に歩みよった。
「あの……」
顔面『黒白』の私が声を振り絞ると、彼は目を丸くして本から顔を上げた。その柔らかな肌の色に、思わず目を奪われる。これが皆が言っていた、例の肌色というものなのだろうか。触ったら、怒られるだろうか? 風に流される髪は、太陽を反射して白く光って見えた。彼の髪の色は黒じゃなかった。一体何色って言うんだろう? 聞いてみたかったが、失礼なような気がして私はぐっと堪えた。透き通るような瞳の中の黒でさえ、今まで私が見てきたどんな黒より美しかった。私は彼から目が離せないまま、気づかれないように息を飲んだ。
「どうかした?」
ふと噴水の横を、白と黒のおじさんが同じくモノクロの犬を連れて通り過ぎて行った。彼は小首を傾げて私にそう尋ねた。私は辺りを見渡した。相変わらず公園は、味気ない白と黒だけだった。少し顔が熱くなるのを感じつつも、私は小さく頷いた。
どうかしたってもんじゃない。貴方が一体どうした。一体どうして、彼だけが、色づいて見えるんだ?
それ以来私は放課後になると、モノクロの公園の、真っ白なベンチの前へと通い始めた。毎日のように変わる彼の服を見るのが、私は楽しみで仕方がなかった。不思議なことに、『白』と『黒』が覆う私の世界で、彼だけが、淡い光のような色を灯して見えた。