7話 First contact
「お世話になりました」
「兄さん、見つかるといいな」
どうせいつかは、出て行かないといけない。
「またどこかで、会えることを祈ってるよ」
「食料まで分けてもらって、本当に感謝しています」
「本来なら、警察として君を引き止めないといけないんだがな。もう俺たちの規範や法律は、意味をなさなくなっちまった」
ルールが無くなった今、自分を守れるのは自分だけ。
「兄さんを見つけたら、みんなでここに戻ってきたっていい。無事でいろよ」
「はい」
名残惜しいと言えば、名残惜しい。短い間だったが、心の支えになってくれた場所だ。
「では」
「ああ、死ぬんじゃないぞ」
那槻ちゃんの手を引いて、市役所を出た。連れて行くのは無謀かもしれない。それでも、俺にはこの子が必要になる気がする。
「行こう、お父さんたちを探しに」
「……はい」
まだ少し眠たそうだが、寝かせておけばキリがない。
「一回、家に戻ろうと思う。役に立つものもあるかもしれないし」
こくん、と頷く見慣れた動作。一緒に過ごして何日もたつが、まだ心を許してもらえていない気がする。
「できるだけ安全なルートを通りたいけど……」
偶然見つけたスポーツショップに目を引かれた。
「バット一本……」
語呂が思い浮かばなかった。とにかく獲物が欲しい。
閉店後に逃げ出したのか、表のシャッターは下りているが横のガラス張りなら、何とかなるだろう。
「問題は音と、倫理的にどうよってことね」
この幼い女の子の前で強盗まがいのことをしていいものか。
「さ、行こうか」
やめておきましょう。音につられて群がってきたりしたら、逃げようがない。
兄貴の家は、鍵をかけずに出たもののほとんど変化はなかった。強いて言うなら、少し埃っぽい気がしないでもない。
「なんか取ってきたいものがあったら、持ってきてもいいよ」
こくん、と頷く動作に少しだけ元気が戻った気がする。家にいるってことに、安心するんだろう。
「兄貴、すまんが食料品とリュックを借りるぞ」
ここに戻ってきた形跡もないし、連絡もない。どこかにいるのか、それとも……。
「懐中電灯と、バットとかないのか。バットとか、バットとか」
別にバット中毒というわけではないケド。何か手に持ちたい。安心感が欲しい。
バットは無さそうなので、工具を探す。バールとかレンチとか。正式名称は分からないが。
「意外とないもんですね……」
兄貴、車持ってないしなぁ。腐っても三大都市圏である以上、公共交通機関が有能なのだ。
そんなことを考えていると、悲鳴と、ガラスが割れる音が響いた。
――アレか。
察した瞬間、体は動いていた。
押し寄せる手の震えを止めることもできず、階段を駆け上がる。足がもつれて倒れそうになるのを、必死にこらえた。
「那槻ちゃん!」
「あ……あ」
泣き叫ぶことさえできない彼女は、ただ後ずさるのみ。
そしてその視線の先には、人をやめた感染者がいた。
醜悪な表情と、漂う悪臭は判断を遅らせるのに十分だ。摑みかかる手から、必死に小さな体を引き離す。
倒れる際に椅子に足を引っ掛け、派手な音と共に机の上の――那槻ちゃんの私物だろうか――文房具が散らばる。
焦りに巻きつかれた体は言うことを聞かず、抱きかかえたまま無様に寝転ぶ結果になった。我武者羅に蹴り出した足は空を切り、感染者の汚れた手に捕まった。
「逃げろ!」
抱えた小さな体を、強引に部屋の外へ押し出す。
「逃げろって!」
叫びも虚しく、涙を流すことさえ忘れたその体は、力なく床に伏せている。
上から振り下ろされた手を、必死に抑えて呼びかけるが、反応はない。
――あの子を、死なせるのか?
生きている方が、辛いかもしれない。それでも。
目の前で人が死ぬ。恐怖に飲まれ、人に殺される。そんなのはもう、ごめんだ。
――抵抗した結果が、どうだったとしても。
もがいた左手に握ったのは、一本のボールペン。
何と叫んだのかは、俺にも分からない。
「あの……」
「ああ、大丈夫か?」
大丈夫な訳はないけど。
「ありがとう、ございました……」
「……いいよ、お礼なんて」
「私……」
「気にしないで。兄貴には世話になってたんだ」
借りを返す頃合いってこと。そう思うことにした。
「だから俺は、君に生きていてもらわないと困る」
諦めないでほしい。
「逃げろって言ったら、何があっても逃げるんだ」
「……はい」
難しいよな。分かってる。
「……ゴメンな。危険な目にはあわせないなんて言っておいて、もうこれだ」
小さく首を振ってくれる。優しい子なんだろうな。でも残念ながら、人には出来ることと、出来ないことがある。
「それで、さっき私の……部屋で」
「なにか?」
「メモが、一枚……」
メモ、書き置きか?
「見せてもらえる?」
受け取ったプリンタ用紙には、短い文章が打ち込まれていた。
『浜名湖で、待ってる』
……誰だ?