2話 Beginning
ぶるぶるぶる……ケータイのバイブレーションに起こされた。
「あれ……寝落ちしてた」
知らない天井だ、とはならなかったけど。うつらうつらとしてたみたい。
膝の上はまだあったかい。
「見ず知らずの人を枕にして、よく寝ちゃってまぁ……」
無邪気なもんだな。兄貴もかわいいんだろうなぁ。
「それにしても、時間は……」
午後7時半。兄貴が出たのは6時前だったはず。
突然嫌な胸騒ぎが起こった。すぐにケータイから兄貴の連絡先を開く。
「新着メッセージ……兄貴からか」
件名なし。本文は。
――那槻を連れて、すぐに逃げろ。
逃げろ。どこへ?返信を返す。慣れたはずのフリック入力すらもどかしい。
――何が起こった?
――まだ分からない。とにかくにげろ。人の多そうなところは避けろ。
だいぶ焦っているな、兄貴。
――日和さんは?
……既読がつかない。
状況がわからない、何か情報を。
那槻ちゃんの頭をそっとソファに降ろし、テレビをつける。テロップが上を埋めていた。
「ウイルス性、感染症……?」
詳細は不明……だと?しかも、この家の住所は、避難勧告出てるじゃねえか。
「兄貴のイタズラにしては大々的すぎるな」
例によって研究所の事故、だろうか。映画やゲームならありがちなパターンだが、現実で起こればゾッとしない。
「避難所でもあれば……」
兄貴からの返信はまだ来ない。とりあえず、那槻ちゃんを起こさねば。
「那槻ちゃん、那槻ちゃん……」
こんな時にこんな顔でよだれ垂らして寝ちゃってもう。
「起きて、大変なんだ」
へくちっ。かわいらしいクシャミと同時に眠り姫が起きてくださった。
「外出用の、できるだけ暖かい上着を着るんだ」
「え、え……と、なにが、起こって……」
混乱するのも無理はない。できるだけ怖がらせたくはないけど……。
「何か大変なことが起こってるみたい。まだよく分からないけど、お父さんたちが帰って来れないみたいだから」
ああやばい、泣きそうになってる。そりゃそうだよな。いきなり親が帰って来れないなんて。しかも一度父親を失ってる子だ。
「大丈夫。俺が連れて行くから。だから、落ち着いて……寒くないように上着を取ってくるんだ」
こくん、こくん。パニックになりかけてるけど、一応うなづいて動けるなら大丈夫だろう。
夜中のゾンビパンデミックか。嬉しさで発狂しそうだ。
「懐中電灯は……最悪ケータイのライトか」
食料品も何かあればいいが、時間が惜しい。
「持って、来ました……」
仕事が早い。自慢の姪です。
「オッケー。すぐに出るよ。絶対に俺から離れないで」
こくん。震えてるけど、仕方ない。不安でたまらないのは俺だって同じだ。
――どこかで、楽しんでないか?
そんな自問が一瞬頭に浮かぶが、すぐに消えた。
「鍵かけれないけど、恨むなよ兄貴」
外は真っ暗だ。離れないよう、那槻ちゃんと手を繋ぐ。小さい手でも、ないよりは遥かに安心を与えてくれた。
まずは闇夜に目を慣らさなければ。
いつの間にか、雨は止んでいた。
「みんな避難し終わったっての……?」
あたりに人影は見当たらない。明かりのついている家もあるが、人の気配はない。慌てて出たのだろう。
兄貴曰く、人の多そうなところを避けろと。『感染者』に出会うリスクを減らそうってことか。
「せめて、どこに向かってるかぐらいは教えて欲しかった」
兄貴は日和さんを迎えに、駅へ向かった。そこで恐らく、遭遇して、逃げながら俺に連絡を入れた。
「駅からそんなに離れてない……てことは」
ケータイのマップを開く。
「……市立文化ホールか」
高校合唱コンクールの開催場所だ。一応災害時の避難場所にもなっているはず。機能しているかは分からないが。
「……お兄ちゃん」
いつの間にか足にしがみついている。
「ん、どうした?」
「あそこに……誰か、います」
背筋に震えが走り、指差した方を見る。確かに人影だが、あれはヤバい。下を向いて、うなだれているなんてモンじゃない。歩行動作も間違いなく、普通の人間ではない。
「静かに……音を立てちゃダメだ」
幸い俺たちの目的方向とは逆だ。そーっとお引き取りさせていただくとしよう。
ゆっくり、ゆっくりと那槻ちゃんを抱き上げる。小柄な子でよかった。
「しがみついて、目を閉じて。声を出さないように」
耳元で囁く。文字通り、しがみついてくる。静かに一歩ずつ、音を立てず、地面を揺らさないように歩く。
(これでうまくいけば、いいんだけど……)
ちらりと後ろを見ると、それはこちらに向き直っていた。偶然、民家の防犯灯に照らされ、人を辞めた肉体が浮き彫りになる。
息を呑み、背筋が凍る。顔の判別はつかなかった。
声を出さないよう、必死に息を止め、静かに足を動かす。現実なんだ、と言い聞かせなければ、叫び出してしまいかねない。
走って逃げ出したい気持ちを抑え、一歩ずつ進む。爪先に小石が触れるだけで、飛び上がるほど心が乱れる。
視界は狭いのだろうか、追いかけて来ることはしなかった。気づかれていなかったのが、救いだ。
「もう大丈夫……って」
すやすやと、腕の中でお眠りになっておられる。
「参ったな。持ち歩きしろってか」
軽いから無理ではないけど。無邪気な寝顔を見てると、起こす気も失せる。仕方ない、抱えて歩くか。
目的地までは、マップによれば後17分。明るさを抑えたケータイの液晶が、誰よりも頼り甲斐があった。