1話 A Happy Home
「トロッコ問題って、知ってるか?」
ある日不意にクラスメイトの一人、藤堂 圭は言った。
「いきなり何の話だよ」
その時俺は、久しぶりに会いにいく兄夫婦の娘の名前を思い出すのに必死だった。
「昨日見たんだけどさ。トロッコが走ってて、そのまま進むと5人の人が死ぬんだよ」
「管理会社の責任だな」
そういう話じゃないんだ、そう言って圭は続けた。
「それで、お前はレバーを使ってトロッコの走る方向を変えれる」
そう、あの娘の名前は……やけに漢字だけ気合の入った彼女の名前は。
「変えた先だと1人の人が死ぬ。レバーを動かせるのはお前だけ。さぁどうする」
「簡単に言うと、1人が死ぬか5人が死ぬかだろ」
個人個人の価値の差は考えないなら、だが。
「そこも大事だが、行動するって言う点が大事なんだよ」
「間接的な殺人だからな」
「そう。5人を生かして1人を殺すか、5人を見殺しにする」
そんなことを考える奴は間違いなく狂人だな。
「答えがない問題ってやつか」
「まぁそうなっちまうわな」
そんなことが俺に分かるもんか。
「お前なら、どうするんだ。圭」
「分かんないから、聞いてんだよ」
お前なら分かるんじゃないかって、そう圭は言った。
そういう過度な期待は、やめていただきたいのだが。
「分かるわけないだろ。俺だってただの高校生だ」
「そっか……天下無敵の涼サマでも無理か……」
「そもそも、ネットで拾ってきた知識を嬉々として語り回すのはやめろ。相手をするのも疲れるんだ」
こいつの場合、特にそれが顕著である。メディアリテラシーとやらを身につけるべきだ。
「へへ、すまんな。面白いと思ったら、話さないと気が済まなくてさ」
「だったらたまには相手を変えろ」
授業開始の鐘が鳴り、今度からはそうするよ、そう言って圭は自分の席に戻った。
――名前、なんだっけ?
記憶の底の姪っ子の姿は、まだぼんやりと霞んだままだった。
「いらっしゃい、涼」
「久しぶり、兄貴」
業後、着替えて向かった兄の家。年は離れているが、実の兄。
「新婚でマイホームとは豪勢なことで」
「お褒めいただき光栄だよ」
5歳も年上の、連れ子持ちの女性と結婚すると聞いた時には驚いたが、まぁ兄貴の勝手だ、精々尻に敷かれて苦しむがよいわ。
そんな風に期待していたのに、嫁さん――日和さんだったか――はとてもいい人だった。義弟目線から見ても、羨ましくなるくらいには。
「義姉さんは?」
「外せない仕事だとか。もうすぐ帰ってくると思う」
「兄貴のメシになんのかい?」
「愛情込めてやるよ」
どうせなら、日和さんの手料理が良かった。
「那槻は家にいる。呼んでくるから、上がってくれ」
そうだ、那槻ちゃんだ。先に言ってくれて助かった。追求されてたら危なかった。
「そうさせてもらうよ」
キレイに整理されちゃってまぁ。昔、一人暮らしの頃の兄貴の部屋に行ったが、酷いもんだった。いい嫁さんで本当に良かった。
上で会話している音がする。連れ子の娘と、うまくやっているんだろうか。下着一緒に洗わないで!とか、もう言われたのだろうか。
「すまん。どうやらご機嫌斜めみたいだ」
「無理に来させることもないだろ。年頃なんだし」
お父さんのいうことなんか聞きたくないって。
「……まだ10だぞ?」
「兄貴も親だねぇ」
「……懐いてくれたと思ったんだがな」
そういうことじゃないと思うけどな。
「父親として認めてるから、嫌がるんだよ」
かわいそうだから適当に慰めてあげよう。
「そうだといいんだけどな……」
「桜と5つ違うだけだ。反抗期みたいなもんだよ」
「妹か子供か分からなくなりそうだ」
「あいつはあいつで、元気にしてるかな。連絡は?」
「無いな。出来ないんだろうけど」
――桜。俺たち2人の妹であり、東京の全寮制中学に通う15歳。校則の厳しさから、兄弟はおろか、親すらめったに会えない。
「お人形遊びに付き合わされた恨みは、死ぬまで忘れねぇ」
「お前は歳が近かったからな……余計に」
兄貴はとっとと外に逃げ出してしまっていた。
「まぁ、会えないと会えないで寂しいような気もするけどな」
「そういうお前も、ちっともウチに顔ださなかったじゃないか」
「日和さんに顔が引けるというか」
新婚家庭に弟とか邪魔じゃないですか。
「気にすることないのに」
そりゃ兄貴はな。
「まぁ、俺もちょっと1人になりたかったから」
「そうか……まぁ、いつでも頼ってこいよ」
そうだな、と1人納得する兄貴は、頼り甲斐のある男だとは思えない。俺に気を使ってくれているのか?
「気を使わなくていいよ。俺はもう受け入れられてるから」
兄貴は何も言わない。言えないのかもしれない。沈黙が痛くて、ふっと圭に聞いた話をした。
「兄貴、トロッコ問題って知ってる?」
「ああ、聞いたことあるぞ」
兄貴に表情が戻り、安堵する。
「どう思うよ」
「そう……だな。確か被害者は自分とはまったく関係のない人に、限定されるよな」
「そこまでは聞いてないけど、多分」
圭の知識はやはり信用できない。
「難しいところだよな。人を単価で数えるわけにもいかないし」
「知り合いがいたなら?」
「そっちを優先しちまうだろうな」
家族を持つと、こういう感性になるのかな。
「俺と嫁さんなら?」
「迷わず嫁だ」
ひでぇや、そう言って俺たちは、久しぶりに男兄弟に戻って笑いあった。
「雨、降ってきたな」
この時期の雨は冷えるな。
「日和さん、傘持ってんの?」
「持ってないだろうな。予報だとくもりだったはず」
「持って行ってあげなよ。俺が留守番してるから」
結婚する前から子供がいたんだ。2人でゆっくり歩く時間も短かっただろう。
「すまんな。折角来てもらったのに」
「いいって」
「那槻に伝えておくわ」
「下りてきたら、俺が言っておくから。ほら行った行った」
嫁さん待たせたら申し訳ないだろ。
「傘は一本の方が風情が出るんじゃない?」
「バカ言え」
相合傘とか、すればいいのに。
「すまん、じゃあ行ってくる」
「どうぞごゆっくり」
……さてと、テレビでもみて待ってますか。
と思ったら、いつの間にか那槻ちゃんが下りてきていた。日和さんに似た、かわいい子だ。
「あ、あの……」
「久しぶり」
兄貴が結婚すると話し出した時に、一度会ったきりだ。
「か、梶木 那槻……です」
めっちゃ怖がられてる気がする。
「初めまして……おじ、さん」
……おじさん。弱冠19歳にして、おじさん。
悲しい、悲しすぎる。
「おじさんは、ちょっとやめてくれ」
「え、あ……ごめんなさいっ!」
いやいや、そんなに謝られても。10歳ってこんなに幼いのか。
「あ、その……お兄さんて、呼んでもらえるかな」
おじさんだと俺の精神がもたない。
「お、お兄……しゃん?」
噛んでる。そんなに怖がらないでくれ。俺が泣きたくなる。幼女恐るべし。
「そーそ、お兄さん。お父さんはお母さんお迎えに行ったから、しばらく留守番してんの」
「お兄……ちゃん」
微妙に違う。なんか危なくなった気がする。世界の悪意が見えるようだよ。
「うんうん、何かして遊ぶ?」
ふるふる。遊んでくれないらしい。どうしよう。
「テレビでもみる?」
ふるふる。フラれた、間が持たない。
「じゃあ……んー、ゆっくりするか」
万策尽きて、座ったまま大きく伸びをする。んーきもちいい。
「あ、あの……」
どうしたと言うのかね。
「座りなよ、立ってると疲れない?」
すごく年寄り臭い気がする。大丈夫、俺はおじさんではない。お兄さんだ。
「は、はい……」
そんな近くに座らなくてもいいんだけどね。ぴっとりしてこなくても大丈夫だからね。
「んで、どしたの?」
「えと、お兄……ちゃんの名前は……」
言ってなかったか。前に会った時もほとんど話してなかったから仕方ない。
「涼。梶木 涼。呼びにくかったら、涼でもいいよ」
こくん。ちっちゃくうなずく。動作に一々小動物的な可愛さがあるのがすごい。
「30分もすれば2人とも帰ってくると思うから、ゆっくり待ってよう」
そう言って、ソファに全体重を預け、目を瞑ったら、こてん、と何かが膝に落ちてきた。
なぜか、膝枕の体勢になっている。
(俺は本来、するよりされたい側なんだけど……ま、いいか)
幼い体温は妙に懐かしく、心地よかった。