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名前のない毎日

作者: シャット

 自分を信じろ、と誰かが言った。

 他人の言葉に引きずられるな、と。踊らされるなと。惑わされるなと。自分が信じることを信じて、自分の信じる道を行けと。

 誰も彼もがそう言った。愚直に、怒ったように、目を伏せて、叫ぶように、震える声で、何度も何度もそう言った。

 その度に、俺は思ったのだ。それはできない、と。

 それは、俺にとって最も難しいことのひとつだった。世界を平和にするとか、時間の壁を越えるとか、そういうことと並ぶくらいに。

 なぜかって、俺は自分を信じられないからだ。自分なんかに、信じる価値を見いだせない。信じられる理由があるとも思えない。徹頭徹尾に無価値で、無力で、どうしようもない。期待に背き、裏切るばかりの人間だと、定義してしまっている。

 その確信が揺らぐことはない。きっと将来も、ずっとそう考え続けている。

 ぼんやりと、そんなふうに感じていた。


   1


 変わりばえのない毎日が続いていく。

 目を覚ます。顔を洗う。食事をとる。準備をして、家を出る。駅に向かって、電車に揺られて、学校という檻に縛られる。眠気に耐えて授業を凌ぎ、休み時間は適当に喋って、日程を終える。帰宅部の活動に従事し、宿題やら手伝いやらをこなして、風呂で疲れを癒す。そして寝る。目を覚ませば、次の一日が始まる。

 そんな変わりばえのない毎日、なんて幻想だ。変わらないはずがない。大筋の流れが決まっているだけで、時間割だって毎日違うし、漠然とした思索もくだらない世間話も、その日その日で内容が変わる。前回に続く授業を受けるし、昨日の話題も時には挙がる。

 変わっていないはずのない毎日を、それでも俺は、変わりばえがないように感じていた。

 どこかにかすかな違和感がある。でも正体を掴めない。違和感があると、なにかが違っているというのなら、では何が本来の姿なのか。正しさも間違いも知らない俺にわかるはずもなく、違和感を抱えたままで、日常が続いていく。

 そんなある日の、帰り道のことだった。


   2


 道端に真っ黒なものが転がっていた。

 なんて一瞬錯覚してしまう、それは光景だった。

 よく見れば、ものではなく人間だとわかる。髪のように思える部分も、服であると推察される部分も真っ黒な姿だとはいえ、肌色もいくらか見受けられるからだ。けれど、現実感が薄い。というか、動いていない。身じろぎひとつしない。呼吸音ひとつ聞こえない。死んでいる、とは思いたくないが。

 大丈夫ですか、と声を掛けると、ぴくりと黒いのが震えた。寝起きの人間に類似した呻き声。死んでいたわけではないが、気を失ってはいたらしい。しばらく再起動に時間が掛かったものの、ようやく落ち着いたのか、顔が上げられた。


 息が詰まる。

 美し、かった。


 黒い黒い服装とは反対な、健康とは正反対なほどに白い肌。それは不健康を暗示させるそれではなく、非現実を感じさせる顔立ちだ。筆舌に尽くしがたいほど、という定型句では尽くしがたいほどに美しい、少女。整った眼差しが、引き結ばれた唇が、まっすぐにこちらを見据えてくる。

 沈黙。

 息苦しいほどの、沈黙。

 時が止まっているかのような、沈黙。

 沈黙と、沈黙と、さらに沈黙と、そして沈黙。


 えっと。

 こういう居心地の悪さはどう打開すればいいのだろう、と。


 そんなことを考えたときに、腹の音が聞こえた。


   3


 人形のような異形めいた美しさの少女が、人形のような無表情を保ったまま、人形とは程遠い速さで食べものを咀嚼している。

 現実とはかけ離れているような現実の光景が眼前にあった。

 ところは変わって、某有名ファストフードの店内。

 無表情かつ無言にして自らの空腹を敢然と主張していた少女を連れてきてから、十数分が経過している。

 依然として会話はない。注文を聞きにきた店員に対しても少女が口を開くことはなく、かといって商品が届いた途端に口に運び始め、そして今に至る。

 正直なところ、扱いあぐねていた。支払いは自腹になるのか、注文した俺は腹を満たせないのか、これからどうすべきなのか、

 そもそも、この少女は何者なのか。

 店内の照明に照らされたその服装が、同じ高校のものだとはわかる。だが、その中身に見覚えはない。これほどのいわゆる美少女であれば、記憶に残らないはずがない、と断言することもできない。階層や教室が離れていれば、遭遇する機会も少ないだろう。

 考えごとにふけるうちに、気がつけば食べものは食べ尽くされており、そして。

 ごちそうさまでした、と少女は言った。


 喋れたのか。と、思わず呟いてしまうのも無理はないだろう。対して少女は、俺の心中を知ってか知らずか、首を傾げる。

 曰く、あまりにも空腹で死にそうだったらしい。

 脱力しそうになる。というか、脱力した。そんなこんなで一言、二言と、数分前までの静寂が嘘のように言葉を交わしていく。


 不思議と、会話は弾んだ。人形のような、という印象は薄れていった。喋るときは喋り、楽しければ笑う、ごく普通の女の子だった。

 どうして道端で寝転んでいたのか、なんて話は出さない。きっと理由が、俺にはどうしようもなく大きな理由があるのだろうと、そこからは話題を逸らして。代わりに、たわいのない話をした。くだらない話を重ねた。見たくないものから目を背けるように、話したくないことから離れた話を。

 きっと俺たちは、ある一点で共通していた。それは現実感の乖離。それは理想像の不在。生きているという実感がなく、そもそも生きている状態を定義できない。それは小さな違和感だ。棘のように刺さり、抜けることがない。そんなふたりだったから、話が合ったのだと思う。

 気がつくとかなりの時間が経っていた。これは奢りだと席を立ち、店の前で少女と別れる。それで終わりだ。束の間の非現実が幕を下ろし、変わりばえのない毎日がまた始まる。一夜限りの即興劇は、楽しくはあれど即興のものなのだ。続くことはないだろう。


   4


 翌朝、登校中に見覚えのある黒い影と遭遇した。

 即興劇が舞台を蝕んでいく。


   5


 それからの数日を、少女とともに過ごした。俺は学校を休んでいた。親にも事情を話すことなく、彼女と遊び歩いていた。

 ゲームセンターのぬいぐるみと真剣に向きあった。水族館の魚を、動物園の檻を、延々と眺め続けた。背伸びして喫茶店に入り、庶民的なファミレスに入り浸り、あるいはぐだぐだとファストフードを貪った。

 楽しい時間だった。とても、楽しい時間だった。けれど、その間隙を縫うように、疑惑は俺を襲い続けた。彼女はいったい何者なのか。数日を一緒に経験して、同い年であることはわかった。だが、それだけだ。名前も知らない。住所も知らない。知っていることのほうが少ない、といっても過言ではないだろう。そして何より俺は、彼女がどうして学校を休んでいるのかを知らない。訊くつもりはなかった。知ったところで俺にはどうにもならないとわかっていた。並大抵の事情ではないとわかっていた。深入りはしなかったし、するつもりもなかった。


 だから、きっとそれは魔が差したのだと思う。


 偶然と、気まぐれと、幸運が重なった。

 その日はクラス会があった。学級の親睦を深めるという名目で、俺は帰りが遅くなると親に告げた。これが第一に、偶然だ。そして、なんとなく思い立った。これが第二に、気まぐれだった。彼女のことを知りたいと俺は思っていて、なら探ってみようと、思い立ってしまった。ありていにいえば尾行しようと思った。そして実行した。その尾行を完遂できてしまったのは、幸運だったとしか言いようがない。

 そうして俺は彼女の家を知った。ついでに表札も見た、つまりは家名も知ったが、それは些事だ。どちらにせよ、俺にとって彼女は彼女なのだから。ともあれ、彼女について知ることがひとつ増えた。そこで終わってしまえば、本当は良かったのかもしれない。

 でも。

 ここからが本題だ。


 翌日のことだ。正確には、翌朝のことだ。魔が差した、としか形容のしようがなかった。俺は彼女の家を訪れていた。彼女自身が中にいないことは、すでに出掛けていることは確認していた。それをはっきりと認識したうえで、その家の戸を叩いていた。彼女と同じ高校に通っていること、友人であることを伝えた。幸いにも快く受け入れてもらえ、しばらくは世間話をした。ほどほどに場が暖まったところで、俺は彼女の母親に、尋ねた。ずっと気になっていたこと。知りたくて、知りたくなかったこと。

 最近、娘さんがなにか悩んでいることはありませんか、と。

 まるで刑事のようだな、と自分でも思うような質問に。

 数瞬、考えて。

 そして、彼女の母親は答えた。


   6


 信じられなかった。

 到底信じられるはずがなく、信じたくもなかった。


 普段に増して現実感が薄れている。薄れていることをしっかりと感じられる。幸いにも、というべきか、俺が彼女の家を訪ねたのは休日のことだった。考えごとに溺れていて使いものにならない状態でも、それほどの問題はなかった。親に何度か声を掛けられはしたが、それだけだ。そんなことに気を取られてはいられなかった。俺の思考は彼女のことで占められていた。

 ぼんやりと過ごしていた休みが終わり、再び学校が始まる。

 通学路上で彼女と遭遇する可能性を慎重に回避して登校し、すべての授業を茫然と過ごした。先生の講釈も、同級生の世間話も、頭には入ってこなかった。

 体感ではほとんど時間が経たないうちに放課後を迎えると、ようやく俺は活動に移った。探し人の姿はすぐに職員室で見つかった。彼女のクラスの担任に、俺は話を聞こうとしたのだ。彼女はクラスでどんな様子か。最近変わったところはないか。少々怪しまれはしたものの、予想に反してあっさりと、担任は質問に答えてくれた。

 その概略は、彼女の母親と、同様で。


 認めよう。

 諦めよう。

 受け入れよう。

 最近の彼女には、おかしな様子も、悩んでいることも、困っていることも、どんな異状も、何ひとつとして、なかった。


 母親の話では、彼女の様子は普段どおりだ。いつものように学校へ通っているし、帰ってくれば家事を手伝うし、笑顔だってよく見せてくれる。可愛く真面目な自慢の娘だと、母親は思っている。

 担任のほうは、彼女が近頃登校してこないことを気に病んでいる。家庭からの連絡もなく、通常ならすでに電話している頃だ。だが、それ以前の生活態度がそれを止めていた。彼女はとても真面目で、ずる休みなんてするはずがないし、連絡がこないのは連絡できない事情があるからだ、と考えている。登校していた時期には特に悩みがあるようには見えず、当然、クラスに虐めがあったわけでもなかった。クラスの一角で静かに過ごしている、けれど確かな存在感を示している、そんな生徒だった。

 そして、俺は知っている。彼女が高校に通っているわけではなく、かといって連絡できない事情があるわけでもない、つまりは単なるずる休みなのだと、知っている。

 俺は、その理由が、家庭か高校のどちらかにあるのだと思っていた。思って、その話題は避けていた。家庭内暴力かもしれない、義理の親と仲が良くないのかもしれない、あるいはクラスで虐めがあるのか、教師が圧政を敷いているのかもしれない。そういう理由があって、そこから逃げているのかもしれない。それなら、それでもいいと思っていた。

 俺は、彼女の逃げ場になりたいと、逃避先になりたいと、本気で思っていた。

 けれど、違ったのだ。

 家族にも、高校にも、歪みは見当たらなかった。家庭内、学級内での暴力に対する恐怖も、あるいは暴力に加担している後ろめたさも、感じられなかった。俺の眼が曇っている可能性もあるが、そう思いたくはなかった。彼らの人柄を信じたいと思えた。彼らの信頼を得ているほどの、彼女の人柄を信じたいと思えた。そのことが、彼らとの会談での最大の収獲だったとも思う。

 彼女は悪い人間などではなくて、むしろ、とても良い子なのだ。


 だからこそ、信じられなくなる。

 彼女には、おかしな様子も、困っている様子も、悩んでいる様子も、なかった。

 理由なく、要因なく、彼女は学校に通わなくなった。

 普通の家庭で育ち、普通の高校に通う、容姿が優れていること以外はごく普通の少女が、突然に普通から足を踏み外した。

 そのことがどうしても信じられなくて。

 信じられないくらいに、俺と似ていた。


 彼女は、俺と同じだ。

 いつもどおりの日常が、当たり前の毎日が、当たり前だと感じられなくなって、道を外れてしまう。

 その気持ちが、痛いほどにわかる。共感する。同調する。

 だからきっと、そんな彼女に言葉を届けられるのは、俺だけなのだろうと思った。

 でも、だとしたら、俺はどうすればいいのだろうか。


 ひとつだけ脳裏に浮かんだのは、彼女には特に親しい人間がいるわけではないらしいことだった。


   7


 考えた。

 夜通しで、ひたすらにずっと、深く、深く、ただただ深く、考え抜けるところまで考え尽くした。

 彼女とともに過ごした数日間のことを思った。俺自身が生きてきた十数年のことを思った。そのふたつが自分の中で価値を同じくしていることに、そのとき気づかされた。

 彼女の笑顔を思い出し、彼女の言葉を思い浮かべ、彼女の仕草を想起して、彼女のことを思い続けた。

 たった数日で、彼女の存在は途方もなく大きなものになっていた。その事実に今まで思い至らないほど、彼女の存在が当たり前になっていた。


 だから、たぶんそれが答えなのだろうと思った。


 何が正しいのかは知らない。何が間違っているのかはわからない。正答と誤答を区別する術はなく、正答が用意されているのかさえ預かり知らぬところにある。

 でも、何をすべきなのかはわからなくても、自分がしたいと望んでいることはわかる。それを知るのは自分だけなのだから、それは自分にしかできないことだ。

 その理想を、追い求めたいと思った。


 俺は彼女とともに在りたい。

 彼女と同じ高校に通いたい。クラスは違っているけれど、それを補って余りあるくらいの言葉を朝に、休み時間に、そして放課後に交わしたい。考査について愚痴を吐き、待ち望んでいた行事を一緒に楽しみたい。進級して同じクラスになる可能性に賭けたい。同じ大学を目指して、一緒に励んで、一緒に大学へ通いたい。

 彼女に特別な友人がいないことは知っている。それに同情したわけではない。それを憐憫したわけではない。むしろ、その逆だった。彼女に特別な友人がまだいないということは、俺が、彼女の特別になれるということだから。


 その感情の名前を、俺は知らない。

 それでも、想いは止まらない。言葉は尽きない。希望が途絶えることはない。


 彼女に登校してほしい。

 一言でいえばそれだけで、けれど、一言では終わらない。

 彼女と一緒に、ふたりで、俺は登校したいのだ。


 そんな話を、彼女に伝えた。

 面と向かって。

 まっすぐに。

 ど直球で。


 彼女と初めて会話した某ファストフード店に、俺は彼女を呼びつけていた。そうして、これまでの話と一晩考えたことを洗いざらいぶちまけたのだ。


 真っ白な頬を真っ赤に染めて、彼女は俺の話を聞いていた。視線がこちらを向いては斜めに逸れ、手はせわしなく机上を彷徨い、涙は目尻のすれすれに溜まり、ついには流れ出しそうになる。

 ありがとう、と彼女は言った。

 それが何に対する礼だったのか、俺は知らない。


 結論としては、受け入れてもらえたのだと思う。

 明日からはまたきちんと学校に行くと、彼女は約束してくれた。せっかくだから一緒に登校しようと、待ち合わせの時間を決めてみた。ちなみに、俺と彼女の最寄駅は同じだ。彼女の家を躊躇なく訪れられたのも、それが理由だった。結果的にはそれが功を奏した、といえるのかもしれない。

 すべての話に決着がついてもなお、彼女は落ち着かない様子だった。表情はいまだに紅潮しているし、言葉の端が若干上ずっている。


 恥ずかしいことを言ったのはこっちのほうなんだけれどな、と俺は言った。少しだけ、彼女は笑う。それならわたしも恥ずかしいことを言えばおあいこだよね、と。

 そして、彼女は言った。


   8


「せっかくあなたも外見は可愛いんだから、もっと女の子らしく話したらいいのに」


   9


「いやもちろんこれは女は女らしくあるべきだという強制などではなくて、あくまでもわたしの個人的な見解というか考えなのだけど、でも磨けば光る原石を磨かずにはいられないというか、せっかく見た目は可愛いのに、というか内面も可愛いけど、容姿も仕草も言葉遣いも可愛いけどそれはそれとして、いやそれはそれとしたらだめで、ともかくあなたは可愛いんだし、だからちょっとは女の子らしく喋ったらもっと可愛いんじゃないかな、というか」


 …………。


「呆れたように溜め息をつかないで。でもそこがいい。呆れたように溜め息をつくあなたは本当に可愛いけど。でも少しは真剣に話を聞いてくれると嬉しいというか。確かにあれほど真面目な話をしたあとでこんなことを言うわたしってなんなのとは思うけど。それでも本心を話していることに変わりはないわけで。いわばこれは本音と本音の殴りあいだよ。夕陽に向かって走るんだよ。いいね。青春だね」


 …………。


「疲れたような目つきで睨まないで。かっこいいから。惚れちゃうから。というか惚れてる。惚れた。あんなにまっすぐにわたしのことを想われていたら惚れるしかないよね。というか告白だったよね。あれを告白と呼ばずして何と呼ぶのか、ってやつだね。熱烈な愛の告白だったね。いやん恥ずかしい。でもそこがいい。そんなあなたのことがわたしは大好きだよ。きゃっ言っちゃった」


 …………やれやれ。


「……何の話だったっけ?」

「えーっと。まずあなたがわたしに告白して。わたしはあなたの愛を受け入れ。かくしてふたりは結ばれたのだけど。あなただけに恥ずかしいことを言わせるわけにはいかないから。だから返礼というか、告白の返事をしたわけだ。平安時代より伝わる文化だね。……いや、冗談だってば」

「……やれやれ」


 溜め息をつく。雰囲気がぶち壊しだった。真剣さが粉々だった。シリアスさんが完全にブレイクされている。痛いところを突かれたと思う間もなかった。息もつかせぬ怒涛の展開だった。溜め息しかつかせぬ怒涛の告白だった。

 再び、溜め息。


 まあ、彼女の言い分にも一理あった。認めたくはない話だが。半理とか四半理しかないと言明したいが。それでもまあ、そのとおりだ。もちろん告白が云々の話ではなくて、その手前に話していた件のことで。

 確かに、俺は女だ。生物学的にも社会学的にも、ありとあらゆる観点で女性だ。自覚しているし、拒むつもりはない。自分が女であるという認識に迷いはない。

 でも、違和感を拭いきれないというのもまた、確かだった。

 自身を俺と呼称することに不自然さはない。自身を女だと認めることに不自然さは感じない。受け止められているはずのふたつの事実が、どうしても噛みあわない。性同一性が云々といった病気であるとは思わない。けれど、あくまで自分とは俺であるという前提に立つと、どこかに些細な齟齬が生じてしまう。そんな不安が、


「わかるよ」


 一瞬で、払拭される。不意に胎動した不安が、たった四文字で帳消しになる。

 彼女は笑っている。それは先刻までのふざけた笑顔とも、普段の楽しげな笑みとも違う。穏やかで、慈愛に満ちた微笑。深く言葉を交わさずとも互いのことを理解している。その笑顔に、そのすべてに、どうしようもなく、心を救われている。心に巣食われている。

 そのことで、不安が再燃する可能性も消える。

 そもそも俺が女でなければ、初めて会ったときに彼女がついてきてくれることもなく、ぐだぐだと長話をすることもなく、たった一日で距離が縮まることもなく、その翌日から遊び歩くこともなかっただろう。学校がある時間帯に高校生の男女が連れ立って街中を歩いている、というのは流石に怪しすぎる。彼女の友人だと名乗ることで母親から話を聞けたのも、担任についても同様に、俺が彼女と同性だったからだ。そもそも、女子校である今の高校に通うことだって、俺が女でなければ生じるはずのないことだ。

 女だったから、俺は彼女と出逢うことができた。

 その事実で、すべてを受け入れられる。


 おそらく彼女も、俺と似たような安堵を抱いていたのだろう。学校に行くと約束してくれたとき。俺と一緒に学校に通いたい、と彼女が言ってくれたとき。そのときと同じような安堵を、俺は感じていた。

 思わず、笑ってしまう。それを見て、きょとんと彼女は首を傾げる。

 うん。


「俺もお前のことが大好きだよ」


 瞬時に彼女の表情が真っ赤に染まる。

 意趣返しとは楽しいものだな、と感じて俺は笑みを深める。


 この感情の名前を、俺は知らない。

 けれど、ひょっとしたら、こんな気持ちのことを友情と呼ぶのかもしれない、と思う。


   0


 変わりばえのない毎日が続いていく。

 目を覚まして、顔を洗って、食事をとって、準備をして、家を出て。駅に向かって、合流して。電車に揺られながら話して、通学の途上で喋って、学校という檻に縛られて。眠気に耐えて授業を凌ぎ、休み時間は近場の連中と適当に喋って、日程を終える。帰宅部の活動に従事するのは、最近では遅くなった。手近なところにある喫茶店やら飲食店に入って、一日の出来事や過去のことや未来の話を、ぐだぐだと語りあって。そうして家に帰ると、宿題やら手伝いやらをこなして、風呂で疲れを癒す。そして寝る。目を覚ませば、次の一日が始まる。

 細かい日程が違っていたり、世間話の内容が移ろっていたりするだけで、変わりばえのない毎日。そのことを、そのままに受け入れられる。日常が特別である必要なんてない。平凡な毎日は特別でなくてもいい。ありふれた日常に、区別をつける必要も、名前をつける必要だってない。

 そんな、名前のない毎日が。

 彼女と一緒に、続いていく。


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