第六話 トイレからこんにちは再び
「モジャさんや、今日のおつとめは終わったかね」
髭モジャが我が家にやってきてすでに一週間が経とうとしていた。朝だけではなくことあるごとにトイレの前で色々と試してみるのだがトイレはやはりトイレのままだ。髭モジャは小言を聞かされるトイレの国よりこっちのほうが楽しいと言ってここ二日ほどはポーズをとるのもいい加減になってきている。
だが髭モジャは自分は国王だと言っていた。それが本当ならば一週間も不在にしていたらあっちは大変なことになっているんじゃないのか?
「はい、終わりましたよ、マダム」
婆ちゃんは髭モジャの返答に笑って手をふる。
「モジャさんや、そのマダームというのはやめてもらえんかねえ。そう呼ばれるたびになんだかモゾモゾするよ」
うちの婆ちゃんのことを荘園の領主未亡人と信じて疑わない髭モジャは婆ちゃんのことをマダムと呼んでいた。それがどうやら婆ちゃんからすると非常にくすぐったいらしい。
「そう言われましてもマダム。他にどう呼べばよろしいのやら見当がつきませんが?」
それと一日目で気がついたんだが私に対する態度と言葉遣いと、婆ちゃんに対しての態度と言葉遣いが明らかに違うんだよな。なんていうか髭モジャは婆ちゃんのことを非常にうやまっている。しょっちゅう私には自分は王様で偉いんだぞって言っているくせにだ。
「そうだねえ、スギ婆ちゃんとでも呼んでくれれば良いかねえ」
「スギバー……ですか」
「そうそう。それか亜子と同じように婆ちゃんか」
「バーチャン……ですか」
しばらく考えて込んだ髭モジャはなにやら良い案が浮かんだらしくニッコリと笑った。
「では、マダム・スギバーでよろしいか?」
「まあ、マダームと呼ばれるよりかはマシかねえ……」
どうやらマダムをやめさせるのは無理らしいと一瞬にして悟った婆ちゃんは、髭モジャがマダム・スギバーと呼ぶのを渋々ながら承諾した。
「ではマダム・スギバー、今日の田んぼ仕事にも私は同行させていただこうと思うのですがよろしいか?」
「ええよー。雑草取りにはいくら手があっても足りないからねえ。亜子ちゃんは今日の分の宿題をして、庭の野菜の収穫を頼むよ~トマトがそろそろ食べごろみたいだからねえ」
「分かった。んじゃ、モジャさん、うちの婆ちゃんを任せたよ」
二人は仲良く連れ立って田んぼへと出かけていった。婆ちゃん、私と行くより喜んでるよ。何歳になっとも殿方と御一緒できるのは心がウキウキするねえヒャヒャヒャ、だってさ。あの世で爺ちゃんがあきれてなきゃいいんだけどな。
「まあしかし、たった一週間で驚くほど馴染んでるよな髭モジャ。しかも田んぼの雑草取りが楽しいって一体どんな感性なんだ」
本人いわく王様なのに田んぼ仕事だぞ? 王様って大臣や手下にかしづけれて偉そうにふんぞり返って生活しているんだろ? 金ぴか宮殿では毎日のよう飲んで食って歌って踊ってるんじゃないのか? 初日こそ腰が痛いだの肩が痛いだの騒いでいたが泥だらけになること自体は平気だし、ご飯にしても婆ちゃんが作る田舎料理にまったく不満はないようだし。
あ、いや食べ物に関しては一点だけ問題があったな。どうやらタコは駄目みたいだ。昨日のキュウリの酢の物に入っていたタコの吸盤を見て悪魔の魚だとか言って大騒ぎしてたっけな。
「さてと、まずは宿題を片づけるか」
台所にいって冷たい麦茶をグラスに入れるとそれを持って縁側に面した風通しの良い居間へと向かった。そしてど真ん中に鎮座している大きなちゃぶ台の前に座る。そこに教科書とノートをひろげると一時間ほど集中して宿題と向き合った。家の中は静かで、たまに吹き抜ける風で揺れる風鈴の音とセミの鳴き声が遠くから聴こえてくる程度だ。
ガタガタガタ
「……ん? 地震か?」
しばらくしてなにやら家の中のどこかから妙な音が聞こえてくるのに気がついた。ジッとしていても揺れる気配はない。ということは風か? だが風鈴は微かに揺れているだけだし妙だな。
ガタッ ガタンッ
「……まさか泥棒ってことはないよな?」
いや、最近は田舎でも安心できない。ここは交番も遠いし自分の身は自分で守らなければ。素早く立ち上がると急いで押し入れの襖を開ける。そこに爺ちゃんが使っていたという木刀と竹刀がしまいこんであるのを知っていたからだ。まずは木刀を手に取った。
「いや……さすがに木刀はまずいか? 当たり所が悪かったら死ぬよな」
竹刀なら力任せに殴っても大丈夫だよな? その横に立て掛けてあった竹刀を手に音のするほうへと歩いて行く。
ガタッガタッ
音が聞こえるのは廊下のようだ。泥棒じゃなく床下にイタチかタヌキでも入り込んだのか?
「……まさかトイレてことはないよな?」
まさかと思い廊下の先にあるトイレへと近づくと、案の定トイレのドアがガタガタと小刻みに揺れていた。
「おいおい、またかよ」
うんざりしながらも別の可能性があることに思い至った。
「……もしかしてあの目つきの悪いお兄さんが開ける方法を見つけたとか?」
だがしかしドアの揺れがどんどん激しくなるのに一向にドアは開かない。トイレのカギは中側にしかないし今は漬物石で外から押さえているわけでもないから普通に開くはずなんだがな。
「妙なことになってるな、どれどれ手助けしてやるか」
竹刀を壁に立てかけるといつものようにトイレに通じているはずのドアを開けようとノブを回して引っ張った。
「……あれ? なんで開かない?」
普段なら直ぐに開くはずのドアが開かない。思いっ切り引っ張ってみる。ドアの向こうでも誰かが押しているのか木製のドアがたわんでいた。
「なんで開かないんだ」
さっきトイレに入った時は問題なく開け閉めができていたはずなのに。
「このっ、とっとと開けってーのっ」
足を壁に当てて大根を引き抜く要領で思いっ切り引っ張ってみる。それでも開かない。これはまずい、ここが開かなかったら今日からトイレに行きたい時はどうすれば良いんだ? お隣さんはあんなに遠いだぞ? 庭に穴でも掘るか? いやいや、なんでここにトイレがあるのに野外トイレのお世話にならなきゃいけないんだ。冗談じゃないぞ、なんとしてでも開けてやる。
「さっさと開けってーの、くそっ!!」
そうこうしている内に向こうからドンッドンッと激しい振動が伝わってきた。どうやら誰かが体当たりしているのかハンマーみたいなもので叩いているのか、とにかく今にもドアがぶち破られそうだ。開くより先に木っ端みじんになったりしてな。
「ん?」
いきなり静かになった。もしかしてあきらめたのか? なにか聞こえてこないかと近寄ったところでいきなりバーンッとドアが勢いよく開いて吹き飛ばされた。
「わあっ」
その反動で壁にぶつかって引っ繰り返る。
「おい、陛下をどこに隠した!!」
いたたたたっと壁でしたたかに打った後頭部をなでていると聞いたことのある声が上からふってきた。顔を上げれば、おお、あの目つきの悪いお兄さんじゃないか。ただでさえ怖い顔がますます恐ろしいことになってるぞ。
「よく来てくれたと言いたいところなんだがな。うちのトイレのドアをどうしてくれるんだ」
勢いよく開いたドアは案の定、もののみごとに木っ端みじんになっていた。ああ、これは絶対に婆ちゃんが怒髪天で大魔神だぞ……。