死闘
「どわっ!?」
慌てて横に飛ぶと、耳のすぐ横をシャレにならない空気を貫く鈍い音が通り抜ける。
縄跳びをしている時に聞く音だが、音の重さが比較にならない。
当たったら皮膚が裂け、大怪我をすること請け合いだろう。
「オラオラぁ! さっきの勢いはどうしたぁっ!」
圧倒的リーチを盾に、高見の見物で男は小動物をいたぶるように鞭を振るう。
鞭を引いては叩きつけ、引いては叩きつけを繰り返し避けるので精一杯の俺は防戦一方になっていた。
このままじゃ不味い。
何か、何か手は・・・!
鞭が地面を叩く甲高い音が、精神的恐怖を煽って冷静な思考を許さない。
「くっく、もっとだぁ! 踊れ踊れぇ!」
「あぶね! くそ・・・!」
飛び跳ねて尻餅をついた俺のすぐ横を、鞭が叩き付けた。
慌てて身体を横に回転させて立ち上がり、距離を取る。
その時、頭の端に疑問が引っかかった。
変だな。何で今の鞭、俺に当たらなかったんだ・・・?
俺は尻餅をついて動けなかった。
単に狙いが外れただけかもしれないが、あの鞭は男の意志を反映する特殊な鞭で、通常の鞭より自由度が遥かに高い。
そんな便利な鞭で、動けない的を相手に外したりするだろうか?
朧げな疑問が言葉に変わる。
ひょっとしてあいつ——当てる気ないんじゃね?
そう思った俺は、少し客観的になって今の戦いを観察した。
「もう終わりかぁ!?」
鞭が凄まじい速度で放たれる。
ライオンの口に手を入れるような恐怖と不安の中、俺は最小限の動きだけで体を横に傾けた。
避けるとも言えないような、小さな動作。
ヴォオン!と耳の側を鞭が通過する。
・・・やっぱりそうだ。
鞭は予め、俺からやや狙いを外して放たれている。
じっとしていれば当たってしまうが、少し体をズラせば簡単に避けることができる。
このサド野郎。
わざと当てないで俺が怖がる様を愉しんでやがるな。
心底腹が立つが、でもこれはチャンスだ。相手は油断している。
この隙に不利な状況を覆す攻略法を見出せれば・・・!
「うわぁっ!」
意図的に情けない悲鳴をあげ、大袈裟に飛び退きながら俺は周囲に視線を巡らせた。
「くっくっく! 逃げるだけかぁ? 許さないんだろぉ!? 正義の味方さんよぉ!」
パシィッ!
当たらないと分かっていても、一度放たれる度に心臓が恐怖できゅっと縮む。
わざと外されてるだけで、男の気まぐれでいつでも当てられてしまうのだ。
早く、何か・・・・。
「あれは・・・」
ドングリサイズの木の実が落ちていた。
藁にも縋る想いで、鞭を飛び避けた拍子に転ぶフリをして、地面に手をついて広いあげる。
直後、またしても鞭がすぐ側を弾いた。
慌ててその場から離れる。
そろそろ息も上がってきて、体力も限界だ。
これを投げつけて、その隙にタックルを噛ますしか勝機はない・・・!
「くっく、ボロボロだなぁ? ・・・そろそろ遊びも終わりにしてやるかぁ」
気まぐれの時間は終ったようだ。
くそ、何でこのタイミングで!
隙だらけでいてくれれば楽だったのに。
まぁ、悔やんだところで仕方ないか。
俺は深呼吸して頭を切り替え、集中して男の挙動をみつめた。
次の一撃を避けさえすれば、あとは木の実を顔面にでも投げつけて驚いてる隙に近づくことができる。
集中しろ・・・!
男が大きく腕を振り、鞭が振るわれた。
空気を切り裂く轟音が近づき——。
「っしゃあ!」
瞬発力を最大限引き出し、避けることに成功した。
そのまま野球のピッチャーのように腕を振りかぶって、木の実を投げつけようとした——その時。
ぐるん、と叩き付けられ地面に垂れていた鞭が蛇のように首をあげて襲いかかり、俺の体に巻き付いた。
「な、なにぃっ!?」
こ、こんなのありかよ!?
気をつけの姿勢で全身を縛られ、完全に動きを封じられてしまった。
手から落ちた木の実が虚しく地面を転がる。
「いったろぉ? 遊びは終わりだってなぁ」
鞭によって空に浮かされている俺に、ニヤニヤしながらモジャ髭が近づいてきた。
ギチギチと締め付けられ、骨が軋む。
「うぐぁ、ああああ!」
痛い、痛い痛い!
「も、もうやめてくださいっ!」
倒れていたアリスが、青い顔のまま起き上がって叫んだ。
「私ならちゃんと奴隷に戻りますっ。 だからっ、その人のことは離してあげてください!」
「だ、ダメだ」
「もういいんです! 私のことなら、もう・・・誰かを傷つけてまで、自由になりたいとは思いません・・・」
「・・・君は、俺が守る」
アリスは困惑したように俺をみた。
「会ったばっかりなのに・・・どうして、そこまで?」
「・・・逃げたく、ないから」
もう、後悔するのは嫌だから。
何も行動しないで、空白の人生を歩むのは悲しいから。
恥ずかしくても笑われても、何も行動しないよりマシだって。
死んでからやっと気づくことができたから。
だから——。
「う、おお!」
だからアリスは、命に代えても俺が守る。
それがどうしようもなかった俺に、二度目の人生を与えられた意味なんだと信じて。
「なぁーに二人だけで盛り上がってやがる。お前もこの男も解放する気はねぇよぉ」
男は俺をみて言った。
「お前は働け、倒れて死ぬまで」
次にアリスをみて言った。
「お前は癒せ、膣が裂けるまで」
悪魔は笑って、首輪を手にした。
「これを着ければお前も奴隷の仲間入りだぁ」
鞭によって持ち上がった体の高度が下げられ、モジャ髭と同じ目線の高さで止まった。
その手には、アリスの首についているのと同じ、蛇の形をした首輪が握られていた。
手が伸びて蛇がゆっくりと近づき、俺の首に迫る。
目の前までくると、まるで本当に生きているかのように、首に絡めるために円状になっていたその体をしなやかにぴんっと伸ばした。
あと数センチでその蛇が首に触れる——直前。
「んんんりゃあっ!」
俺の右手が鞭の縛りから抜け出した。
「あぁ!?」
驚愕で固まるモジャ髭。
実は鞭で縛られる直前、俺は反射的に拳を握って縦にした状態で縛られた。
こうしておけば、拳を横に寝かせると少しだけ隙間の空間が生まれる。
俺を苦しめようと縛りを強めている時ならば、すぐに埋まってしまう小さな隙間。
しかし、油断して締め付けを緩める時。
そして俺を奴隷にするため、モジャ髭が近づく時が必ずくると踏んでいた。
間髪おかずに抜いた右手で男の腰からナイフを抜いて、柄を手にしっかりと握り、闇雲に前に突き出す。
ぶしゅっと何か柔らかいものを貫く気持ちの悪い感触が、ナイフ越しに伝わってきた。
「ぐぅあッ」
モジャ髭の左目にナイフが突き刺さっていた。
「えぇ・・・? この・・・・・クソ・・・ガキぃ・・・・ア」
バタリと倒れ、まるで人形のように数秒痙攣した後動かなくなった。
じわり、じわりと、血が緑の芝を浸食して広がっていく。
なだらかな丘に静寂が戻った。
「お、おい・・・?」
近づいて覗き込んだ。死んでいる。
俺は後ずさりして死体から離れた。
「俺が、殺したのか・・・?」
本当に?
確かにナイフを突き出した。確かに殺そうと意気込んだ。
だけど、まさか実際に殺すことになるなんて。
「相手が悪いんだ。相手が・・・」
いくらそう言い聞かせても、人を殺した柔らかな感触と罪悪感は消えてくれなかった。
くそ。異世界なんて言うファンタジーなくせして、刺した感触はどこまでもリアルだ。
何かが落ちる音がした。
アリスの首輪が取れて、コロコロと地面を転がっている。
信じられないように目を見開いて、アリスは自分の首にその細い指でそっと触れた。
「と、取れた・・・。本当に、取れた・・・・・・・」
固まった顔に、インクのようにぱっと笑みがさして広がっていく。
「あは、はははっ」
ぎゅっと目を閉じて膝を曲げるとワナワナと震え、ついに喜びが爆発した。
「やったあーーーー! 取れた、取れたあ! 嘘みたいっ、ホントに自由だぁ!」
ぴょんぴょんとウサギのように飛び跳ねるアリス。
くるくると踊るように走り回ると、俺のところまでやってきた。
「あのっ。オーツキさん、怪我はありませんか?」
「あ? ・・・あぁ。大丈夫、怪我はないよ。アリスの方は? 凄く苦しそうだったけど」
「私もだいじょぶです」
「そっか。ならよかった」
「ほんとに、本当にありがとうございます! オーツキさんのお陰で自由になれましたっ!」
「あぁ、うん。ま、俺も頑張ったかいがあったな」
どれも生返事になってしまう。俺の頭は殺人のショックで上の空だった。
「あの、オーツキさん」
「・・・ん?」
ぼーっとしている俺と対照的に、どこか緊張を帯びたアリスの声音。
覚悟を決めたようにごくりと唾を飲み込むと、勢いよく頭をさげて言った。
「わ、私のご主人様になってください!」