8【送受信】
「それだけでは、何ともいえないなぁ」
電話の向こうの声が言った。
祐一郎には、東京で精神科の医師として働いている従兄がいる。年は離れているが昔はよく遊んでもらったものだ。
年が離れているとは言え、従兄の孝作もまだ二十代。医師としてはまだまだ見習いのようなものだった。
それでも何か助け舟が欲しくて、祐一郎は彼に電話したのだ。
汐里の異常ともとれる行動と、普段のあまりにも普通な彼女のギャップが、祐一郎に計り知れない不安をもたらしていた。
「でも孝ちゃん、自分で自分にメールを出して、それらと言い争いになるなんて、俺には理解できないよ」
「普段の彼女の行動はどうなんだ?」
「特におかしな所なんてないんだ。普通の女子高生だよ。そんな事で俺をからかうようにも思えないし」
「そうか。とにかくしばらく様子を見るんだな。架空の友達と縁を切る為の、彼女なりの手段かもしれない」
「縁を切る手段?」
「いままで、彼女は架空の友達とメールで親しくする事によって寂しさを紛らわしていた。そこにお前が現れて彼女の心はお前に引かれた。もう架空の友達は必要ないわけだ」
「うん……そうかなのかな?」
「例えばだよ。しかし、彼女の中でいままで世話になった架空の友人たちに対して名残惜しさがある。いや、引け目を感じているのかもしれない。そこで、喧嘩して決裂する事によって、彼女なりにそれらを消し去ろうとしているのかもしれない。完全に架空の友達が彼女の頭の中から消えれば、それで終わるかもしれないよ」
祐一郎はそう言われて、少しだけ気持ちが楽になった。
「わかった、少し様子を見るよ」
「何かあったら、何時でも電話しろ。夜中でもな」
孝作はそう言って電話を切った。
翌日、汐里は学校へ来たようだ。廊下を歩いている姿をチラリと見かけた。それでも祐一郎は、周囲にクラスメイトがいる前で、汐里に堂々と声を掛ける事は出来なかった。
「彼女、今日は学校に来てたな」
三浦幸裕が声を掛けてきた。
彼は冗談っぽく笑うと
「なぁんだ、妊娠じゃないのか」
「だから、違うって」
「判った判った、冗談だよ」
三浦はそう言って、祐一郎の肩を撫でた。
「なぁ、三浦はメル友っている?」
「メル友?」
彼は少し怪訝な顔をすると
「メールやってる奴ならバリバリいるぜ。ていうか、仲いいやつはみんなやってるよ」
「いや、メールだけの友達は?」
「メールだけ?」
三浦は眉間に少しシワを寄せて、さらに訝しい顔をした。
「そんなのいないって。誰だか知らないやつとメールだけしたって詰んないジャン」
彼は祐一郎の机にポンッと飛び乗るようにして腰掛けると
「知らない奴と話したけりゃ、掲示版かチャットするっしょ。普通」
「そう言うもんかな」
「まあ、掲示版で親しくなって直メってのも在りなんだろうけど。なんだよお前、メル友募集中か?」
三浦が再びふざけて笑った。
放課後に図書室へ行くと、汐里が何時もの受付カウンターに座っていた。
「その後どう?」
祐一郎はわざと明るく彼女に声を掛けた。
「あっ、祐一郎くん」
彼女は何か考え事でもしていたのか、ハッと顔を上げた。
「うん、あれからはまだ何も無いけど……」
「そう」
祐一郎は安堵の笑みを彼女に向けて
「そんなもんさ。あまり深く考えたらバカみるぜ」
昨日自分がメールを見たことで彼女も安心したのだろうか。今のところ汐里は自分宛にメールを出してないようだ。
「今日も一緒に帰ってくれる?」
汐里は何かに縋り付きたいような視線を、祐一郎に向けた。
「あ、ああ。イイヨ」
彼はそう言って図書室の中で時間を潰した。
それから毎日彼女と図書室で待ち合わせて一緒に帰った。その頃には普通の生徒はみな下校が終わっているし、部活をしている連中はまだ終わっていないので、比較的周囲を気にする事無く彼女と一緒に正門を出る事ができた。
祐一郎が汐里の家に入ると、直ぐに彼女の部屋へあがる。そして身体を交える日々が続いた。
汐里は人肌が恋しいかのようにそれを受け入れた。
今自分が見ている彼女、その裏側にもう一人の人格が存在するなど言う事が、祐一郎には信じられなかった。
真っ白な肌の全てをさらす彼女と交わる間は、そんな困惑から逃れる事ができた。
「祐一郎くん、あたし少し眠るからしばらくここにいてね」
夕刻、汐里はそう言って眠りにつく。
最近夜に眠れないそうだ。やはりメル友がもたらした恐怖感が拭えず、精神的に不安定になっているのだろうと、祐一郎は思った。
本当に彼女は自分自身であの三人を作り出しているのだろうか……
自分で自分にメールを送る異常さは今でも信じられない。それに普段の彼女はあまりにも正常で普通なのだ。
この問題が一筋縄では解決しないような気はしていた。しかし、せっかく手にした汐里を、祐一郎は手放したくはなかった。
それは、事あるごとに三浦が羨ましがる素振りを見せるのも一つの要因だった。おそらく彼は汐里の事が好きなのだろう。
その汐里を自分で抱く優越感から、もはや祐一郎は抜け出すことは出来そうになかった。それが愛だとか恋だとか、そんな事を考える余裕は今の彼にはなかった。
ふと、祐一郎は汐里の机のパソコンに目が止まった。
彼が傍にいる安堵か、夜中によほど眠れないのか、彼女は静かなと息をたてながら吸い込まれるように眠りに落ちて行った。
祐一郎は彼女のパソコンの電源を立ち上げると、メールソフトを開いた。
……汐里自信が架空の彼女たちに出した返事はあるのだろうか? 素朴な疑問が彼の頭を過ったのだ。
汐里が本当に自分でメル友を演じているのなら、もし返信しても結局は戻って来るはずだ。
受信フォルダにはそれらしい記録はない。しかし、和実、智子、マリそれぞれ三人の小分けされたフォルダに入った受信メールは、確かに返信した履歴のマークが付いている。
この返信したメールは何処へいったのか?
送信済みメッセージフォルダにも、確かに汐里が送信したメールが残っていた。文面からして彼女達に送られたものだ。
アドレスはやはり、送受信共に同じだった。
それなら、彼女は三人から来る事になるそれぞれのメール文章と、自分の返信文章の両方を送信していたのか? でもそうしたら、送信済みフォルダに架空の彼女らのメールがあってもおかしくない。
彼女が送信して、初めて『メル友』からのメールが届くのだ。しかしそれらは見当たらなかった。
しかも、『メル友』宛に返信で送ったメールも、次の受信で結局は戻ってくるはずなのに、何処を捜してもそれは見当たらない。
……無意識にそれらは削除しているのか。
削除済みフォルダにももちろん見当たらないから、おそらく完全に消去しているのだろう。
自分が書いて送信した架空の三人のメール文章の送信履歴、そして自分が三人に返信して戻って来た受信メール、このややこしい仕分けを必要とする削除も、それらは無意識の行動でしかないのだろうか……
祐一郎は混乱する頭を抱えて、パソコンの画面を見つめた。