表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

プロローグ

 ジメジメと湿ったカビ臭い、長い廊下を三人の刑務官に囲まれながらだらだらとゆっくり歩く。僕の腰には縄が巻かれ、手には御丁寧にしっかり手錠がはめられている。厳重にされた目隠しは太陽の光を遮り、漆黒の闇の世界へと誘う。


 この日が来るのを十二年も待っていた。

 死刑の執行は今日の朝、突然宣告された。刑務官の話だと、以前は死刑執行の二日前に宣告を行っていたらしい。家族や知人との面会が許され、きれいな心であの世に行けるように……しかし、どうしても自殺する奴や、錯乱する奴が出るため、宣告は当日の朝行われるようになった。よからぬことを考える時間もない。


 あと一時間もしないうちに、僕の肛門からフェノバルビツールとサクシニルコリンが注入されることだろう。この二種類の薬が直腸粘膜に浸透し、毛細血管から静脈に入り、心臓から全身に駆け巡る。中枢神経を麻痺させ、全身の筋肉は弛緩し、呼吸不全で僕は死ぬ。


 全国民裁判員裁判、施行から初めての死刑判決。裁判の内容は全て生中継され、お茶の間のテレビに流された。国民一人一人が裁判員だ。とんだ茶番。

 お手持ちのリモコンから操作してください。

 携帯電話、スマートフォンからも投票できます。

 有罪にしますか?→yes

刑期はどうしますか?→死刑

 本当に死刑でいいですか?→yes

 有効投票数の51%が僕の死刑を求めた。

 51%の人間が僕にフェノバルビツールとサクシニルコリンの浣腸を処方した。


 長い廊下を突き当たると、金属製のドアを開ける音がした。ひんやりとした空気が頬を撫でる。しばらく進んだところで待機するよう指示が出る。

 「24番、杉山正一で間違いないな?」

 一人の刑務官の声が室内に響いた。

 「はい、間違いありません。」

 そのまま着席するよう指示を出し、僕を冷たいパイプいすに座らせた。そして目隠しを外した。

 室内は12畳ほどの広さがあり、机に椅子が二脚。そしておあつらえ向きの仏壇が置いてあった。

 白い床、白い天井、白い机、黒い椅子、明るい蛍光灯の光……

 僕はこの空間に少し戸惑っていた。もっと薄暗く黒を基調とした部屋なら雰囲気がでるのだろうが、このだだっ広く明るい部屋は何なのだ。仏壇が置いてあること以外はどこかの中小企業の事務所のようだった。しかしそれが逆に不気味である。今の僕の心境とは似ても似つかない……ただただ僕の交感神経は刺激され、いよいよ心拍数、血圧は上昇し、異常な口渇感(こうかつかん)を覚えた。


 僕の正面には刑務官の一人が座り、僕の残り少ない貴重な時間を使って最後の説教を垂れてくる。

 ……何も聞こえない。何も心に響いてこない。 

 「最後に言い残したいことはあるかね?」

 「約束を……僕の死体は学生の解剖実習に使ってください。できたら母校の東亜大学の医学部。僕の最後のお願いです。約束して下さい」

 「またその話か……分かってる。献体には間違いなく回すようにするよ。しかし、なぜそれにこだわるのか……」

 「僕も医者の端くれですからね」

 「そんな医者の端くれが、なんで人殺して、死刑にされるのか……世も末だな」


 僕は献体になることを強く望んだ。つまりご遺体。医学部、学生の解剖実習に使われる。

 僕のホルマリン漬けにされた死体を見て学生たちは歓喜の涙を流すに違いない。十二年間の拘置所暮らしで僕はすっかり痩せこけた。豚箱の臭い飯は最高のダイエットメニュー……徹底的にケチな食事は僕の皮下脂肪をそぎ落とした。真皮の下はすぐに筋肉の層だ。感謝したまえ、学生諸君。

 逆に皮下脂肪に覆われたご遺体に当たった学生は狼狽することになる。ひたすら黄色の大量の脂肪と戦うことになる。気を抜くと大切な神経や血管を切ってしまう……疲労と課題のレポートのみが蓄積される。


 突然ドアが開き、紫色の袈裟を着た坊さんが現れた。どうやら僕のために念仏を唱えに来たらしい。

 「お坊さんがお経をあげてくれるから、心を静めて聞きなさい」

 坊さんは酷い口臭だった。空気中に放たれたメチルメルカプタンと硫化水素は線香の臭いと混じって僕の鼻孔を抜けて涙腺を刺激する。天に召される気分は、こうも不快なものなのか……これでは成仏なんかできそうにない。

 早くお寺に帰るがいい。そうだな……スクーターがいい。坊さんにはスクーターがよく似合う。


 永久とも思える時間が流れた。本当は十分程度だったのかもしれない。苦痛な念仏はようやく終わった。

 坊さんが立ち去ると、目の前に紙皿の上に乗せられた饅頭が二つ置かれた。

 「さあ、食べなさい……」

 最後の晩餐がまさか饅頭二つになるとは……レオナルドダヴィンチもさぞかし吃驚(びっくり)することだろう。

「糖尿病が心配なので、結構です」

 僕が丁重にお断りすると刑務官は苦笑いして最後の晩餐を下げた。

 僕が饅頭を断ったのは当然、糖尿病を心配しているからではない。この抑えきれない口渇感のせいだ。フルマラソンのランナーがゴールした瞬間にスフレを頬張ることができないのと同じだ。

 そしてもう一つ大切なのは、僕は自分の遺体が医学部生の解剖実習に使われることを強く希望しているということだ。口の中がこんなにもパサパサな状態では饅頭は丸呑みするしかない。

 自分の命が後何時間も持たないということは自分が一番よく分かっている。もう暫くすると僕は別室に連れていかれ、刑が執行されることだろう。饅頭を消化している時間はないのだ。

 僕の遺体は死亡確認された後、別施設に運ばれ大腿動脈から血液を抜かれることだろう。そのあと同じ血管から保存液を入れられる。ホルマリンか、はたまたフェノールか……遺体は保存液に浸されたガーゼで何層にも包まれてビニール製のケースに入れられる。出来上がりだ。

 解剖学実習は数人の班に分かれて行われる。その班に一体、一体、遺体は提供されていくわけだ。ビニール製のケースに収められて、保存液に浸されたガーゼの下で、今か今かと彼らは待っている。

 実習の初日、どんなに虚勢を張っていた学生でも実習室に入ると、借りてきた猫をさらに又借ししたくらいおとなしくなる。今まで嗅いだことのない保存液の鼻を突くような臭い……何十体と並ぶ遺体……

 目を只管(ひたすら)固くつぶる奴。

「まじか……」とただ茫然とつぶやく奴。

 こっそりトイレに駆け込み嘔吐(おうと)する奴。

 反応は様々だがそれぞれショックを受けているのだ。このシリアスな場面と日頃のだらけきった学生生活とのギャップに……そして今まで生きていた人間が遺体となって今、自分たちの目の前に横たわっている現実に……

 実習も3日目、4日目になってくるとだいぶ和やかになってくる。目の前の現実に慣れてくるのと同時に、遺体に対する思い方も変化する。徐々に人間ではなく「モノ」として見るようになるのだ。

 実習が終わるまで学生たちには遺体の生前の名前は公表されない。全てが終わるまで番号で呼ばれるのだ。名前というのは人間らしさを構成する一つの重要な要素だ。番号で呼ぶことで少しでも人間らしさを払しょくするのであろう。

 内臓系まで実習内容が進むといよいよ遺体は「モノ」になる。人間の形を徐々に崩しているというのも大きな原因の一つかもしれない。

 そんな時に胃袋から突然丸呑みされ原形をほぼ留めた饅頭が二つでてきたら大変だ。そんな無駄な生前の情報は必要ないのだ。

 「あら大変、この人はお饅頭を二つ、丸呑みした後に死んでるわ……」

 「心筋梗塞でも起こしたのかな」

 「脳梗塞か、若そうだからくも膜下もあり得るぞ」

 「もしかしたら死刑囚かもよ」

不思議な遺体を前にして学生たちは議論を始めるだろう。その瞬間再び「モノ」から人間になる。学生たちは今、人間をメスで切り刻んでいる現実に叩き落される。遺体の胃袋には饅頭は必要ない。


 「さあ、そろそろ時間だ」

 僕は再び目隠しをされると刑務官達に支えられるように奥の部屋へ向かった。 

 その部屋では十人以上の人の気配を感じた。ガチャガチャと無機質の物質同士がぶつかり合う音。

 おそらく奥では、白衣を着て、ラテックス性のゴム手袋を装着した男が僕のために特注のカクテルを調合していることだろう。生理食塩水にフェノバルビツール、サクシニルコリンを溶かしてシリンジへ……

 いよいよなのだ。この瞬間をずっと待っていた。

 ギャラリーは多ければ多いほどいい。生中継されてもいい。

 お茶の間で、リビングで、会社の食堂で、新宿駅東口で、病院の待合室で、僕の肛門にシリンジが突き刺さり、命を奪っていく様子が流れる。なんと愉快だろう。

 実際は僕が死刑にされたことなど、きっとニュースにもならず誰の耳にも届かないだろう。実に不愉快だ。だって、少なくとも僕を死刑にした51%の人間はこの瞬間を見届ける義務がある。そうだろ?


 金属製の台の上に乗せられ手足を固定される。これから死にゆく者に対して、温かみを感じられない冷たく不親切な金属製の台。その上に四つん這いにされる。

 まな板の上の鯉。

 なんと卑猥な恰好だろう。いつから日本の警察は、国家の犬からSMクラブに堕落したのか……

 これから死刑になるというのに、恐怖心より羞恥心のほうが、はるかに勝る。


 絞首刑は廃止された。死刑囚にも人権を……時代の流れとかいうやつなのか。

 とにかく苦しんで死んでいく絞首刑は廃止され、薬物による処刑が採用された。

 注射器を使ってはいけない。死刑囚は何をしでかすか分からない。凶器となるようなものは近くにおいてはいけないのだ。

 そこで、直腸内投与が採用された。血中の薬物濃度の上昇速度は静脈内投与の次に速い。つまり坐薬だ。高熱が出たときに速やかに解熱したいときは坐薬が一番だ。経口投与よりはるかに効果が高い。死刑も同じだ。速やかに処刑できる。何の問題もない。


 着ていたガウンが捲り上げられる。下着はすでにつけていない。準備満タンだ。

 「今から杉山正一の刑を執行する」

 まな板の上の鯉。

 肛門に塗られる潤滑ゼリー……ワセリンか?そんなことはもうどうでもいいのだ。

 あとはそれを突っ込むだけだろ?

 さあ、思いっきりこいよ!

 中にチューっと注入しろよ!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ