自分の世界しか知らないと、意外と知らないことが起きるもの
部室の空気は、どこか落ち着ききらないざわめきを含んでいた。
それぞれ鞄を開き、動きやすい服に着替えようとする新入生たち。木製のベンチの軋みや、チャックを
引く音だけが、妙に大きく響いている。
伊吹陽太は、黙ってその空気の中にいた。
快が元気に笑い、大谷が無骨に着替え、桐原が几帳面に道具を揃えている。3人が自然に馴染んでいく様子を横目に見ながら、どこかその輪に入り切れない自分を感じていた。
(……別に、俺は注目されたくない。ただの体験入部でいい)
小さく心の中でつぶやく。
双峰のテニス部は強豪ではない。ここなら「勝利」を突きつけられることもないはず――そう信じて足を運んだのだ。
そう思いながら、伊吹は鞄の口を開けた。
その瞬間、胸の奥がざわめく。
黒地に金色のラインが走る、シンプルでいて目を引くデザイン。胸元に縫い込まれた「RADIANCE」の刺繍。
(……やっぱり、これしかなかったか)
中学時代、毎日のように袖を通した練習着。洗濯を繰り返しても、布地に染みついた汗の匂いや、ラケットの摩擦で薄れた部分までが身体に馴染んでいる。
別のジャージを探す余裕もなく、結局このユニフォームを鞄に突っ込んでしまった。
(まぁ、別に知られても困らないだろ。大したスクールでもないし)
自分に言い聞かせ、伊吹は淡々と着替えを始める。
――次の瞬間。
「っ!? ちょっ……それ!!」
甲高い声が部室を突き抜けた。石田快だ。目を大きく見開き、信じられないものを見たように伊吹を指さす。
「え、おい、もしかしてそれって――!」
大谷圭祐も目を丸くし、思わず声をあげる。
「おいおいおい、マジかよ!? ラディアンスじゃん!」
部室の空気が一気に変わった。
ざわめきがざわめきを呼び、瞬時に全員の視線が伊吹に集中する。
伊吹は固まった。何のことか分からない。
「……ラディアンス?」
「とぼけるなよ、それ! ラディアンス・テニス・スクール、通称RTSのユニフォームだろ!?」
いつも冷静な桐原悠真が、椅子から立ち上がっていた。眼鏡の奥の目が熱を帯びて光り、普段の落ち着きを失っている。
「うわ……実物見るの初めてだ……。まさか同じ部屋で見られるなんて」
「え……そんなに?」
伊吹は思わず問い返した。
自分にとっては、ただの“日常”だった。
中学時代、周囲の誰もが同じユニフォームを着ていた。だから、それが“特別”だなんて思ったことは一度もなかった。
桐原は伊吹を食い入るように見つめ、早口で畳みかける。
「ラディアンスは全国でも屈指のエリート養成スクールだ。プロ選手を何人も輩出してるし、全国大会の常連。県どころか関東を代表する強豪だぞ。
そこに所属してたってことは、君……相当な実力者だろ」
「マジかよ……」「すげぇ……」
快と大谷が一斉に声を上げる。
「やっぱ本物だ……。あの“憧れの場所”から来たやつが、まさか双峰に……」
「こんなとこで一緒に練習できるとか……やべぇだろ」
口々に囁かれる声。
憧れと驚きと羨望の入り混じった視線が、伊吹の全身に突き刺さった。
――伊吹の胸に、冷たいものが広がっていく。
(……え? ラディアンスって、そういうスクールだったのか?)
知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
自分にとってラディアンスは、ただの「居場所を奪った場所」だった。
勝てず、控えに回り、先輩たちの壁役ばかり。コートの外で「次は頑張れよ」と肩を叩かれるだけの日々。
(そんな……俺はただの凡人だったのに。全国? エリート? そんなの、俺とは無縁だろ……)
心臓が急に早鐘を打ち始める。
手にしたユニフォームが、重さを増したかのように肩にのしかかる。
「す、すげぇ……。マジで本物だ……」
「こんなとこにラディアンス出身が来るなんて……奇跡だろ」
憧れと尊敬の視線。
伊吹にとっては“過去の重荷”でしかないものが、目の前の3人には“輝かしい肩書”として映っている。
(……やっぱり、またこうなるのか)
逃げてきたはずの場所で、また「特別視」される。
求めていなかった期待が、もう背中にのしかかり始めていた。
伊吹は、固まったまま動けなかった。




