すれ違う言葉
翌朝。
窓の外に差し込む陽光が、まぶたを刺すように眩しかった。
アラームが鳴る前に目が覚めた伊吹陽太は、天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。
全身が鉛のように重い。
腕や太ももに残る張りは、昨夜のトレーニングの名残だった。
“走ることでごまかす”――そんな逃げ方をした代償が、筋肉の痛みとして返ってきていた。
(……バカだな、俺)
苦笑しながら起き上がり、制服に袖を通す。
鏡を見ると、目の下には薄いクマ。髪は寝癖のまま。
整っているようで、どこか乱れている。
そんな自分の顔を見て、伊吹はふと、心のどこかがちくりと痛んだ。
(生徒会、テニス部……どっちも“やる”って言っておきながら、どっちつかずじゃねぇか)
ため息をひとつ落とし、鞄を肩にかける。
カーテンの隙間から流れ込む朝の光が、妙に遠く感じた。
*
登校路の坂道。
朝の通勤ラッシュに混じって、生徒たちのざわめきが響く。
制服の擦れる音、靴底がアスファルトを叩く音。
どれも当たり前の音なのに、伊吹には少し遠い世界の音に聞こえた。
「おーい、伊吹ー!」
背後から軽い声。
振り返ると、セミロングの髪をゆるく巻いた少女が駆けてきた。
朝日を反射して光るピアス。春風に揺れるカーディガン。
三谷莉緒だった。
「……なんだよ、朝から元気だな」
「いやいや、当選した“完璧超人“さんに挨拶しとこうと思って!」
「まだ就任もしてねぇよ」
伊吹の返しに、莉緒はニッと笑う。
「でも嬉しかったよ。うちだけ当選して、伊吹が落ちてたら気まずかったもん」
軽口のように言いながらも、その瞳には本物の安堵が浮かんでいた。
「で、昨日……夜、LINE返さなかったけど。何してたの?」
その一言に、伊吹の肩がわずかに揺れた。
夜、公園での自主トレ。
誰にも見られたくなかった時間が、唐突に脳裏に蘇る。
「……別に、なんも」
「なんも? なんか顔、疲れてない?」
「気のせいだろ」
莉緒はじっと見つめた。
眉を寄せ、少し呆れたように。
「気のせいじゃないって。アンタさ、また寝てないでしょ」
図星を突かれ、伊吹は視線を逸らす。
「……ちょっとだけ、考え事してた」
「ふーん。テニス部のこと?」
その名を聞いた瞬間、伊吹の胸の奥が静かに軋んだ。
否定したい気持ちと、言葉にできない迷いが入り混じる。
「……まぁ、そんなとこ」
「やっぱりね」
莉緒は頷いて、歩幅を合わせた。
(ホントにコイツには隠し事できないな…)
聞こえないような小さな声で呟くように言い、伊吹は視線を前に戻す。
校舎の屋根が見えてきた。朝日を反射して白く光る校門の向こうで、生徒たちの笑い声が響いている。
(俺は――どうしたいんだ)
自分の中の迷いが、形を持ち始めた気がした。
昨日の夜、公園で必死に走っていた自分。
体は動いていたのに、心は動いていなかった。
ただ焦燥を汗に変えていただけだった。
「なぁ、莉緒」
「ん?」
「お前って、進路に有利そう以外に、なんで生徒会入ったんだっけ」
唐突な質問に、莉緒は少し驚いた顔をしてから、笑った。
「んー……確かに他にも理由はいくつかあるけど。
単純に、“自分の手で何か動かせる場所”がいいなって思っただけ」
「動かせる場所……」
「そう。部活とかって、試合って勝つか負けるかじゃん。
でも生徒会って、アイデア出せば形になる。動けば結果が出る。……そういうの、気持ちよくない?」
彼女の言葉は軽い口調のままだった。けれど、妙に響いた。
「自分で動かせる」――その響きが、今の伊吹には眩しかった。
「……俺は、何も動かしてねぇな」
「え?」
「いや、なんでもない」
歩きながら、伊吹はふっと息を吐いた。
校門の前、春の風が制服を揺らす。
莉緒はそんな伊吹を横目で見ながら、少しだけ微笑んだ。
「アンタさ、たぶん頑張る方向間違えるタイプだよね」
「……どういう意味だよ」
「本気出すのが怖くなるくせに、結局サボれない。
でもそれってさ、裏を返せば“ちゃんと前に進みたい”ってことじゃん」
あっけらかんとした口調。
けれど、その言葉がなぜか胸の奥に刺さった。
(……前に進みたい、か)
昨夜の公園で、足を止められなかった理由。
あの時も、どこかで“まだ終わってない”と信じていたのかもしれない。
「……お前って、たまに核心つくよな」
「うち? ただの天才だから」
冗談めかして笑う莉緒。
その笑顔を見て、伊吹も思わず小さく吹き出した。
空は、昨日よりも少しだけ澄んでいた。
春の陽射しの中、二人の影が並んで伸びていく。
(俺は、まだ迷ってる。でも――止まってはいけない)
伊吹は心の中でそう呟いた。
迷いの中でも、少しずつ何かが動き出している。
その確信だけを胸に、彼は校門をくぐった。




