揺れる心と、静かな汗、小さな決意
生徒会選挙の当日、放課後の校庭にはまだ拍手の余韻が残っていた。
投票結果が放送で自分の名前が呼ばれた瞬間、伊吹陽太は何かを掴んだというより――何かを置き去りにしたような感覚を覚えた。
「……おめでと、伊吹!」
莉緒が笑顔で駆け寄り、手を軽く叩く。
「一緒に頑張ろ。行事も、会議も、全部」
その笑顔に救われるように伊吹も小さく笑ったが、胸の奥のどこかが静かに疼いていた。
――本当に、これでよかったのか。
家に帰っても、その問いはずっと頭を離れなかった。
テニス部のこと。篠原コーチの言葉。
「全国を目指す」という宣言。
あのとき胸の奥でくすぶった違和感は、消えるどころかじわじわと広がっていた。
(俺は……また逃げたんじゃないか?)
机の上には、生徒会執行部の資料。
隣には、ラケットケース。
どちらも“自分の選択”の象徴のように見えて、どちらも中途半端に感じた。
気づけば伊吹は、ジャージの上着を羽織り、外に出ていた。
*
夜風が涼しかった。
街灯の明かりがぼんやりと照らす住宅街の道を抜け、いつもの公園に着く。
ブランコも滑り台も、子どもたちの姿はなく、静まり返った夜の空間。
虫の声と、遠くの車の音だけが響いている。
伊吹は誰もいない砂場の脇に立ち、深呼吸をした。
――ラディアンス時代、いつもここで体を動かしていた。
夜の自主練。誰にも見られたくなかった“焦り”の時間。
(……どうして、またここに来てんだろ)
自分でも理由がわからない。
けれど、何もしないままでは息苦しかった。
心の中のモヤモヤをどうにかしたくて、体を動かすしかなかった。
スニーカーの紐を締め直し、軽く屈伸をして、腕を回す。
空気はひんやりしているのに、胸の奥だけが熱かった。
(やるか……)
言葉にならないつぶやき。
伊吹は地面を蹴った。
*
まずはシャトルラン。
20メートルの往復を、自分のリズムで繰り返す。
「ピーッ」と聞こえるはずの笛の音はない。
代わりに聞こえるのは、自分の息と、靴底が砂を弾く音。
往復を繰り返すごとに、肺が焼けるように熱くなっていく。
体は覚えていた――かつて、何百回も繰り返した動きを。
(勝ちたくて、必死だった。……でも、あの頃の俺は結局、誰の期待にも応えられなかった)
足が止まりかける。
それでも伊吹は止まらなかった。
顔をしかめながら、呼吸を荒げ、もう一往復、もう一往復と足を前へ出す。
(あのスクールでは、勝つやつほど笑ってた。
負けるやつほど、自分を責めてた。
俺は……後者の方だった)
肩で息をしながら立ち止まり、汗を拭った。
呼吸が乱れ、頭がぼんやりする。
それでも、手は無意識に動いていた。
ラダーを想定して、地面に見えない格子を描く。
ステップ、ステップ、サイド、クロス。
リズムを刻むたびに、過去の記憶がよみがえる。
「もっと速く!」
「甘い! 足が遅い!」
コーチの声。
仲間の視線。
汗と土の匂い。
そのすべてが、今の自分を押し潰すように蘇る。
(俺は、なんであの場所から逃げたんだ?)
息が荒くなり、視界が滲む。
答えのない問いが、何度も何度も頭の中でループする。
(勝ちたくなかったわけじゃない。
でも、あの“勝つためだけ”の空気が、怖かったんだ)
いつの間にか、膝に手をついてうずくまっていた。
冷たい風が頬を撫で、汗が夜気に溶ける。
(テニス部も、生徒会も……どっちも“正しい場所”なんて思えない)
ただ一つだけわかるのは、
“何かから逃げ続けている”という事実だった。
*
空を見上げると、雲の切れ間に星がひとつだけ瞬いていた。
小さくて、遠くて、届かない光。
それでも確かに、夜空に存在している。
(俺も……ああやって、どこかに踏ん張って立っていられるのかな)
深呼吸をして、もう一度立ち上がる。
足の裏に伝わる地面の感覚が、少しだけ現実に戻してくれる。
今度は腕立て。
ゆっくりと体を下げ、上げる。
数を数えながら、心の奥のノイズを消していく。
「……1、2、3……」
静かな夜に、自分の声だけが響いた。
孤独なはずなのに、不思議と落ち着く。
何も考えずに動いていると、ようやく息が楽になってくる。
(そうだ。考えるから苦しいんだ。考えなきゃいい)
けれど――
そう思った瞬間、頭の奥で莉緒の声が蘇った。
『伊吹ってさ、勝ってもあんま嬉しそうじゃないよね』
『もっとバカみたいに喜んでいいのに』
その言葉が、胸の奥を突く。
(……俺、いつからそんな顔しかできなくなったんだろ)
ラケットを握るのが怖くなっていた。
また期待されることが怖かった。
それでも、完全に手放せない。
手のひらの感覚が、あのコートの空気を今も覚えているから。
(結局、俺は中途半端なんだな……)
呟いた声が、夜風にかき消された。
遠くで時計の針が10時を回る音がした気がした。
腕時計を見て、伊吹は小さく息を吐いた。
「……帰るか」
そう言って立ち上がる。
けれど足は、まだ地面にしっかりと根を張っていた。
最後にもう一度、深く息を吸って、短いダッシュを始める。
20メートル、往復三本。
息が切れるまで。
走って、止まって、また走る。
ただ、それだけ。
理由も、目的もない。
けれど――
胸の奥にあった霧のようなものが、ほんの少しだけ晴れていく気がした。
夜風が頬を撫でた。
空を見上げると、星がひとつ、さっきよりも少しだけ明るく瞬いていた。
伊吹はその光を見上げたまま、ゆっくりと息を吐いた。
(――もう少しだけ、自分を探してみよう)
そう呟いて、伊吹は公園を後にした。




