葛藤⑦
四月も下旬に入り、校舎の掲示板に新しい紙が貼られた。
――「生徒会執行部選挙 立候補受付開始」
白地に黒文字の告知。特別な装飾はなく、ただ日程と手続きの説明が並んでいるだけだ。
それでも廊下を通る生徒たちは足を止め、自然と話題にしていた。
「もうそんな時期か」
「一年からも出るよな、毎年」
「推薦枠あるし、進学で役立つって聞いた」
当たり前の行事として受け止められている。誰も驚かない。
伊吹陽太も、教室に戻る途中でその掲示を眺めた。
(……生徒会選挙か)
頭の中に、あの夜の記憶がよみがえる。
公園で走り出してしまった自分。
「不器用だね」と笑った莉緒の声。
――そして、変わりたいのに変われない自分。
昼休み、廊下で再びその掲示を眺めていたときのこと。
「うち、立候補するつもり」
隣に立った三谷莉緒が、まるで雑談みたいに言った。
「……は?」
伊吹は思わず振り向いた。
莉緒は髪を耳にかけながら、さらりと続ける。
「双峰の生徒会ってさ、体育祭も文化祭も球技大会も、ぜんぶ自分たちで動かすでしょ? 進学のこと考えても、経験して損はないと思うんだよね」
その口調は軽い。けれど瞳には、明らかに本気が宿っていた。
「それに……一人じゃちょっと心細いし。アンタも出なよ」
「俺も?」
「そう。入学式で代表スピーチやったじゃん。全校に顔は知れてるし、票集めも楽だよ」
冗談みたいに言うが、その実、核心を突いている。
伊吹は曖昧に笑ってごまかした。
「……俺はそういうタイプじゃない」
「知ってる。でもさ、“違う環境”に入ったら、ちょっとは変わるかもよ?」
莉緒はそれ以上言わず、手を振って教室へ戻っていった。
残された伊吹は、その言葉の余韻を引きずったまま立ち尽くす。
夜。机に向かってみても、英単語帳の文字はまるで頭に入らなかった。
窓の外、暗い住宅街にぽつりぽつりと灯る街灯を見つめながら、伊吹は自分に問いかける。
(俺は、何がしたいんだ? テニスか、生徒会か……それとも、どっちも違うのか)
答えは出ない。
ただひとつ分かるのは、このままでは何も変わらないということだった。
部活ではまた期待を背負わされる。
勉強では「優等生」として見られる。
けれど、自分自身はずっと立ち止まったまま。
――「違う環境に入ったら、ちょっとは変わるかもよ?」
莉緒の声が蘇る。
その軽さが、逆に胸に突き刺さる。
(……変わりたい)
気づけば、机の引き出しを開けていた。
配布された「生徒会選挙要項」のプリントが出てくる。
必要事項、提出期限、演説の日程。文字がやけに鮮明に目に飛び込んでくる。
伊吹は深く息を吐いた。
不安もある。自分にできるのか、本当にやっていいのか。
だが、選ばなければ何も変わらない。
(……立候補、してみるか)
まだ小さな決意にすぎない。
けれどその瞬間、胸の奥のもやがほんの少しだけ晴れた気がした。
翌朝。
生徒会室前に置かれた立候補届の用紙を、伊吹陽太は無言で手に取った。
その横で、同じく届を手に取る三谷莉緒の姿があった。




