葛藤④
部活を終えた夜。
風呂上がりの伊吹陽太は、自室のベッドに腰を下ろし、天井を見つめていた。
窓の外には、春の夜の静けさ。遠くから電車の音がかすかに聞こえ、街灯の光がカーテン越しに滲んでいた。
けれど、その静けさとは裏腹に、胸の内は落ち着かない。
(……篠原コーチの言葉)
「三年はダメだ。だが、お前を見て全国を目指したいと思った」
真剣に言い切るあの眼差し。
あのときの熱が、今も鮮明に焼き付いて離れなかった。
そして、昼の教室で三谷莉緒が言った言葉。
「アンタ、また“背負わされてる顔”してるよ」
「別にいいじゃん。勝ちたいなら勝てばいいし、楽しくやりたいならそれでいい」
二つの言葉が胸の奥でせめぎ合い、伊吹の心を掻き乱していた。
(……俺は、どっちなんだ)
テニスを「楽しみたい」と思ってここに来た。
でも、本気を知っている自分が、ただ笑ってラケットを振るだけで満足できるのか――答えは出ない。
伊吹は机の引き出しを開けた。
奥に押し込まれていた一冊のノートを取り出す。
黒い表紙が擦り切れたそのノートは、中学時代ラディアンスで使っていた練習記録帳だった。
ページをめくると、びっしりと書き込まれた文字が目に飛び込んでくる。
「外周10km」
「サーキットトレーニング 20分」
「ダッシュ×30本」
「体幹5分×3セット」
読み返すだけで息が詰まりそうになる。
その文字列の一つ一つに、苦しい記憶が貼り付いていた。
肺が焼けるように痛む冬のランニング。脚が鉛のように重くなっても止まれないサイドステップ。全身が汗で濡れても、まだ終わらない体幹トレーニング。
(……もう二度と、こんなのやるもんかって思ってたはずなのに)
胸がざわめく。
けれど同時に、不思議な感覚が生まれていた。
過去の苦しさをなぞる中で、心の奥にわずかな熱が残っているのを感じたのだ。
(俺は……あのとき、本当に“凡人”だったのか?)
ノートを閉じ、伊吹は立ち上がった。
気づけばジャージに着替え、スニーカーを履いていた。
「……ちょっとだけ」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
家を出て歩くと、春の夜風が頬を撫でた。
数分で近所の小さな公園に着く。
街灯に照らされた砂地の広場。遊具の横には誰もおらず、静かな空気が広がっていた。
伊吹は深呼吸をして、腕を回した。
そして――地面に手をつく。
「……プッシュアップ、30」
腕立て伏せを始めると、体が自然に覚えていたリズムを刻む。
背中に汗がにじみ、腕が悲鳴を上げても、回数を数える声が止まらなかった。
続けて腹筋。足をベンチにかけ、上体を起こす。
ラディアンスでやらされた数百回には遠く及ばないが、久しぶりに腹筋を酷使する感覚が蘇っていく。
(……なんで俺、こんなことしてんだろ)
苦笑しそうになる。
でも、体を動かすたびに胸の奥のもやが少しだけ晴れる気がした。
さらに、砂地のコートを使ってダッシュを始める。
「20メートル、往復!」
声を出すと、夜の静けさに響いて恥ずかしい。それでも、体が勝手に動いた。
息が荒くなり、脚が重くなり、汗が首筋を伝う。
全力で走る自分。
その姿が、どこか懐かしくもあり、悔しくもあった。
(俺は、あのとき……諦めただけなんじゃないのか)
ベンチに腰を下ろすと、心臓が激しく脈打っていた。
頭の中に浮かぶのは、篠原の言葉と莉緒の笑み。
「伊吹、お前と全国に行きたい」
「別にいいじゃん。楽しくやれば」
二つの声が交錯し、胸を締め付ける。
(俺は、どっちを選べばいいんだ……)
夜風に吹かれながら、伊吹は天を仰いだ。
街灯に照らされた視界は白く滲み、汗が頬を伝って落ちていく。
その雫が地面に落ちた瞬間、伊吹の胸にはまだ答えのない迷いだけが残っていた。




